藤原伊織『ダックスフントのワープ』
本作は『テロリストのパラソル』などで有名な、藤原伊織の処女作である。藤原伊織といえばウィットに富んだ知的な会話がウリのハードボイルド、という印象が強い。しかし、本作は村上春樹っぽさの漂う、純文学となっている。
高校生の頃からこの作品が大好きで、何度も読み返してきた。ただ、今回久しぶりに読み返してみると、以前よりもはるかに深く理解できた気がした。物語を解釈してnoteに書く、という習慣のおかげかもしれない。
せっかくなので、思ったことを書いておきたい(ド直球のネタバレあり)。
あらすじ
本作は、心理学科の大学生の「僕」が、10歳の少女「マリ」の家庭教師となり、交流する物語だ。家庭教師といっても、勉学を教えるのではない。マリの持つ内面的な問題を解決するための、有料の友人、有料の話し相手というのが役割だ。
マリの持つ内面的な問題は2つに分けられる。一つは家庭の事情によるものだ。父親は高名な建築家で、20歳の女性と再婚している。10歳しか離れていない新しい母を、マリは「新しいママ」と呼ぶ。そして、両親ともに没交渉になっている。
もう一つの問題は、頭の良さゆえのコミュニケーション難だ。マリは10歳にしてはあまりに聡明で、理屈っぽい。例えば彼女の趣味は、広辞苑を読んで言葉を覚えることだ。だから彼女は、同級生と上手に付き合えない。
そんな彼女とコミュニケーションをとり、心を解きほぐしていくのが「僕」のミッションだ。「僕」のとった手段は、彼女と話しながら即興で物語を紡ぎ、語り合うことだった。
スケートボードに乗った、年老いたダックスフントの、誇り高い冒険譚。
この物語を通じて交流するうち、僕とマリとの交流は深まり、マリに変化が生じていくのだが…
雑感
冒険譚を挟んだ対話が面白い
「僕」が語るダックスフントの冒険譚だけでも面白い。老犬の価値観、行動原理は、それ単品で十分に読者を惹き付けるものだろう。
マリの受け答えも面白い。それに、年齢に不釣り合いな語彙力と、10歳相応の未熟さと素直さのギャップが可愛らしいのだ。
マリの話し方は、例えば以下のようなものだ。
対話を通じ、マリと「僕」との間に信頼関係が作られていく。この光景はとても心温まるものだ。そのまま、何のヒネリもなくマリが明るくなってハッピーエンドでも自分は満足しただろう。
ひねくれものの「僕」
主人公である「僕」のキャラクターは曲者だ。マリとの対話をみている限りでは、好ましい人物に思える。とても聡明で、常に気の利いた受け答えをしてみせる。
一方で、他のパートを読んでいると、彼が大きな欠落を抱えていることも伺える。「僕」は理知的で、感情を交えずに物事を判断できてしまう。自分が当事者である物事ですら、どこか外側から見つめてしまうのだ。
「僕」は、自分らしく在るだけで周囲の人間のバランスを崩してしまう。
相手の考え方の、よく言えば情緒的、悪く言えば主観的な部分について、常に「客観的な視座ではこうですよ」と突き付けてしまうからだ。
自分らしく在るだけで周囲のバランスを崩してしまうのであれば、自分を曲げるか、あるいは他者との関りをさけるしかない。「僕」は、自分の理想を曲げることを嫌い、後者を選んで生きているのだ。
結末をどう受け止めるか(直球ネタバレゾーン)
マリも、理性的で客観的な態度をとることで、周囲のバランスを崩していた。「僕」とは似たもの同士なのだ。
特に、「新しいママ」のバランスは大いに崩れていた。様々な事情によるものだが、大きな要因の一つはマリだった。自分を「新しいママ」と呼び続け、交流を拒絶する、10歳の義理の娘だ。彼女が傷つくのも無理はない。
新しいママの精神状態が深刻なものになったとき、マリは「僕」に関わり方を相談する。「僕」は「自分にはアドバイスをする資格がない」としつつも、マリと対話する。
そしてマリは「新しいママ」と向き合うことを選択する。重たい決断だ。
マリはいっしょに水族館に出かけることを提案する。しかし「あたらしいママ」はアルコール中毒のような状態にあり、突如として足がもつれ、駅のホームから線路に落下してしまう。
「ママ!」と叫び、マリは躊躇なく線路に飛び降りた。そして電車に轢かれ、二人とも即死した。
「僕」とマリの関係も、二人で紡いできたダックスフントの物語も、ここで暴力的に途切れることになる。
マリの担任から死亡の報を受けた「僕」は、「マリを積極的に死に追いやったのは自分である」と告げる。電話が終わった後、コップにウイスキーを注ぎ、椅子に座って「乾杯」と独り言ちる。
ダックスフントの物語は、「語る木」の問いかけにダックスフントが命をかけて答えることで完結するはずだった。その問いかけに主人公は耳を傾ける。マリがいないと、その物語は先に進まないことを知りながら。
…何度も読み返してきたが、この結末はずっと消化できなかった。意表をつき、読者を驚かすだけの悪趣味な終わり方ではないか。そのままマリが素晴らしい人間に成長しても良かったのではないか。ダックスフントの物語も感動的なフィナーレを迎えても良かったのではないか。
「僕」は何に乾杯したか
マリの死を「僕」はどのように受け止めたのだろう。当然、複数の感情が交錯しているだろうが、いくつか主要な要素を書き起こしてみる。
①教え子が死んでしまった悲しみ、喪失感
主人公の過度に客観的な性質を思い出すと、悲しみや喪失感というのはやや小さいものになるだろう。とはいえ、悲しみや喪失感が無かったとは思わない。
②またもや他人と関り、影響を与えてしまったことへの後悔
「僕」は、自分の過剰な客観性で周囲の人間のバランスを崩すことがあった。だから、他者との関りを避けて生きてきた。
だが今回、マリと深くかかわり、またもや影響を与えてしまった。そして、偶発的なものであるとはいえ、その変化は「マリの死」という最悪の形につながってしまった。そのことへの後悔もあっただろう。
③マリの決断と行動への敬意
マリの最期は、危険を顧みない勇敢なものだった。物語の中のダックスフントのように。それに、マリはとっさに「ママ」と叫んだのだった。再婚によって突如現れた、たった10歳しか離れていない他人を母親を受け入れる。それを、マリは自分の意思で選択していたのだ。
死を悼み、悲痛な表情を浮かべ、祈りをささげることは重要だが、誰にでもできることでもある。一方で、彼女の生き様を、成し遂げたことを、深く理解して讃えることができるのは、ほかならぬ「僕」だけだったのだ。
「乾杯」にはそんな意味が込められているのだと思う。
「僕」のその後は
作品自体はマリの死をもって終わるのだが、「僕」はこのあとどうなるだろう?マリの死をもって、他人と関わることのリスクをさらに強く確信し、他人を遠ざけながら生き続けるのだろうか。
マリが「僕」に言い残した言葉がある。
「先生も引力の外にずっといるのは、わたし難しいと思うな」
「引力の外」というのは、他者に影響を与えずにいられる場所のことだ。
「僕」は過剰に客観的で、他者のバランスを崩してしまう。だから他者と距離をとって生きている。だけど、マリからみた「僕」には、別の部分があったのだ。それでもなお、他者と関わらずにはいられない部分が。
本作は、家庭教師という形をとっているため、まずはマリの成長物語として受け取れる。しかし「主人公の抱えている欠落がどのように埋まっていくのか」という観点から読むことも可能だろう。そして、その欠落が完全に埋まっていないにせよ、マリは主人公に希望を残したのだと思う。
マリが埋めてみせた欠落を、今度は主人公が埋めようとすることになるのではないか。マリもまた、主人公にとっての家庭教師だったのではないか。
読み返してみると、そんな構造が横たわっているようにも見えた。
このことと、乾杯の意味が分かったことで、長年にわたって愛好していた物語について、ようやく位置づけを落ち着けることができたのだった。