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👊🏻💗『わたしの推し記事』🤞♡

#文サお茶代 メンバーの作品の中から「わたしの推し記事」を紹介せよ、とのことなので、今回は、リリーさんとユヱさんの記事を推したいと思う。

 ほとんど本を読むことのないぼくではあるけれど、好きな文章というのはある。自分の考えを自分の言葉で語っている文章がそれなんだけど、基本的には「○○は~だと言っている」だとか「■■では…だとされている」といった語り口で、伝聞が列挙されているだけの文章はそもそも読む気にならない。ぼくに関して言えば、その手の文章は、そこで扱われている話題について興味を持って積極的に読むつもりがないと1ミリも頭に入ってこない。

 その点、彼女たちの文章は、感情の波に揺られるがままに思っていることが書かれていることが感じられて、読み心地がとてもよい。読み手に理解を求めるわけでも、共感を押し付けるわけでもなく、ただそこにあるのは"書いた人の想い"だけ、というのがぼくにはとても味わい深く感じられるのだ。「あぁ、この人はこんなことを思いながらこの文章を書いたのだな」とストレートに伝わってくる文章がぼくの好みなのかもしれない。

 そう考えると、ぼくが日本の古典における女流作家の作品が好きなのは、日常のささやかな風景に対する彼女らの穏やかな心持ちや、憧れに対する荒ぶる感情を、時に抒情的に、時に暴走気味に筆に載せて書き著している様が想像できることが一番の理由なんだと思う。男性が書いた文章はなかなかこういう具合にいかない。

 そして、"その文章を書いたのがどんなことを考えている人なのか"が見えてくると、文章中で触れられている話題について、「そんな風に考えているあなたは、それについてどう思っているのですか?」といった具合に、それまでの自分にはなかった積極的な興味の持ち方が生まれてくる。リリーさんがセーラームーンを、ユヱさんがカリスマを推す記事は、まさにそんな気持ちにさせてくれるものだった。

 数か月ほど文章を書いてみて気づいたのは、文章は書き手の姿をよく映し出すということである。小説などで別の人格をシミュレートする場合でもない限り、用いられている言葉や表現のひとつひとつにその人の在り様のようなものが素直に表れてくると思う。

 概して、耽美な文章の中の人は耽美な感じだし、小難しい文章の中の人は小難しい。だからこそ、情感豊かな文章を書く人は情感豊かである傾向を見せるのではないかとぼくは思っている。大学の講義で、禿げ散らかったおっさん講師が「実は私〇〇ってペンネームでハーレクインロマンスを書いているんですが…」なんて話を始めた時には面食らったものだが、やはりそれは小説という作品スタイルが成せる業だったのだろう。

 というわけで、書いている人がどんなことを思っているのかがよく表れている文章は楽しい、というポイントでお二方の記事を推したいと思います。

おしまい

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