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新井英樹『キーチ‼』『キーチvs』

新井英樹の『ザ・ワールド・イズ・マイン』をかなり強く推す書評が流れてきた。ちょうど、新井英樹の作品が全巻無料キャンペーンの真っ最中だったこともあり、『キーチ‼』を読んでみた。強烈なインパクトで、続編の『キーチvs』まで一気に読んでしまった。難しい作品だが、せっかくなので読んだ感想をまとめてみたい。

あらすじ

【3歳】本作はカリスマ、染谷輝一の生涯を描いた作品である。物語は彼が3歳の時から始まる。彼は何を考えているかわからない、手の付けられない暴れん坊として描かれるが、ところどころにカリスマ性の片鱗が見受けられる。

そんな彼の成長をゆっくり描いていくのかと思いきや、両親が唐突に事件に巻き込まれ死亡する。そこから、輝一はホームレスと暮らしたり、殺人の現場を目撃したり、大人のセックスを目撃したり、捨てられたりと壮絶な時間を過ごす。しかし、その過程で彼は両親の死を受容し、「一人で生きること」に関する思想を獲得する。

【小学生】その後、行方不明からの生還を果たした彼は、社会構造への違和感に敏感で、自分の気持ちに沿って打算なく行動を起こすような、異端のカリスマとなっていく。その輝一のカリスマ性を見出した同級生の甲斐慶一郎は、輝一からの信頼を獲得し、彼をプロデュースすることで世の中を変えようと野心を抱く。

やがて、身近な少女が親に売春を強要されていたことを知り、その問題と対峙するうちに社会の腐敗と向き合うことになっていく。

【キーチvs】輝一が世間的に認知されてから10年、甲斐が中心となって輝一の教えを乞うような団体が作られ、カリスマとしての立場は確固たるものになっていた。しかし、甲斐はその団体は偽物だったと宣言し、代表を降りることになる。

その後、大規模な社会的腐敗と対峙したこと、ある団体と出会ったことから、輝一はまた大きな行動を起こすことになり・・・

作品のメッセージ

2作品を通じての作品のテーマは、おそらく「自立」だろう。『キーチ‼』では自分自身を押し殺しさないこと、理不尽に耐えるのではなくちゃんと抗うことなどが表現されているように見える。

このような在り方を体現してみせた輝一は、しかし『キーチvs』ではカリスマとしてあがめられ、依存されてしまう。そして、面白いことに、輝一はあがめられることに辟易し、否をつきつけるのだ。

それは考えてみると当然のことで、輝一の在り方を肯定するというのなら、輝一を崇拝するのではなく、個人個人が自分を在り方を変えるべきなのだ。輝一を崇拝し「自分の抱える不満を解決してくれるのではないか。」とすり寄ることは、輝一の思想を否定する的外れな行為となってしまう。

だから輝一は信者を突き放す。自分で考え、行動を起こすように要求する。特に、政治家をしっかりと監視し、公約を果たしていなかったら糾弾するように要求する。

この要求は、言ってしまえば民主主義の原則に過ぎない当然の要求だ。本来は輝一が命を懸けて伝えるようなことではないだろう。しかし、それでも輝一がそれを訴えなくてはならないほどに、日本の市民の在り方は絶望的なのだ。

だからこそ、民主主義社会の市民としての自立を問うというところに、作品の主要なメッセージがあると受け取っていいだろう。

輝一の生きざまと死にざま

作品のもう一つの見どころは、やはり輝一のカリスマ性である。『キーチ‼』では輝一のカリスマ性そのものを楽しんでいればよかったが、『キーチvs』ではカリスマとして祭り上げられたことへの違和感が描かれる。

終盤、恋を知った輝一は尖ったカリスマ性を失っていく。そして童貞を捨てたあとには、ほとんど別の人間になってしまう。彼の脳裏には、見苦しくても生き残り、愛する人間と生きていくような道もよぎっただろう。

しかし、彼はカリスマとして死ぬことを選ぶ。彼の死に様は強烈で、彼の突き上げた拳はしばらく忘れられないだろう。しかし、輝一の発したメッセージは時間とともに風化し、多くの人には残らなかった。少数ながら彼を覚えている人たち、輝一の子どもが生を受けたことがささやかな希望として提示され、物語は終わる。

『キーチvs』というタイトルをみて、『キーチ‼』の読者は「輝一がまた社会の腐敗と戦うぞ」と期待したかもしれない。しかし、腐敗した大人を糾弾し、罰してもキリがない。だからこそ、輝一が対峙したのはそのような社会構造を消極的に容認し続ける市民一人ひとりだった。

読者もまた、輝一がカリスマとして生き、カリスマとして死ぬ様を目撃した。だから読者は選択しなくてはならない。作中の大衆のように輝一を消化し、忘れてしまうのか、それとも彼の存在を心にとめておくのか。そして、後者を選ぶのであれば、社会の在り方を他人事として眺めることはもう許されないのだ。