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「マテ」は行動?行動じゃない?

SNS上で、犬の『待て』のトレーニングについての投稿を見かけると、反論コメントとして「マテは行動ではありません」というコメントを見かけますね。
理由は、
「『待て』は死人テストにひっかかるので行動ではない」
というものです。

死人テストとは、『死人にもできることは行動ではない』という、行動分析学における【行動】を定義づける上で非常に重要な理解となります。
『待て』は一見、その場から動かずにいる【状態】のようなので、死人テストにひっかかり、行動の定義から外れるように思われます。
ですが、行動分析学における行動の定義は、死人テストにひっかからないというだけではなく、

【心の動きも行動とする】

という定義もあります。
『待つ』は、何かしらの強化による自発意思により、その場に『留まる』ことを自分の意思で決めているので、この意思は行動に定義されます。
つまり、『待つ』は筋繊維を動かすことによる行動ではなく、心の動きによる行動ということです。

勘違いしてはいけないことは、この時の『留まる』を強化した心がどのような感情なのかを判断することは徹底行動主義ではできなということです。

徹底行動主義では、感情における判断は一切せず、徹底して行動のみで判断せよというものなので、自らを徹底行動主義とする人は、行動分析学では心の動きも行動とするということをすっかり忘れてしまいます。
ですが、行動分析学を学ぶときに一番最初に習ったはずです。
つまり、徹底行動主義とは【心の動きは行動とは見なさない】という意味ではなく、
【その行動のみを分析の対象とし、感情は考慮に入れない】
というものです。
心の動きも行動とするが、悲しいや嬉しいなどの【感情】について分析することはない、ということです。

この勘違いが起こる背景には、死人テストという表現のわかりにくさがあるように思われますが、つまるところ、『待つ』は筋繊維の動きではなく、心の動きにフォーカスした【行動】というわけです。

例えば『座る』は行動なので、強化されたり弱化されたりします。ですが、『座っている』は状態なので行動には定義されません。座っている状態は強化も弱化もされませんから。
しかし、『留まる』という意思は強化されたり弱化されたりするので行動になるわけです。
端から見るとそこから動かないわけですから、一見すると死人テストにひっかかっているように見えますが、この時、留まっている人や犬の心の中では行動が行われているわけです。
『待て』は、その場に『留まる』行動の瞬間の連続なのです。

だから『待て』のコマンドは強化されたり弱化されたりするわけです。

例えば、あなたはお友達と待ち合わせをしましたが、友達から「10分遅れる」と連絡がありました。
その時あなたはその場所で友達を待つならば、それは過去の経験によって「待てば良いことがおこる」という学習によって強化された行動です。
もしも待たないのであれば、あなたは過去に待つことによって「なにかしらの不都合を経験した」ために、待つことが弱化されたと考えられます。
この時の、『待つ』が強化されているか弱化されているかは行動の結果で判断されます。
ここで判断されるべきは、行動が強化されたか弱化されたかの判断のみであって、もたらされた結果がどんな感情によるものかは判断できません。
つまり、あなたの行動の強化弱化の背景にある感情は、あなたにしかわからないよね。ってことです。

もうひとつ例をあげると、
あなたはケーキ屋さんの前で立ち止まっています。
この時あなたはお店の前でケーキを買おうか買うまいか、立ち止まって悩んでいます。
この時の立ち止まりは行動ではありません。
なぜなら「悩んでいる」という【状態】だからです。悩んでいるからそこにいるだけであって、この状態は死人にもできますから行動の定義に当てはまりません。

ただし、ここでは解説するために「悩んでいる」としましたが、行動分析学では前述したように感情は考慮に入れませんから、実際には悩んでいるのかどうかはわかりません。
それを判断するには、リニア診断とノンリニア診断という方法をとらなければならないのですが、それはまた別の機会にします。

まとめると、
犬をトレーニングする際の『マテ』は行動です。なぜなら強化もしくは弱化されるからです。
ですが、これらは後件肯定であり、強化弱化された結果それが行動であると判断されるものですから、その行動変容の要因となった感情について判断できるものでは無いということです。

ちなみに『待つ』は、『座る』や『伏せる』が強化された結果ではありません。
なぜなら、『座っている』や『伏せている』は状態なので行動の定義にあてはまらないからです。

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