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『脱輪の140字に応答セヨ!』👾👽~だーにゃと主語と愛するということ、からの印象の自由~

 今回のお題が『脱輪の140時に応答セヨ!』ということで、お題の対象ツイートを眺めていたら、「お、これは!?」というものが見つかった。

それがこちら。

 まず、このツイートの前半を「主語に関する問題」と捉えたうえで、ぼくが高校で英語を勉強していた時に「なるほど」と納得したことの紹介からはじめたいと思う。

 “英語における主語とは何か?”

 こう問われた時、多くの日本人は、“意味において「…が」とか「…は」を表すもの”、と答えるのではないのだろうか。ちなみに、ぼくの手元にある、旺文社の「ロイヤル英文法」における主語の解説を要約してみると、

文の主題となる部分(「…が、…は」)を主部といい、主部の中心となっている名詞あるいは名詞相当語句を主語という

となっている。

 なるほど、たしかに多くの日本の英語教育の現場ではこう教えられているだろうし、ぼくも中学生時代にはこのように習った気がしないでもない。ところが、高校生になったぼくは何かの参考書(残念ながらその名前は忘れてしまった)で、以下の内容を学ぶことになる。

主語とは述語動詞が表す動作の影響・効果を受けるものである

 「へ!?主語が文の中心ではなかったの???」

 まさに青天の霹靂。英語を学んできたそれまでの数年間、ぼくは主語こそが英文の中心だと思い込んでいた。ところがそこに、突如としてこんな定義が現れたのである。これではまるで、動詞こそが英文の主役ではないか。

 そこで、"subject(主語)"の語源をすぐさま調べてみたところ、実はこれは全く驚くようなことではないことが判明した。そもそも、英語におけるsubjectとは元々そういう意味で使われてきたことばだったのだ。ちゃんと教えてくれよ、ガッコーの先生。参考までにその時に知り得たざっくりとした情報を以下に紹介する。

 subject(主語)の語源は、古代ギリシアの賢人アリストテレスが用いた、hypokeimene hylē(ギリシア語で"根底に存在するもの")をラテン語に翻訳したsubjecta materia。17世紀の中世英語では「動作の効果を受益する者/モノ、その影響を受ける者/モノ」を意味する文法用語として使われていることが確認されている。

 ここで、これ以降の内容の理解を簡単にするため、少し乱暴に、英文における主語と述語動詞(以下、動詞という)の重要度を「動詞≧主語(=動詞の重要度は主語に等しい、あるいはそれを上回る)」と定義した上で、脱輪編集長のツイートの前半を振り返ってみよう。

「私はこう見た」の「私は」を可能にする条件として「見た」はあるわけで、「見た」と言うためには具体的な見る=読む技術(Way Of Seeing)の習得と歴史的文脈の把握が不可欠

 この内容で十分にわかりやすい表現になっていると思うけれど、多角的な理解を作るために、改めて、別の動詞「愛する」に置き換えて考えてみることにする。

 “私はあなたを愛している”

 この文を具体例として考えた場合、この文が文字通りの意味を持つためには、“愛する”ことがどのような行為なのかを、"私"が正しく理解し、その技術を習得している必要がある。

 "愛"、"技術"と来れば、エーリッヒ・フロム(Erich Fromm)の著作「愛するということ(Die Kunst des Liebens)」が頭に浮かぶ人も多いことだろう。Kunst(=Art =技術)というタイトルが伝えるとおり、”愛することは技術である”という前提からこの本ははじまる。

 大学時代のとある講義でぼくはこの本と出会った。その内容は今でもほとんど覚えているほどにわかりやすく興味深いものだったのだが、ひねくれ者のぼくはふと、こう思ってしまったのだ。

—技術であるのは、特に"愛することに"限ったことじゃなくね?

 人と”話す”技術。音楽を”聴く”技術。映画を”見る”技術。料理を”味わう”技術。スマホを”使う”技術。ゲームで”遊ぶ”技術。

—動作を表す動詞って全部、技術じゃね🤔?

…と。

—愛するということとは?
与えること
許すこと
愛のままにわがままに僕は君だけを傷つけないこと

 例えば、"誰かを愛する"ことが上記のいずれかだったとした場合、そのどれもが意識や努力を要するとみなされるのが一般的な認識であると思うし、同時に、これらの行為は研鑽されることで洗練されていくことも間違いないだろう。幸運なことに、生まれながらにしてこうした技術を高水準で持ち合わせている人がいるという事実はあるけれど、多くの人にとっては、そこに至るために修練が必要となることに疑念を差し挟む余地はない。

 つまり、"あらゆる動作は技術である"という認識に基づいた場合、努力/研鑽してそれらを習得しようとする意思と共に取り組まない限り、まともなものを身につけることは叶わないということである。もちろん、そのためには目標なり理想形を見据えなければならないが、それらが具体的にどういったものであるかについては技術ごとに議論がある、という認識で構わないと思う。

 「努力する」などは、身近なわかりやすい例として挙げることができるのではないかと思う。「努力したのに…」などと発言している主体を注意深く見てみると、”ちゃんと努力できていない”場合がよくある。もちろん、これは努力と結果にある程度の相関関係を期待することのできる場面に限られる話ではあるのだが、努力したと思っているのは当人だけで、それが適切な努力でなければ実を結ばない、あるいは少ない成果しか得られないのは当然なのだ。最も、この「努力する」という技術ほどに、その具体的な方法論が場面によって変化する行動もない。だからこそ、それを口にする以上は、しっかりとその中身と適切さを客観的に評価できる姿勢を持ち合わせることを求めていきたいものである。

 いずれにせよ、ちゃんと方向性を持たせて磨いていかないと、まともな技術は身につかない。そして、まともな技術水準に達した動作/行為をすることで、はじめて主語はその動作の主体たりえるというわけである。その水準に達していない動作/行為は”した気になっているだけ”と評価することもできるだろう。

 さて、ここでようやく脱輪編集長の主張と繋がる運びとなる。すなわち、「私はこう見た」と誰かが発言した場合、私たちは、その人は適切な”見る技術"を備えた人であるのかを見定めたうえで、その発言の持つ意味を推し量らなければならない…とゆーよーなことを編集長は言っていると思っているのだけれど、違っていたらごめんなさい。

 次に編集長のツイートの後半部に目を移してみる。ここで編集長が指摘する、”歴史的文脈の把握が不可欠”という点は非常に重要であると考えられる。

 例えば日本人が大好きな民主主義について考えてみる。この民主主義を語るうえで、果たしてどれだけの日本人が、この政治体制が西洋で流された血の海に浮かんでいることを観念することができているのだろうかと、いつも疑問に思う。

 以前、歴史学を専攻するフランス人留学生に「現地の人にとってフランス革命ってどうなの?」と質問をする機会があった。「明らかな蛮行だね。いくら王様に不満があったとはいえ、その首をギロチンで刎ねていいという道理なんてないよ」という率直な彼の答えに驚いたことがあった。

 これはもちろん彼個人の意見ではあるのだが、猿真似にも等しいかたちでその外形だけを取り込んだ日本の民主主義を、いかなる歴史的文脈の解釈に基づいているにせよ、その把握を踏まえた上で理解を試みている人がどれだけいるのだろうか。

 礼儀としてのお勉強をすら欠いた「私は」が暴力的に蔓延っている現状。自由な感性is妄想。

 こう編集長は締め括っているが、まったくその通りである。現在のこの国では、多様性や自由といったことばが、この暴力性を肯定するために都合よく用いられている局面が多く見受けられるし、残念ながら、おそらくはこの文脈で使い続けられてしまうのだろうと思う。

 先日、「若者のワサビ離れ」というキーワードがTwitterのトレンドにあがっていたのを目にした。これについては、やれ「ワサビを食べることを善としたマウント行為」だの、「若者だろうが老人だろうがワサビを嫌いな人はいる」だのと、好き放題な発言が溢れかえっていた。なぜ、言葉尻だけを捕まえて、その報道が報じようとしている本質を汲み上げようとしないのだろうかと不思議に思うことしきりだったが、”読む技術を持ち合わせていない”というのが実際のところなのだろう。彼らは”読みたいように読みたい”のだ。

 それは”愛している”という言葉から、「愛されているから何をやっても許される」という意味を導き出すことと、仕組みとしては何ら変わらないのだと思う。要は、その技術がどんなものなのかについての正しい理解がないから、あるいは、どのような経緯を経てそのような考え方が生まれたのかを知らないから、自分勝手な理解をつくりあげてしまうのだろう。

 私たちは、あらゆることについて右も左もわからない石器時代を生きているのではない。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」とは鉄血宰相ビスマルクの言葉だったか。なぜ、せっかく先人たちが積み上げて来てくれたものに習おうとしないのか、個人的にはこれほど不可解なことはない。

 表現の自由(Freedom of Expression)の次に来るのは、印象の自由(Freedom of Impression)になってしまうのだろうか。どう表現しようと、どんな印象を受けようと自由であるべき…なんてことが声高に主張され始めたとしたら、もはやそれはただの野放図である。

 というわけで、だーにゃと主語と愛するということ、からの印象の自由でした。

おしまい

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