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小説『彼女たちのフーガ』土居豊 作

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小説『彼女たちのフーガ』

土居豊 作

《高校吹部と教育界を知り尽くした著者の長編ミステリー。

元・高校教師で吹奏楽部顧問だった著者は、この小説の中に実話に近いエピソードを多数盛り込んでいる。本作に描かれる衝撃の事件に近いようなことは、今も起きているかもしれない。

この小説に描かれる吹部のメンバーたちは、爽やかでも清々しくもない。だが、その分、リアルである。10代の連中は、10代であるというだけでやっぱり愛すべき存在だ。》


【本作の内容について】

高校吹部と学校教育界を知り尽くした著者による、初の長編ミステリー。
元・高校教師で吹奏楽部顧問だった著者は、この小説の中に実話に近いエピソードを多数盛り込んでいる。
もっとも、時代設定は少し昔なので、今の高校生たちや、高校の先生たち、教育委員会などがこの小説のままであるとはいえない。
けれど、本作に描かれる衝撃の事件に近いようなことは、今も起きているかもしれない。

小説中で描かれる吹奏楽部の姿も、かなり事実に近い。
ところで、最近、吹奏楽部を題材にした青春小説や漫画、アニメ、ドラマが次々と発表されている。
その一つのピークは2016年、『響け!ユーフォニアム』第2期と『ハルチカ』という吹奏楽アニメ作品が2つ揃い踏みしたことだ。

だが、高校の吹奏楽部の内実は、あんなに爽やかではない場合が多い。
著者自身が体験した数十年前の吹奏楽部でさえ、そうだった。ましてや、いまのようにコンクール至上主義に走る吹部が、あんなに清々しい物語で終始できるとは思えない。


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小説『彼女たちのフーガ』 (土居豊 作)

第1部 関西府立五月丘高校吹部日誌

1章 五月丘高校吹奏楽部

(1)

 音楽室のピアノ椅子にすわって、僕は五月丘高校吹奏楽部の合奏に耳を傾けていた。というより、正確には、耳を塞いでいた。この演奏はひどすぎる。
 サイレントヘッドフォーンの無音効果をあっさり突き破って、高校生たちが発する悪音は、僕の脳髄を強烈に揺さぶり、精神に壊滅的な傷を刻み続けていた。
 これが当面の仕事なのだから、耐えるしかあるまい。そうわかってはいるのだが、耳を通じて伝わるよりもさらに直接的に、音楽室のリノリウム床を伝わって、足裏からダイレクトに骨に響いてくる不協和音の連続は、僕の心身にほとんど致命的なダメージを加えていた。これほどの猛烈な過剰刺激は、僕にとって生命に関わりかねない。
 本当に、この仕事を続けられるのか? まさか、いまどきの日本の高校吹奏楽部の演奏が、ここまでひどいとは想像もしなかった。10代の頃の自分が、平然とこの喧噪と暴風のまっただ中にいて、指揮をしていたなどとは、いまとなってはとうてい信じられない。この仕事を受けたのは、やはりミスだったのだ。だめだ。今日限り、辞表を出そう。
 そう心に決めると、ほんの少しだけ、気分がましになった。さっききいた話では、この吹奏楽部は、あと一週間ほどで、春の演奏会があるという。そんな時期に、突然、顧問の教師がいなくなったら、そりゃ部員たちは困っただろう。学校側も、いくら臨時でも、そんなにすぐに優秀な指導者が見つかるはずはない。探しあぐねて、卒業生の音大出身者のつてで、留学から帰ったばかりの僕にお鉢がまわってきたというわけだ。これがもし、もっと名門の吹奏楽部で、コンクール全国出場を目指しているとかいう話なら、僕は二つ返事で断っただろう。そんな仕事、とても責任がもてない。だが、あまり知られてもいない中堅校の、弱小な吹奏楽部の臨時指導者だというので、それなら、当面のバイトとしてちょうどいい、と甘く考えたのだ。
 それが間違いだった。弱小の吹奏楽部というのが、こんな破滅的にレベルの低い演奏をしているなんて、想像しなかったのだ。目の前では、15人ぐらいの部員らが、熱心に演奏していた。曲は、アメリカの作曲家アルフレッド・リードの、『アルメニアン・ダンス・パート1』。僕も昔、やったことのある曲だった。変拍子が難しいから、縦の線が合わせにくいし、調も複雑で、ハモりにくい部分が多い。けれど、ぴしゃっと合ったら、最高に盛り上がる。吹奏楽のスタンダード、名曲中の名曲だ。だが、なんといってもこの曲は、最低50人以上の人数のバンドが演奏するべきものだった。スクールバンドで使う楽器編成の、最大限のものを網羅してあって、曲の性質上、打楽器も多数、必要だ。この吹奏楽部みたいに、20人未満の小編成でやるような曲ではないのだ。
 なんだって、この学生たちは、この小編成でわざわざ難しい大編成曲をやろうとしてるのだ? あるいは、突然やめた前の顧問の音楽教師が、無茶を承知でチャレンジしたかったのか? それとも、吹奏楽の編成のことなんかわからない無能な音楽教師だったのか?
 そういえば、このバンドは女子生徒が指揮をしている。おさげ髪のぽっちゃりした見かけのわりに、けっこう器用にタクトを振っている。吹奏楽部の部員は8割がた女子で、1年生と2年生だけということだ。人数が少ないだけあって、楽器編成もバランスが悪く、木管楽器ばかり多くて、金管楽器は数えるほどしかいない。打楽器は男子が一人だけいて、危なっかしい手つきでティンパニーを叩いている。
 せめて、人数が少ないなりに、楽器のバランスをそろえたら、演奏できる曲のレパートリーが増えるのに。よっぽど、前の顧問の先生は、吹奏楽に疎い人だったのだろう。それとも、いまどきの高校の吹奏楽はこんなものなのか?
 音楽室は、公立の学校にありがちな、安っぽい吸音板の白塗りの壁にリノリウム床という、非音楽的な造りだった。意外なことに、学生たちの吹いてる楽器はどれもそれなりに高級そうだった。学校の予算が多いのか、あるいは裕福な家庭の生徒が多いのだろう。女子はみんな、白いブラウスにブルーのリボンをきちんとしめていた。一人しかいない男子も、詰襟制服の第1ボタンまでちゃんとしめていた。
 ともすれば正常な意識をもっていかれそうになる壊滅的な演奏から気を紛らわせるために、かわいい女子を探した。だが、そもそも、無理な相談だ。なにしろ、顔立ちの整った女子でも、楽器を吹いてる顔というのは、みんな変な感じになる。頬を風船のように膨らませ、真っ赤になった肌、目を剥いた表情、だめだ、どれも変顔ばかりで、思わず噴き出しそうになる。
 ふと、視線を感じた。この高校に着いたとき、最初に廊下で声をかけた女子だった。アルト・サックスを吹いてるショートヘアの女の子。目が合うと、彼女はすぐに目をそらした。楽譜をにらんで、頬をへこませてサックスを吹いてた。
 ふむ。悪くない。
 そのうちに、もう1回、彼女は視線を向けてきた。今度は、向こうもしばらく目をそらさなかった。きれいな二重瞼の眼だった。顔立ちは、まあまあ知的にみえた。意志の強そうなぶ厚い眉毛の下に、黒目がちの瞳が勝気そうだ。なかなか魅力的だった。さっき廊下でみせた応対から考えて、頭は悪くなさそうに思えた。
 僕は視線をはずして、今度は、指揮者の女の子のひょこひょこ動くスカートのお尻をながめた。合奏は続いていた。リードの『アルメニアン・ダンス』は、変拍子が続くのでリズムを合わせるのが難しいが、せめて縦の線がもうすこしそろうと、ましな演奏になるのだが。
 あ。また、これだ。
 目の前の学生たちの発する雑多な騒音の塊が、一音一音、くっきりと分離して、僕の瞼の裏に、色見本のように立ち上がってみえた。
 前と同じだ。あのとき、確か…。
 意識の上の思考が、突然加速し、時間を逆行し始めたような感覚とともに、過去の情況を探索し出した。
 来た。まただ。いったい、何だというのだ? 僕の中に、みんなが入ろうとしている。いやいや、やめてくれ。もう聞きたくないんだ。なんだってみんな、僕をほっといてくれないんだ? ちぇ、またかよ。
 みえた。あれは、何だ?
 この僕の能力、いったい何なのだろうか。なぜか、人の心がみえる。いや、心の声がきこえる。
 それは、たいていは音楽に集中した瞬間に訪れる僥倖のような、恩寵のような何ものかだった。まるで、天から降って来たインスピレーションのように、その恩寵は、僕の耳にその場の他者の心の声を聴かせてくれるのだ。
 そのときは、音楽室にひしめきあって一心に楽器を吹いている女子高生たちの心の声が、一斉に僕の耳に殺到してきたのだ。これは、まったくの拷問状態だった。たとえていえば、長い間閉じたままだった体育館の更衣室のロッカーが一斉に開き、汗と汚物にまみれてかびのはえた体操服と体育館シューズが発する臭気を、一気に全身に浴びたようだった。まるっきり、十代の少女たちの汗と経血の饐えた臭いを丸めて団子にして耳に詰め込まれたような感触だったのだ。
 なにしろ、十代の生臭い肉体が発散する臭気ときたら、人間のたてる音色のなかで最も不快で神経に障るしろものなのだ。それが十数人分も、一度に耳に詰め込まれ、脳髄を刺激されたのだから、一瞬、失神してもおかしくはない。やっかいなのは、単なる騒音の醜い塊なら無視してやりすごせるのだが、こういうときは、そうはいかないことだった。いつもは、雑多な他者の想念の団子など、サイレントヘッドフォーンの効果を利用して無視しているのだが、心の声を聴き取ってしまうこのような稀な瞬間には、もはや無視しきれないぐらい深く、相手の想念が僕の脳髄に食い込んでくるのだ。しかも、塊状態なら、耳をふさいでやりすごれるのに、こういうときには、一人一人の、刻々の想念が、プリズムを通したようにくっきりと分離して、一つ一つの音色が聞き分けられてしまうのだ。
 これは、いわば、熟練の指揮者が、スコアに書かれた一音一音を、オーケストラの一つ一つの楽器の音色として、聞き分けている状態と似ている。だからこそ、僕は指揮者として、欧州で成功できると考えたのだ。しかし、それは甘かった。たとえ、全ての音を明確に聞き分けて、その微妙なずれや融合を一刻一刻たどることができて、その一人一人に指示をだすことで稀有な精緻さを音楽に表現できたとしても、指揮者自身が、その作業の不快さに耐えられないなら、長い時間、続ける事はできない道理だ。その理屈の通り、結局、僕は長時間続けることができなかった。
 ここでは、どうだろう? このがきんちょどもの、生臭い想念の塊は、普段は耳を閉ざしてやりすごすことができる。この生徒たちの音楽が、奇跡的に一瞬、見事な音色の綾を織ることがあるとしたら。もし、この音楽的な美の瞬間が、そう度々ではなく、一ヶ月に一回ぐらいなら? ここでなら、僕は指揮を続けることができるのかもしれない。試してみる価値が、あるだろうか。
 おっと。そこで演奏が、ちょうど終わってしまった。ちっ。もう少しだったのに。僕はどうやら、ひどいしかめっ面をしていたらしい。いささかおびえたような表情で、僕の方を伏し目になって見ている指揮者の女子は、声をかけるにかけられないまま困り果てている様子だった。無理やり笑顔を作って、僕はピアノ椅子から立ち上がった。この学生たちにとって、僕の印象は最悪に近いものだっただろう。なにしろ、吹奏楽部の顧問の教師が急にいなくなって、代役としてやってきたのが、仏頂面した大学生みたいな野郎で、挨拶もしないでふらりと入ってきて、合奏を聞きながら、怖い顔して腕組みしていたのだから。おまけに、合奏を聞くというのに、やたらでっかいヘッドフォーンを装着しているなんて、ふざけているとしか思えないだろう。だが、まあ、勘弁してもらいたい。なにしろ、このサイレントヘッドフォーンなしで、まともにこの合奏を聴いた日には、僕はアレルギー反応を発症して、一日ももたずにこの学校を辞めていたはずなのだ。
 曲が終わったところで、指揮者のぽっちゃりした女子が僕の方を見て、なにか発言を求めている雰囲気だった。
 さて、何を言えばいいんだ? ご縁がありませんでした、とでも?
 僕は頭からサイレントヘッドフォーンをむしりとると、しばらく、直接の生の音世界に自分をなじませてから、おもむろに言った。
 「なかなかいいよ。みんな、よく管が鳴ってる。あとは、もっと縦の線をそろえないとね。変拍子だから。さ、もう一回、頭から通してみて」
 「はい、先生!」
 指揮者の女子生徒は、小さな女の子みたいな元気な声で答えて、バンドの方に向き直った。バンドの生徒達も声をそろえて、はいっ、と言った。  
 なんとまあ、行儀のいい子供達だ。
 演奏が始まるまえに、急いでヘッドフォーンをつけた。この子らは、僕のこの態度を一体何だと思ってるだろうな。まあ、どうでもいいが。もう一度、『アルメニアン・ダンス』を最初から聞きながら、というより、極力聞かないようにしながら、気を紛らわせるために、バンドの生徒らをみるともなくながめて、それぞれの印象を頭の中で整理していた。
 合奏が終わると、生徒らは立ち上がって、僕に向かって、ありがとうございましたっ、と声をそろえて言った。ずいぶん、よくしつけられてるな、と思った。今日びの吹奏楽部って、こんなもんなのか? 自分のころのバンドは、もっとお行儀悪かった。音大では、もちろん、合奏の授業のとき、ろくに挨拶なんかしなかった。
 「ああ、ええと。合奏が終わったら、指揮者さん、部長さんと、パートリーダーさん、残ってくれるかな? 僕から説明することがあるんだ」
 少しくわしく、この学校やクラブのことを聞きたかったのだ。もちろん、めぼしい女子と親しくなるための布石でもある。そういう余禄でもなけりゃ、だれがこんなしけた仕事を、安い給料でやりに来る?

(2)

 僕が関西府立五月丘高校に来た日、校門の脇にある背の低い桜はまだ蕾だった。壁面が薄汚れた校舎は、築20年前後の公立学校によくあるタイプの、のっぺりしたコンクリートの団地みたいな細長い造りだった。校門から校舎までの間に、教師たちの自家用車とおぼしき自動車が、所狭しと駐車してあった。ガラス張りの重いドアを開けて、玄関で来客用スリッパに穿きかえた。固いプラスチックのスリッパは、汚れ放題になっていた。早く上履きを持って来よう。
 事務室の受付の、40代ぐらいの女性に声をかけた。彼女は小柄で整った顔立ちをして、笑顔がすてきな事務員だった。僕が頭につけている大きな黒いサイレントヘッドフォーンを、けげんそうにながめた。これは、まあ、いつもの反応だった。彼女は大して気分を害した様子もなく、すぐに校長室に通してくれた。ものにこだわらない感じで、愛想がよかった。ヘッドフォーンをとり、急いで耳栓をすると、壁ぎわにあるクリーム色の革のソファに座った。同じ女性事務員が、薄いお茶を持ってきてくれた。対照的に、無愛想で、そわそわ落ち着きのないのが校長だった。でっぷり太った、60歳目前の老人だ。なんだか病気みたいで、まぶたが不自然に垂れ下がってるのを、指先でしょっちゅう持ち上げていた。何やら一言二言、挨拶を言ったきり、黙ったまま、僕をじろじろながめて、ソファの前に立っていた。これが、校長? みるからに、腹黒そうな人物だ。しかも、いかにもエロおやじっぽい。こんなのでも、校長が勤まるんだったら、この学校も、お里が知れる。もっとも、僕の方も、耳栓をしていて、相手の話がろくに聞こえないのだったが。直接言葉が聞こえなくても、相手の抱いている悪感情は、まるで手にとれそうに脳髄に響くのだ。もし耳栓をとって、直接相手の悪意に心をさらしてしまえば、おそらく僕は我慢できずにこの不快きわまりない老醜の塊を、手近にある重そうなガラスの灰皿でぶんなぐってしまうだろう。できれば、サイレントヘッドフォーンをかけて、相手の発する音を完全にシャッタアウトしてしまいたかった。まあ、このシチュエーションでは、そうもいかない。
 「で、話は聞いとると思うけど、ようは音楽の先生が急にいなくなったんで、あんたには、臨時で吹奏楽部の顧問と、指導を頼みたいんや」
 「あ、はい。そのことは電話で聞きました」
 「で、どうやろな? 吹奏楽部は、指導できるやろな?」
 「は、大丈夫です。もともと、指揮者ですので」
 「学生の吹奏楽なんか、楽勝っちゅうとこやろか。そら、頼もしいこっちゃ。なんせ、前の先生はなあ。いや、なんでもない。気にせんとって」
 「はぁ」
 「で、な。もし、あんたさえよかったら、新年度から、音楽の授業も、ちょっと手伝ってくれたらありがたいんや」
 「は? 授業ですか? いや、それはちょっと」
 「無理かいな? 1コマか2コマだけでもええんや」
 「いや、でも、自分は教員免許、もってませんし」
 「え? そうやのか? いや、そら知らなんだ。免許なかったら、そらあかんわな」
 「はぁ。すみません」
 「いやいや。すまんな、早合点してもうて」
 僕は、そのときは、なにも疑問に思わなかった。ただ、ひたすら、この不愉快な校長の前から早く退散したいと思うだけだったのだ。
 「あと、特にお話がなければ、すぐに練習に行きたいんですが?」
 僕が言うと、校長は、助かった、というような顔で、黄色く染まった歯をむき出してみせた。僕は校長室を出ると、すぐにまたヘッドフォーンをした。学校の中は、雑多な騒音に満ちていて、そういう刺激が僕の精神を妙な方向に誘導してしまう。果して、この環境で仕事をすることができるだろうか? やっぱり、この仕事は断るべきだっただろうか?
 桜もまだ蕾なので校長室もひんやりしていたが、廊下はもっと冷えきっていた。スリッパが小さくて、踵がはみ出してるから、リノリウムの床に触れてやたら足が冷たかった。事務室の前の階段を上がると、4階に音楽室があるという。校舎のどこからか、トランペットやサックスの音が響いていた。サイレントヘッドフォーンをしていても、床を通じて足の裏から、管楽器の発する音が振動となって伝わってくるのだ。直接耳で感じとるのではなく、皮膚を通じて振動を感じる事は、さほど不快ではなかった。だから、管楽器の指導そのものは、ヘッドフォーンで音を遮断していれば、きっと可能だろう。まあ、一応、バンドの様子をみてから決めても遅くはない。辞めるのは、いつでもできる。
 大抵の高校の吹奏楽部と同様に、ここのバンドも、いくつかの教室に分かれて練習してるようだった。校舎の壁はクリーム色のペンキで塗られてて、新しそうにみえた。最近、塗り替えたばかりかもしれなかった。ガムのかすのこびりついたコンクリートの階段を、4階まで上がった。順々に教室をのぞきながら、廊下を歩いた。ある教室ではフルートが、その隣ではユーフォニウムが練習していた。その向こうの教室から、ちょうど出て来た女子を、僕は呼びとめた。その子は、つややかな黒髪を小学生みたいに二つくくりにしてるくせに、けっこう背丈があり、スタイルのいい子だった。細くて色の白い首から、黒いストラップで銀色のアルト・サックスを吊るしていた。アルト・サックスは、彼女の制服のほっそりしたお腹の前で揺れていた。左手首に巻いた銀色の細いブレスレットにも、サックスの小さな飾りがついていた。
 「バンドの部長さん、いるかな?」
 僕はきいた。
 「部長ですか? ええと、ちょっと待って下さい」
 彼女は答えた。ちらりと上目遣いに俺をながめてから、くるりと背を向けた。その場に立ったまま、彼女の後ろ姿を見送った。紺のブレザーに紺のプリーツスカートという制服を、きちんと着込んでいた。スカートの長さは、ちょうど膝下ぐらいだった。僕が、薄暗い廊下に立って待っている間、生徒が4、5人通りかかったけれど、みんな、ぺこりと会釈して通り過ぎた。「こんにちは」と、明るい声で挨拶した生徒もいた。聞いていた通り、この高校には、それなりにきちんとしつけられた生徒らが多いみたいだった。そのうちに、廊下の端から、さっきのアルト・サックスの女子が、ほっそりした小柄な女子を連れて戻って来た。
 「私、部長の小泉です。何かご用でしょうか?」
 小柄な方の子が僕の顔を正面からながめて、はきはきした口調で言った。
 「ああ、僕は大澤っていうんだ。君らのバンドのコーチに来たんだ」

(3)

 合奏のあと、吹奏楽部の主だった生徒達に残ってもらい、僕はまず部活の活動方法を訊いてみた。
 「いつも合奏は、君、三島さんだったね? 君が振ってるんだね」
 「はい! いつもビシビシしごいてます」
 指揮者の三島留美は、満面の笑みで元気良く答えた。ぽっちゃりと肉付きのいい丸顔に、おさげ髪を背中までたらした指揮者の三島が周囲を見回すと、周りの女子は、顔を見合わせてけらけらと笑った。
 「そりゃすごいね。前の顧問の先生は、指導してくれなかったの?」
 「全然でした」
 急に、三島は、表情を硬くして、ぶっきらぼうに返事した。
 「前の先生は、ちょっと問題のある先生でして」
 部長の小泉幸が、話に割り込んだ。
 なるほど。なにか、あったのだろうな。
 「では、僕がバンドの指導を、全部やればいいね?」
 僕がそういうと、女子たちは、なにか含むところがあるような表情で、互いに顔を見合わせた。なにやら、面倒くさそうな感じだ。でも、特に僕をいやがっているわけではなさそうなのが、彼女たちの発する声のトーンから、明瞭に伝わっていた。問題があるとしたら、おそらくなにか他のことだ。
 「まあ、とりあえずやってみるよ。様子みて、練習のやり方を決めていこう」
 僕がいうと、彼女たちは、一斉に、はい!と元気良く返事した。
 「当面は、合奏の指揮をこれまで通り三島さん、君がやってください。その他の練習方法は、僕がプランを考えるから」
 「はい!」
 三島は、これまで以上に笑顔を輝かせて、大きな声で返事した。耳に堪えるから、そんなでかい声ださないでくれ。
 「先生が指揮して下さるんじゃないんですかあ?」
 がっかりしたみたいな声で割り込んだのは、あのアルト・サックスの女の子だった。名は、高岡さおりといった。
 「先生が振ってくれた方が、ウチはうれしいんですけど」
 「え、どうして?」
 訊き返しながら、高岡の目をのぞきこむと、正直なもので、彼女はみるみる頬を染めた。
 「だって、三島さんの合奏、スパルタなんです」
 「あんなの、まだ手ぬるいよ!」
 三島は高岡に言い返した。
 「だったらなおさらです。先生、助けてくださーい」
 高岡は、幼い媚態を露わに、僕の顔を上目遣いでみて言った。
 「そうなの? でも、きっと、三島さんより、僕の方が厳しいと思うよ? それでもよかったら、指揮振ってもいいけど」
 「ええ? そんなに先生、厳しいんですか?」
 部長の小泉が、真面目に驚いて思わず言った。
 「そんな感じには見えません」
 三島も、疑わしそうに言った。
 「先生、優しそうなのに」
 高岡は、少し頬を膨らませて、意外そうな声で言った。
 「いや、厳しいのが無理なら、普通に練習しよう」
 そういうと、彼女たちはまたけらけら笑った。そのけたたましい笑い声は、僕の脳髄をじわじわと締め付けるように責めたてた。今日はもう、この女子たちと会話するのはたくさんだ。
 「もう少し考えてから決めるけど、それでいいですか?」
 僕はそう言いながら、アルト・サックスの高岡さおりを見つめた。彼女は平気で僕の視線を受け止めたが、にきびがひとつできかけた頬をちょっと赤らめた。僕は、女子達を一人一人ながめていった。みんな、僕の視線を平気で受けとめた。こいつらは、心底鈍感なのだ。その方が、付き合いやすくていい。
 「では、とりあえず、来週の演奏会が終わるまでは、今まで通りの方法で練習してください。演奏会の後のことは、それから考えます」
 「はい、先生」
 いつの間にやら、僕はすっかり先生扱いされていた。このままでは、既成事実になってしまいそうな勢いだった。けれど、奇妙なことに、さっきまで、この女子たちの中にいるのが、嫌でたまらない感じだったのに、いつの間にか、それほど嫌悪感が強くなくなっていた。
 「で、部員は全部で18人か。新入生がかなり入ってくれなきゃ、夏の吹奏楽コンクールは大変だね」
 「あのう、本当は19人なんです」
 部長の小泉幸が言った。
 「19?」
 「一人、不登校の子がいるんです」
 「へぇ、不登校ね。何の楽器?」
 「一日だけ来て、それっきりだったんで、楽器も決まってないんです」
 「ふうん」
 「前嶋奈津っていうんです。一応部員なんですけど、ほとんど顔みたことないんです」
 「へえ。なぜ、入ってすぐ、来なくなったのかな? やりたい楽器がなかったかな?」
 僕は、訊くともなく質問した。
 「楽器、何を希望してたっけ?」
 「覚えてへんわ」
 「部活の初日って、新入生でごったがえしてたから」
 口々にしゃべりだした女子たちを、僕はさえぎった。
 「それで、どこに住んでるの? その子」
 女子たちは、口をつぐんで、顔を見合わせた。
 「わかった。ようするに、君たちもほとんど知らない女子部員が、もう一人いるということだね?」
 「そうです。ほとんど幽霊部員」
 「幽霊部員ていうのは、入部したけど練習来ない子のことよ。学校には来てるのに。前嶋さんは、不登校だから、ちょっとちがうわ」
 「そうかなあ。そういうのも、幽霊っていうねんで」
 「幽霊っていうより、生霊っていうほうが合ってるかもよ」
 どうでもいい話で、女子たちは盛り上がりはじめた。そのとりとめのないおしゃべり声を、聴くともなく聞きながしていると、なにか違和感がじわじわと額の奥に広がるのを感じた。なんだ、これ? ちょうど、音楽や歌声を通じて相手の想念がわかってしまうのと同じように、今、彼女たちのしゃべる声がうまく混ざり合って、一種ポリフォニー的に響いているのだった。その声楽的不協和音が、一瞬だけ、ぴたりと和音にはまる瞬間があって、その刹那だけ、僕の耳は彼女らが心に秘めた想念を、スポットライトをあてた裸体の秘部をみるように、ありありと目の当たりにした。そこには、全く目を覆いたくなるような、悲惨な場面と、それにまつわる底なしの憎悪、怨念、憤激、そして背筋が凍りそうな絶望が奇怪に絡み合っていた。なんだ、この子らは? いったい、なにがあったんだ? まるで、修羅場をくぐってきた旧共産圏の下層民の女性達のような、どす黒い妄念が、この一見健康そうで、何の悩みもなさそうな娘たちの心に巣食っている。
 しかし、この暗黒の妄念の中心は、誰だ? 僕は、そのわずかな時間をフルに使って、この身の毛もよだつ暗闇の意識の持ち主を特定しようとした。けれど、そこにあるのは、誰か一人の想念ではなく、複数の女生徒の意識がキメラ的にもつれ合い、蔦のからまるように一体化している姿だった。根っこは、どこにある? このもつれ合った枝葉の大本は誰だ? この子か? あるいはこっちの子?
 だが、もはやそれ以上の絞り込みは不可能だった。彼女たちの想念が組み合わさって和音となった貴重な瞬間は、たちまち過ぎてしまい、ふたたび彼女らのしゃべり声は、それぞれの音程がぶつかり合った全くのカオス的不協和音の連続に戻ってしまっていた。こうなっては、もはや相手の意識の洗い出しは無理だった。それどころか、一刻も早く自分の意識を雑音の渦から引き離さないと、僕の方がダウンしてしまいそうになっていた。耳から脳髄に直接流入してくるカオス状態の破壊的音響は、鋭敏すぎる知覚神経をオーバーヒートさせ、神経節を焼ききってしまいかねないレベルまで、急上昇してきた。
 「ち、ちょっとごめん」
 かろうじて声を絞り出して、僕は手にぶら下げていたサイレントヘッドフォーンを頭に押し当てると、よろめきながら女子部員たちの間をかきわけるように潜り抜けた。
 「え?」
 「なに? 先生大丈夫ですか?」
 驚いて口々に声を上げる女子生徒たちの、その気遣いの声すら、僕の精神をさらに追い込む凶器となるのだった。僕は、かろうじて音楽室から逃げ出して、ふらつきながら踊り場まで歩いていって、洗い場の水道の蛇口をひねった。水が勢い良く流れ出したので、その水流の音が、頭の中にしぶとく粘りついたままの彼女たちの想念を、みるみる洗い流してくれた。

(4)

 生徒たちが下校したあと、僕は音楽室のグランドピアノの前に腰をおろして、指馴らしがてら、バッハの平均律の一番から、ゆっくり弾き始めた。五月丘高校での一日目、終わってみれば、そう悪くないスタートだった。アルト・サックスの子、高岡さおりは、僕に好意的な様子だった。見た目はかわいいし、はきはきとした話し方で、頭も良さそうだった。先々、いい遊び相手にできるかもしれなかった。
 見たところ、この高校の生徒は、素直で頭のいい子が多いみたいだった。育ちも良さそうで、みんな、いかにも高校生らしい外見をしていた。今時の高校では、茶髪・ピアスは珍しくない。だが、ここではそういう子は見かけなかった。校舎は、きれいに掃除されていて、教室の中もきれいに整っていた。けれど、そんな学校にも、不登校の子がいるらしい。この、いかにもレベルの高そうな高校にも、隠された陰の部分はあるようだ。
校舎は横に長い4階建てで、音楽室はフロアの中央にあった。北向きの大きなアルミサッシの窓から、暮れなずむ住宅街が見下ろせた。眼下にはテニスコートとプールがあり、中庭があった。左手にグラウンドが広がっていて、サッカー部の生徒が後片付けをしていた。正面におしゃれなスタイルのマンションが建ち並んでいて、その向こうの丘には、一戸建ての大きな家がいくつもあった。丘の向こうに、北摂の山並が迫っていた。こんなに環境のいい場所にある高校なら、生徒の質が高いのもうなづける。山の中のおだやかな高級住宅地、緑深い閑静な土地、充実した学園生活。
 だが、生徒たちの中に、いろんな悩みもあるのだろう。あのとき、垣間見えた、吹奏楽部員たちの抱える悩みは、何だったのだろう? まさか、あんな勢いで、強烈な情念の塊をぶつけられるとは、思いもよらなかった。
 吹奏楽部の生徒がみんな帰ったあと、僕は戸締まりをして、からっぽの音楽室を出た。うす暗くなった階段を下り、玄関で来客用スリッパを返した。明日は、上履きを忘れないようにしなければ。駐車スペースに停めた自分の車の方へ歩き、2ドアのドイツ製の小型車スマートに乗り込んだ。エンジンをかけて、校門を出た。黄昏の空がうっすらかすんで、星が2つ3つにじんで瞬いていた。町中と違って、郊外のこの辺りは空気も澄んでいる。自分の車を走らせている間だけは、サイレントヘッドフォーンを外していられた。というより、ヘッドフォーンをしたままでは車を運転できない、というだけのことなのだ。さすがに、警察に見つかったら注意されてしまう。自分でもよくわからないが、車の運転中は、どういうわけか、他者の想念を感じとらずにすむのだった。むしろ、運転中にこそ、周囲の人間の想念を感じとれたら、よけいな事故が起きずにすむというものだ。あるいは、アニメ「ガンダム」のニュータイプのように、戦闘パイロットになれたかもしれない。だが、幸か不幸か、車の運転中、おそらくエンジンの振動と音のせいだろうが、車の外の人間の発する思念を遮断されて、自分だけの世界に隠れていられるのだった。たぶん、車体がまるごと、サイレントヘッドフォーンの役割をしてくれているのだろう。
 この市に来て、まだ2週間だ。ワンルームマンションから高校までは、車で15分ほどだった。毎日、引っ越しの段ボールを順番に開けて、必要なものだけ取り出した。もしかしたら、すぐにまた引っ越すかもしれないので、これまでも、段ボールの荷物は全部開けないのが半ば習慣だった。
一見して、五月丘高校のあるこの街は、いわゆる高級住宅地だった。どこまでもリッチな作りの家やおしゃれなマンションが立ち並び、たまに石垣に囲まれた豪邸があった。停まっている車は、ヨーロッパ車かアメリカ車が多かった。土地は丘陵地帯の中腹に開かれていて、ゆるやかなアップダウンのある緑濃い雑木林が目立った。元々は林ばかりの丘陵地だったところを、宅地開発で切りひらいたのだろう。夕方には、たいていはブランド品のカジュアルな服をさりげなく着た女性が出てきて、停めてある車と同じくらいの値段がしそうな大型犬を連れて散歩に行くのだった。平日の昼間から、働き盛りにみえる年恰好の男性が、のんびりと植木の手入れをしていることもあった。
 そういう土地柄に、五月丘高校は、いささか似つかわしくなかった。立地としては、なかなか豪華な場所にあって、校舎の背後は山頂まで続くゴルフ場が迫り、屋上からは大阪平野の街並がのぞめた。だが、内実は、どうみてもあの高校は、年収的に平均的な世帯の子供たちが多く通っていそうだった。もちろん、公立高校なのだから、周辺の高級住宅地からだけ生徒が通って来るわけではない。おそらく、北摂の広い地域から通学しているのだろう。
 僕はスマートを走らせて、高級住宅地の並ぶけやき坂を下り、通称ロマンチックロードと呼ばれる繁華な幹線道路に出た。道筋には名前の通り、おしゃれなレストランやらライブハウス、ブティックなどが並んでて、休日には格好のデートスポットになる。夜には、路上にベンツやBMW、ポルシェなどがよく並んで駐車されていた。この通りを走ると、いつも、僕はちょっとしためまいに襲われた。周りにドイツ車ばかり走っていて、まるでヨーロッパにいるような気になるからだ。かつての自分が不意に蘇ってきて、意識が混乱した。
 ここは一体どこだろう?
 「キッチュ」というライブハウスの店先に、ライトアップされたプラタナスが茂り、夜風に葉を揺らしていた。ロマンチックロードを過ぎて山手に来ると、畑や田んぼが目立ってくる。山腹の道路を上がっていくと、空気が冷んやりしてくる。畑とささやかな雑木林に囲まれた小さな賃貸マンションに帰りついて、スマートを駐車場に停めた。エンジンを切ると、静けさに包まれる。車を降りると、習慣的に周囲に気を配りながら、車を出て自分の部屋へ歩いた。
 しまった。サイレントヘッドフォーンを忘れた。
 すぐに僕の例のセンサーが作動し、周囲にいるだれかの気配を察知してしまった。
 誰だろう? その誰かは、どうやらここの住人ではなさそうだった。 誰だ? おそらく、女性。それも、かなり若い。いや、むしろ、少女というべきか。まさか、僕を知っている? でも、なぜ? この街に、まだ知り合いはほとんどいない。とすると、高校の生徒か? いや、生徒に住所など教えていない。では、誰だ?
 そう考えている数秒のうちに、謎の気配は、掻き消すようになくなってしまった。あるいは、幽霊? 実のところ、そういうのもよくあるのだった。特に、あの古い血にまみれた欧州の古都にいたときは、そうだった。
 一人住まいの部屋は、ほこりと段ボール箱の臭いが混ざって、冷えきった空気がよどんでいた。明かりをつけて、ナイロンのリュックを投げ出す。ワンルームの敷物のないフローリングに腰を下ろすと、両手を頭の後ろにまわして、しばらく目を閉じていた。今日、高校で見た女子たち、みるからにまともそうな彼女たちの顔を思い浮かべてみた。


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2章 吹部の女子たち

(1)

 5月の連休明け最初の日だった。放課後になってから、いつものように愛車スマートを五月丘高校の駐車スペースに停めた。この高校は、公立学校だが立地が悪く、最寄りの交通手段がバスしかない。だから、教員の多くが自動車やバイクで通勤している。本来は、教育委員会に届け出て、それ相応の理由がないと車通勤は認められないらしいのだが、この高校の先生たちは、無断で乗ってきている人も多いという。
 僕がフレンチホルンのハードケースを手にさげて、玄関の靴箱で上履きに履き替えていると、事務所のガラス窓のなかから、校長がのっそりと顔をみせた。こちらをみて、なにやらわけありげに手招きしている。事務室に入ると、校長はさらに手招きして、僕を校長室に呼んだ。
 「あのな、きみ」
 でっぷり太ったガマガエルのような校長は、垂れ下がったまぶたを指でつまみあげた。なんでも、奇病でまぶたが腫れてしまっているのだという。つまみあげたまぶたの肉の間から、ぎょろりと目玉を光らせて、疑わしげに僕をながめて言った。
 「最初に頼んどくけど、ここは正直に答えてほしいんや」
 「はあ。何でしょう?」
 「あのな、君に指導してもろてる吹奏楽部やねんけどな、しばらく練習休みにできへんやろか?」
 「は? そりゃまた、なんでです?」
 「いや、話すと長くなるんやけどな、実は大変なことが起こったんや」
 大変? 大変なのは、あんただけじゃないの? 校長が何をほのめかしているのか、さっぱりわからなかったが、どうやら、僕の指導している吹奏楽部がなにかやっかいな問題を抱えているらしいことだけは、理解できた。
 「そりゃ、休みにしろと言われればそうしますが、でも、部員にはなんて説明しましょう?」
 「そうや、そこなんや。困るのは。きみ、なんかいいアイデアないか? 保護者が納得しそうな感じの」
 『いや、それを考えるのがあんたの仕事でしょう?』と、言い返したかったが、かろうじて抑えた。
 「さあ、ちょっと、思いつきません。いったい、どういう事情なんです?」
 「そこなんや、困るのは。きみに説明してやりたいのは山々なんやけどな。きみは、ほら、臨時やから。守秘義務がないやろ? そやから、くわしい話ができへんの。困ったもんや」
 「別に僕は構いませんが、もし急に部活を休みにするなら、それなりの理由はいると思います」
 「そやなあ。そこなんや。きみ、ちょっと考えといてくれるか? いや、すまんな」
 結局、何だったのか、よくわからないまま、僕は逃げるように校長室を出た。
 春休みの間に、あのアルト・サックスの女の子、高岡さおりと仲良くなった。もちろん、コーチとして部活の指導をしながら、それとなく個人的な会話にひきこんでいったのだが、最初から彼女は好意的だったし、仲良くなるのに苦労はなかった。さおりの携帯番号とメールアドレスはすぐに聞き出せた。
 「先生、メール下さいよ」
 そう言って、高岡さおりは自分の携帯をみせてくれた。
 「メールねぇ。いいけど、でも、こうやってしゃべってるからいいんじゃない?」
 僕は彼女の携帯を手に取り、しげしげとながめた。他の多くの生徒と同じように、裏側にところ狭しとプリクラが貼ってあった。その中の一枚に、はっと目を引く美形の女子と、さおりが二人で写っているものがあった。
 「こんな子、バンドにいたっけ」
 僕がそのプリクラの子を指さすと、さおりはクスクス笑った。
 「お、さすが先生、目が早いですねぇ」
 さおりはからかうように僕の二の腕を左の肘で突いてきた。手首のブレスレットの、銀色のサックスの飾りが揺れていた。
 「美人でしょ、この子。吹奏楽部員じゃないんです。ウチの友達で、香里槙子っていうんですけど、一年の時、同じクラスだったんです」  
 「ふうん。仲良しなんだ」
 「えぇ、まぁ。といっても、槙子は遊びに行ってることが多いし、ウチは練習があるしそんなに会いません。泳ぎに行く時ぐらいかな」
 「泳ぐ?」
 「フィットネスに二人でよく行くんです。ウチかなづちやったんで、槙子が連れて行ってくれて、今ではずいぶん泳げるようになったんです」
 「高校生がフィットネス・クラブか。リッチだね。行ってる子、けっこういるの?」
 「そんなにいないですよ。来てるのは、大学生とかOLの人ばっかり。でも、ああいう所って、何だかトレーニングより出会いを求める人が多いみたい」
 「へぇ。じゃあ、高岡さんかわいいから、男の人によく声かけられるだろう」
 そう言って顔をのぞきこんでやると、さおりは色白のふっくらした頬をほんのり染めた。
 「そんなことないです。ウチなんか地味やし。でも、槙子はすごいですよ。しょっちゅう大人の男の人から声かけられてます。あの子、美人だし、スタイルもいいし」
 「ふぅん。槙子さんはもてもてか」
 「もてもてですよ」
 突然、僕はさおりの側から逃げ出したくなった。彼女の声のトーンが、僕の脳髄を一瞬、激しく刺激したのだ。なんだろう? みると、さおりは、無意識なのか、眉間にしわをよせていた。間違いなく、彼女は、この槙子という女子の話題になったとたん、なにか感情を大きく動かしたのだ。さおりと槙子は、大の仲良しというわけでもないのか? そのわりには、こちらが訊いてもいないのに、槙子についてあれこれ説明してきた。なにか、隠したいことがあって、わざと槙子について良い印象を与えようとしたのか? いや、やはり変だ。そもそも、槙子という子は吹奏楽部員ではないというし、僕と接点はないはずだ。ということは、さおりは、槙子を僕に近づけたい、なんらかの動機があるのか?
 いずれにしても、この槙子という美形女子とはお近づきになりたいものだ。いっそ、こっちからさおりを通じて、この子と仲良くなろうか。いまは詳しく事情がわからなくても、この美形の女子高生とも個人的に親しくなっておけば、いずれ情報源として使えるだろう。
 こういう一対一の場合、僕のセンサーはほとんど用をなさない。なぜなら、たとえ相手の悪意や危険、あるいはたくらみをセンサーが感知していても、相手への好意や、あるいは自分自身の欲望、感情が邪魔をして、センサーのスイッチを切ってしまうからだ。要するに、鋭敏なセンサーで警戒していても、肝心の自分がふぬけになっていては、何の役にもたたない。
 ところでその時、僕と高岡さおりは、吹奏楽部の練習の休憩時間、音楽室のピアノのところで立ち話をしていたのだった。そこへ、指揮者の三島留美と部長の小泉幸、それにホルンの佐々木優香が近寄ってきた。彼女達は、いつも色々な話をしたがって、機会あればいつも僕に近づいてきた。かといって、あまり慣れ慣れしくせず、きちんと礼儀をわきまえてるところが、いかにもこの高校の生徒らしいところだった。
 「さおり、携帯替えた?」
 そう言って、三島がさおりの携帯を手に取った。
 「うん。やっとバイトのお金たまったから」
 「やっぱり、この機種、かわいい」
 「いいなぁ、わたしも早く替えたい」
 小泉がそう言って、うらやましそうにさおりの携帯をのぞきこんだ。
 「そやけど、私のにかかってくる電話、親ばっかり。早く帰れとか、スーパーで買い物して帰れとか」
 佐々木がそう言って口をとがらせると、彼女らは笑った。佐々木優香はまだ子供こどもしていて、あどけない丸顔で、いつもはしゃいだ声を立てていた。三島留美は、陽気でざっくばらんで、指揮者をするだけあって友達が多く、部活以外のつきあいも広いようだった。小泉幸は、いかにも部長らしくしっかり者といった感じで、地味だが頭のいい優等生、という雰囲気だった。
 「先生は携帯、持ってるんでしょ?」
 佐々木が訊いてきた。
 「持ってるよ」
 「先生、番号教えて下さいよ」
 三島が甘えた声で言った。
 「いや、やめとくよ。いたずら電話されるといやだし」
 4人の女の子達は、ケラケラ笑った。
 「絶対、しそうやわ。愛の告白とか」
 佐々木が言った。
 「けっこう本気だったりして」
 三島が言った。
 「先生、番号教えちゃだめですよ。この子ら、ろくなことしないから」
 小泉が保護者顔をして言った。高岡さおりは、何も言わずにクスクス笑っていた。実は、少し前に、さおりだけには僕の携帯番号を教えてあった。もちろん、他のみんなには言わないよう注意しておいた。二人の間の秘密を作ることによって、彼女の心を傾かせようと狙ってみたのが、一応効果を上げつつあった。
 さおりはよく夜、電話してきた。もっとも、いつもバンドの練習のことや音楽上のアドバイスを求めるぐらいの会話だった。けれど、本当は、もっとプライベートな話をしたがっているのはわかっていた。僕の耳には彼女の声が携帯のボディを通じて、振動となって伝わってくる。彼女の笑い声の振動が、僕の耳を通じて、脳髄を震わせ、その振動が彼女の想念をダイレクトに顕現させた。彼女は、制服姿で僕の股の上に座り込んで、ほっそりした両手を僕の首に巻き付けて、頬を僕のシャツにこすりつけていた。彼女の髪が僕の鼻の下をくすぐり、微かな芳香と、ふけの臭いをさせていた。彼女のおっぱいは僕の腹のあたりにぎゅっと押し付けられ、汗ばんだ湿度がシャツ越しにじんわりとしみこんできた。その湿度は、僕の股ぐらからもしっとりと染み込んできて、勃起の度合いをあおり立てた。早々に電話を切らなければ、あらぬことを口走りそうだった。

(2)

 五月丘高校吹奏楽部の指導員として仕事を始めてから、僕は結局、合奏の指揮もすることになっていた。日本の音大を出た後、さらにウィーンでホルンと指揮を学んだ身としては、20人未満しか部員のいない高校生バンドの指導など、たやすいものだった。辞めたらしい以前の音楽教師に代わってこの春赴任した音楽の先生は、どうやら臨時の講師のようで、吹奏楽部に顔をみせることもせず、担当の授業が終わるとさっさと帰ってしまう。40代ぐらいのこの先生は、僕のウィーン留学を誰かから聞いて知っているらしく、音楽家としての敬意ははらってくれていた。もっとも、親切心だかおせっかいだか、音楽教師の採用試験を受けろ、といつも言われるのがわずらわしかった。
 ヨーロッパから戻ってきて、およそ一年は何をすることも出来ないままだった。やっと心の傷がふさがってきて、3ヶ月ほど日本中、あちこち旅をして過ごした。神経が少しは正常に戻り、ひとまず仕事を探そうという時、音大の先輩経由で高校の仕事をやらないか、と声をかけられた。ちょうどいいリハビリになると思って引き受けただけだから、長くやるつもりはなかった。吹奏楽部の指導などというこんな半端仕事を、誰が何年も続ける?
 新しい学期が始まったけれど、吹奏楽部の指導員でしかない僕は放課後に高校に来ればよかった。それでも一応、毎日昼前には音楽室に来ているので、自然に音楽の授業の手伝いをする。すると、たくさんの生徒達とつながりが出来るというわけだった。幸いなことに、吹奏楽部以外の生徒達も、僕の存在を当り前に受け入れたようだ。
 この高校の生徒はみな育ちが良かった。全体として成績のいい、素直な子供が多かった。制服はきちんとした着方をしているし、髪を染めたり脱色したりしている子もいない。しっかりした話し方の出来る生徒がほとんどだった。もちろん、今日びの高校生らしく、彼ら彼女らは携帯を持ち、カラオケボックスに行き、プリクラをとっていた。生徒達の中にはもちろんカップルもいた。だが、女子達はみな、まだ子供こどもした顔で、無邪気にテレビのドラマやコミックの話をして、バーゲンの予定を調べ、プリクラ帳を大切にバッグに入れているのだった。だが、この女の子達も性体験を持っている子はけっこういるはずだ。子供でもちゃんと、表と裏の顔を使い分けているのはわかっていた。
 僕は、高岡さおりから電話がかかってきた機会をとらえて、例の不登校の幽霊部員、前嶋奈津のことを聞き出してみた。思ったよりスムーズに、さおりは、この幽霊部員が実は自殺未遂で、心を病んでしまったことを教えてくれた。
 「彼女は、手首を切って自殺しようとしたんよ。家のお風呂場で。あの子のお母さんがたまたま忘れ物して帰ってきて、お風呂場の水音がしたのに気づいてなかったら、間違いなく死んでた」
 「そう。お母さん、びっくりしたろうね」
 「そりゃ、そうやわ。で、お母さんがあの子を問い詰めたけど、なんで死のうとしたのか、あの子は絶対言おうとせんかったって」
 「そうなんだ」
 「だから両親は心療内科に連れていったんやけど、それでも、あの子はなにも言おうとせんかった」
 「いったい、なにがあったんだろうね?」
 「そうやのよ、ウチらも、それを知りたいの。あの子の家にお見舞いにいったこともあるし。いちおう、吹奏楽部からお見舞いということで、ちゃんとお花も買って」
 「話、聞けた?」
 「あかんかった。あの子のお母さん、すごく警戒してて、学校の関係は絶対、あの子に会わせてくれへんの。あの子の担任になるはずやった先生も、もちろんお見舞いに行ったけど、門前払いやったって」
 「へえ。そりゃ、まあ、そうかもな」
 携帯電話越しに伝わってくる、さおりの声の響きからも、嘘は言っていないことが読み取れた。どうやらこの子たちは、彼女の自殺未遂の理由を本当に知らないらしい。
 「でも、じゃあ、誰もその子と話してないの?」
 「ううん。そうでもない。先生には言われへんけど」
 「なんで?」
 「だって、口止めされてるし」
 「なんだよ高岡、その話、知ってるなら教えてよ」
 「あかん。ほんま、口止めされてるんよ」
 「友達は裏切れないか。あ、そうだ。僕も、高岡の友達になるよ。それなら、どう?」
 「えー? なにいってんの。先生は先生やろ?」
 「まあ、そうなんだけど、どうせ僕、臨時雇いだしね。高岡と友達になるよ」
 「えー? 友達、ねえ。先生、ウチのことほんまは嫌いやろ?」
 「いや、好きだよ」
 ここで僕は、受話器の向こうから伝わってくる響きで、彼女の体温の変化、感情の波を探ろうと感覚を研ぎ澄ませた。
 「うそばっかし。先生、口うますぎ」
 「いや、ほんとだよ。僕、高岡が好きだから、まだこの高校にいるんだ。高岡がいなかったら、とっくに辞めてる」
 「もう! そんなん、めっちゃ嘘っぽい」
 さおりは、けらけらと声を上げて笑った。電話の向こうから、奇妙な気配が漂ってきた。僕は、受話器の向こうにある彼女の心の奥に意識を集中しようとした。
 「でも、ほんとなんだ。学校に来て最初に会ったのが君だったからさ」
 「最初に? ほんと? どこで?」
 「あ、覚えてないか。僕が初めて吹奏楽部に来たとき、君に案内してもらっただろ」
 「いま、思い出した。先生、廊下で困ってたね?」
 「困ってた? そう見えた?」
 「うん。なんか、どこ行っていいかわからない感じだった。道に迷ったみたいに」
 「ああ。それはそうだね。確かに、あのとき、迷ってた。道にも迷ったけど、すぐ辞めるかどうか、迷ってた」
 「辞めなくてよかったね」
 「そう?」
 「うん」
 不意に、さおりは電話を切った。何か、自分の気持ちをあらわにしすぎたことに気付いて、焦ったような感触だった。なにか、彼女の尻尾を踏んだのだろうか? だとしたら、それは何だ?

(3)

 「先生、ウィーンってどんなところやの?」
 「何年ぐらい住んでたん?」
 「7年、いや8年か。きれいな街だけど、退屈といえば退屈かな」
 今は昼休みで、高岡さおりと香里槙子が、二人して音楽室に来てしゃべっていた。実際のところ、槙子と知り合うのに苦労はなかった。向こうから話しに来てくれたのだった。槙子はピアノに上体をもたせかけて立ち、さおりはパイプ椅子に腰かけていた。ピアノに向かって座っている僕の目の前に、ちょうど槙子の豊かな胸があった。彼女は確かに美人だった。彫りの深い目鼻立ち、色白で、瞳は栗色がかって光を放ち、スリムでバランスのいいプロポーションをしていた。槙子と並ぶと、さおりが、いささか野暮ったく見えてしまうぐらいだった。
 「パリとどっちがきれい?」
 「どっちもきれいだけど、パリは建物にしても橋にしても、街全体が飾り立てられてる感じかな。それに、パリの方がずっと広いから、汚い所はたくさんあるよ。ウィーンの方がこじんまりして、すっきりとしてる」
 「ふぅん」
 槙子は鼻を鳴らすような声を出して、ピアノの上に頬づえをついた。
 「あたし、行ってみたいな。今年の夏、ママに連れて行ってもらおうかな。さおりも行かへん?」
 「行きたいけど夏はずっとコンクールの練習やし。行かれへんよ」
  そう言ってさおりはかわいらしい口をとがらせた。
 「あんた、クラブばっかり。もっとエンジョイせんと、高校生活あっという間よ」
 「エンジョイしてるよ。クラブ、すっごい楽しいし。あんたもやってみたらわかるわ」
 「先生、夏休み、バンド休みにしてよ。そしたらさおりも一緒に旅行行ける」
 そう言って、槙子は僕の顔をのぞきこんだ。
 「そうはいかないよ。コーチが仕事だからね。コンクールに出なかったら、くびになってしまう」
 「くびになったら、先生、あたしの個人レッスンに来てよ。たくさんお給料出してもらうから」
 「槙子ちゃん、楽器、何やってるの?」
 「ヴァイオリン。三つの時から」
 「それは無理だな。ピアノなら出来るけど、弦楽器は教えられないよ」
 ちょうど、携帯電話の着メロが鳴った。携帯の着メロが僕の耳から脳髄に入り込んで、神経節を激しく揺さぶった。その着メロの旋律は、ベートーヴェンの第九のメロディーだった。槙子が制服のブレザーの胸ポケットから携帯を取り出してスイッチを押し、耳に当てた。
 ベートーヴェンの第九を、僕はウィーンの音大で一度だけ指揮したことがあった。そのときも、あの旋律が鳴ると自分の脳髄が共鳴して、その場のありとあらゆる人々の思念が一気に心に流入し、どうしようもなく神経が保たなくなって、指揮を中断しなくてはいけなくなった。
 今も、携帯の着メロが僕の心を振り回して、そこにいる二人の女子高生の思念がどっと流入してきた。これはいったい何だ? この二人はまさか?
 だが、ほとんど真っ青に青ざめて茫然と突っ立っている僕のことなど気づきもせず、目の前の女子高生は携帯を耳にあててしゃべっていた。
 「はい。香里です。え、どなた? ああ、何だ。もうすぐ授業やから。今日はあかん。明日? さあ、まだわからへん。お願いやから学校の時間はかけてこないでって行ってるでしょ。夕方かけてよ。そう、じゃね」
 電話を切ると、槙子はさおりに顔をしかめてみせた。
 「うるさいったらないわ。例のプールのやつ。ちょっとしゃべってやったら、つけあがって。番号教えるんやなかった」
 「プールの人って、銀行員の方? お役人の方?」
 「銀行の方よ。金さえ見せれば、女の子はみんなついてくると思ってるんよ。ぶ男のくせして」
 そう言って、槙子は下品な笑い方をした。
 「役人の人は、ちょっといい感じじゃなかった? 前にプリクラ見せてもらったよ」
 「まぁね。あいつはまぁまぁかな。でも、お金あんまり持ってないの。先生も見る? こいつよ。こいつ」
 槙子はブレザーのポケットから手帳を出して、貼ってあるプリクラを見せてくれた。槙子と二人で写っている30代前半ぐらいのその男は、なかなかのハンサムで、黒のレザー・コートを着こんでいた。銀行員と、お役人? なんだかよくわからないが、複雑な何かが、この女の子たちの背後にひそんでるようだった。僕は、奇妙な違和感に襲われていた。この会話そのものが、なんだか異常な気配をはらんでいた。さおりの声が、僕の耳にすんなりと入ってこない。それは、耳栓のせいではなく、さおり自身が、わざと心に蓋をしているようなイメージだった。さおりの声から伝わる奇怪な違和感が耳に残り、どうにも気味が悪い。どういうわけだ? お役人? 銀行員? この女子たちは、いったいどうなっているのだ? これが、うわさにきく援助交際というやつか。
 そうか、彼女たちの様子がおかしいのは、援助交際が原因か? ちょっと、調べてみてやろうか。
 僕にとっては、そんな調査は児戯に等しいはずだった。単に女子高生たちの身辺を探り、この高校の中でいったいなにが進行しているのか、証拠をみつければいいだけだ。敵対する勢力も特になく、調査対象は油断しきっている。何の困難もなく、真相を明らかにできるはずだった。その上で、もしそのネタが面白いものなら、教育委員会をゆすって金を要求するもよし、大したことのない話なら、週刊誌にネタを売って小金にするもよし、大いにこの職場を楽しませてもらうつもりだった。そんな軽いノリで、楽観的に取りかかったのだが、僕はやはりどうかしていたのだ。

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3章 調査開始

(1)

 ともあれ、自分の指導している吹奏楽部に、自殺未遂した挙句、不登校で引きこもっている女子がいるらしい、というのは、どうも気になる。僕は、自殺未遂の前嶋奈津という生徒のことを、少し調べてみるつもりだった。さおりがいうには、レイプされたのが自殺を試みる原因だったようだが、本当にそんなレイプ事件があったのか? 報道されていたのだろうか? まずネット情報で、そのレイプ事件とおぼしきものが出てこないか探ってみたが、見つからなかった。僕は市の図書館で過去の新聞バックナンバーを調べ、地方欄、社会面の報道を洗い出したが、結果は0だった。どうやらそのレイプ事件は、もし事実だったとしても報道発表にならないままもみ消されたらしい。
 それなら、警察の記録を調べればいいのだろうけど、さすがにそれは、一介のアルバイト吹奏楽指導員には荷が重い。とりあえず、五月丘高校の校内情報から探ってみることにした。
 まずは、生活指導部の部屋だ。もしこの高校の生徒がレイプ被害にあったのなら、生徒指導の先生が当然、記録を残しているはずだ。もっともそれは部外秘だろうし、事件にならなかったのなら、すでに個人情報で破棄されたかもしれない。まあ、ものは試しだ。
 生活指導部は、校舎の一階、職員室から中庭をはさんで校門側の駐車場に面していた。だから侵入するには、駐車場側の窓からか、あるいは廊下側のドアからだ。
 もっとも簡単で、確実な方法を僕は選んだ。予備の鍵を使って、堂々とドアから入ったのだ。予備の鍵は、事務所にあった。だから、事務所に侵入しなければいけないか、というと、そんなことはなかった。なぜなら、事務所の職員は放課後5時半には勤務が終わって、いなくなるのだ。一方、クラブ活動は終わるのが5時半で、生徒が下校するのは6時だった。僕は吹奏楽部の指導をしていたので、毎日、音楽室の鍵を無人の事務所に返してから学校を出ることになっていた。ずいぶんアバウトな話だが、この学校ではクラブ活動の指導は、どの部も同じようにやっていた。そんなわけで、僕はその日の帰りに音楽室の鍵を事務所のキーボックスに返却し、生徒指導室の予備の鍵をくすねると、そのまま音楽室に戻った。全ての先生たちが帰ってしまうのを待って、暗闇の中で、廊下を伝い歩きして生徒指導室に戻った。
 だが、生徒指導部だけあって、情報はしっかりガードされていた。生徒指導室の机のロッカーには、事実上何も入っていなかった。どうやら、生徒の問題行動についての資料は、鍵のかかったファイルキャビネットに全ておさまっているようだった。それでは、と生徒指導室のパソコンを探ってみた。けれど、パソコンの生徒指導関係フォルダにはロックがかかっていて、パスワードがないと開けないようになっていた。パスワードを管理しているのは、この高校の生活指導部長の竹之内先生だった。竹之内先生が管理している生活指導の資料をみることが出来れば、事件に関係している生徒についていちいち調べる手間がはぶけるのだが、それが難問だった。
 まあ、素人にしては、この学校の生徒指導部はセキュリティ管理が上出来と言えた。しかたがない。基本的な作業をこなしていくことにした。
 竹之内先生は40代半ばで、どこからどうみても体育教師といった感じの、色の黒い大男だった。人あたりは柔かく、いかにもやり手の生徒指導部長という雰囲気だ。多くの公立高校がそうであるように、この高校でも、生徒指導部というのがあって、体育教師が数人で生徒の問題行動を見張っている。その元締めに当たるのが生徒指導部長で、担当の竹之内先生はベテランの風格を漂わせていた。毎朝のように校門に立って、遅刻してくる生徒に注意を与えたり、生徒集会では必ず訓示をしたりする。この竹之内先生の管理している生徒の情報を、どうにかして入手しなければ、一から調査しなければならなくなる。それは、できれば避けたかった。
 次の課題は、前の音楽の先生のセクハラについて、詳細を知ることだった。それがわかれば、吹奏楽部の女子たちの抱えている事件を、解決する手がかりが得られるのではあるまいか。だがそれを調べるには、校長室に侵入して校長の机を探る必要があった。これまた、いささかやっかいな話だった。校長室は、生徒指導室以上にセキュリティが固いだろうし、探っているところを見つかればくびになるのは目に見えている。あくまでも趣味で生徒の秘密を探り出そうとしているだけなのに、失職してしまっては元も子もない。そこでさしあたり、学校での空き時間に生徒の情報を直接探ることにした。
 まず手始めに、事務室のキーボックスにある各教室の鍵を、目立たないようにこっそり持ち出して合鍵屋でコピーした。これで、体育の授業の時など教室が空っぽになるときに、教室にもぐりこんで生徒の情報を入手できる。手帳や携帯電話のアドレス、メールの記録などだ。こういう地道な作業から、思わぬひろいものをしないとも限らなかった。もうひとつ必要なのは、セクハラでくびになったという前の音楽教師、滝口先生の個人情報だが、これはなかなか難問だった。当然のことながら、校長と教頭に聞いてみても何も答えてくれないに違いない。管理職には守秘義務というのがあるからだ。退職した教師の個人情報が残っているとすれば、校長や教頭のパソコンのデータか、事務室の金庫の中だろう。しかし、それはさすがに僕には手が出せない。だから、せいぜい聞き込みにまわるしかない。
 ところが、どういうわけだか、この辞めた先生について元・同僚たちは奇妙に口が重かった。滝口先生という人、よほどやばいことをやらかしたのだろうか? 試しに、普段はあることないことしゃべりまくっている年配の女性家庭科教師に、この先生のことを尋ねてみた。すると急に黙りこくった挙句、「それは話しちゃいけないの」と言ったのだ。話しちゃいけない? それは、いったいどういうことだ? つまり、このやめた先生については守秘義務があるということなのだろうか?
 音楽と同じ芸術科目の美術教師にも、それとなく尋ねてみた。
 「ああ、あの先生ね。ほんとは言ってはいかんのだが、まあ、あんたも後釜として知っておいたほうがいいだろう」
 かなり年配にみえるがどうやら50代ぐらいとおぼしき男性美術教師は、もったいぶった口調で言った。後釜といっても、僕は部活指導だけなのだが、彼はそこは気にしていないようだった。
 「気をつけないと、あんたも、生徒に訴えられたら最後だからなあ」
 その美術教師の話によると、どうやら滝口先生は、セクハラでくびになったのではなかったらしい。セクハラはしたのかもしれないが、まだくびになったわけではなく、不祥事を起こした先生が反省をする施設にいるというのだ。どうやら、教育委員会のえらい人たちにこっぴどく注意を受けているらしく、どこかの反省室に閉じ込められて事情を聞かれたり、研修をしたりしているらしい。なんだか、カフカめいた話になってきた。教師の世界では、なにか不祥事を起こすと、すぐにはくびにならないで反省期間をへて、ほとぼりがさめたころにまた学校に戻ってくるのだという。
 まてよ。校長は確か、前の音楽の先生がやめたから、と言ったはずだ。あれはうそだったのか? おいおい、滝口先生とやら、何やらかしたんだ? 職員みんながその出来事を知っていて隠蔽工作をしてる? もしかして、生徒たちもうすうす知ってる? よく考えると、これって、実はかなりすごい事件なのではないか?
 いや、いくらなんでも出来過ぎだ。事件を空想する悪い癖が出た。だが、辞めたかもしれない滝口先生について確かな情報を知るには、どうしても事務室や校長や教頭の机の中身を探るしかなさそうだった。それは、ちょっとどうかな? いま、この時点で、そこまで危ない橋を渡るのはさすがにどうだろう? この滝口先生は、実際にはいったい何をやったのか? いま、どこで何をしているのか? 彼が不登校の吹奏楽部員・前嶋奈津をレイプしたのだろうか?

(2)

 仕方がないから、生徒を直接調査することにした。手始めに、吹奏楽部の部長の小泉幸を尾行する。しっかりしていて真面目な小泉だが、意外とこういう子が、秘密を抱えているものなのだ。小泉は部長なので、毎日、音楽室の片付けを確認してから、戸締りをして、鍵を準備室にいる僕に返却してから帰るのだった。
 その日、小泉は吹奏楽部員ではない女子と帰っていくようなので、僕はさっそく尾行してみた。その女子は、なかなかスタイルが良く、浅黒い引き締まった顔立ちで、少し癖のある皮肉な目つきが印象的だった。たぶん、これまで一度も学校でみた覚えがない。もしかしたら、小泉とは学年が違うのかもしれない。
 二人の女子生徒は五月丘高校を出ると、自転車に二人乗りをして、けやき坂を西へ下って行く。この細い道路は自転車なら楽だが、車で走るにはやや狭い。元は周囲の畑の農道だったらしい狭い道路は、曲がりくねって数百メートル下り、ロマンチック・ロードと呼ばれる二車線道路に合流する。小泉の連れの女子がペダルをこぎ、小泉は後ろで立ってプリーツスカートを風にはためかせていた。すでに日は暮れて、黄昏時だった。スマートをゆっくり走らせて自転車のあとをつけるのは、なかなか骨が折れた。二人の女生徒は、ロマンチック・ロードに出ると赤信号を無視して左に曲がり、歩道の上を走って行ってしまった。こちらは信号が変わるのを待つしかない。ようやく信号が変わって、左折してしばらく車を走らせると、大きなプラタナスの木がある店の前に、さきほどの自転車があった。ライブハウス・キッチュという店だった。女生徒は、二人そろって店に入ったのだろうか?
 スマートを、少し離れた路上に停め、しばらく周囲をうかがってから、車を降りて店に近づいて行った。もちろん、店に乗り込むつもりはなかった。まだ音楽準備室にいるはずの僕が店に現れたりすれば、小泉は警戒するだろう。
 ライブハウスのその夜の出し物は何だろうか。店のドア前の小さな黒板に、近隣の有名国立大である浪華大学の、ジャズ研究会のビッグバンドが出演すると書いてあった。浪大生のバンドか。彼女たちはどうするつもりなんだろう。とりあえず、見張るしかない。車に戻り、シートにゆったりと頭をもたせかけて、張り込みに入った。ここからさほど遠くない所に、浪華大学のキャンパスがあるので、五月丘高校の生徒がそのバンドのライブをみにきても、別におかしくはなかった。彼女たちは、ただのファンなのか、それともバンドのメンバーか誰かと特別な関係なのか。さすがに、浪華大の学生が女子高生相手に援助交際をするというのは、少々考えにくい。バンドのメンバーならなおさら、女の子にもてるだろうから、金で女子高生を買う必要はないのではないか。もし、彼女たちがこのバンドのメンバーと関係があったとしても、単なる大学生と女子高生のカップルかもしれない。しかし、浪華大のOBの一般男性が、これにからんでいる可能性もある。OBの男が、援助交際のためにこのライブに来ているということも考えられる。
 このロマンチック・ロード界隈は、なかなかおしゃれな雰囲気だった。ライブハウスは、このキッチュという店の他にあと数軒あった。小ぎれいなイタリアレストランやドイツレストランがあり、和洋折衷の小料理屋もあった。かわいらしいケーキ屋や、輸入雑貨の店、花屋もあった。平日の夜でもけっこうにぎわっていて、週末ともなれば、路上にヨーロッパ車やアメリカ車が並ぶのだった。そもそも、この界隈は値段の高い店が多くて、高校生が気軽に出入りできる感じではなかった。このキッチュという店も、チャージ料金がけっこうかかるはずだから、あの二人の女生徒は、招待券でも持っていたのだろうか。もしそうなら、小泉のイメージを修正せざるをえない。小泉に、大学生の男友達がいるようにはとてもみえない。あるいは、あの連れの女子が、大学生と知り合いなのだろうか。つらつらと考えをめぐらせるうちに、小一時間ほどして、二人の女子がキッチュから出て来た。小泉幸は、背の高い男と肩を並べていた。男は暗い色のスーツを着て、手を小泉の制服の腰にまわしていた。もう一人の女子は、一人でそのあとに歩いていた。小泉は彼女に軽く手を振って、そのまま男と抱き合わんばかりにして歩み去った。もう一人の女子は、そのあとすぐに、一人で自転車に乗って帰って行った。
 僕は、ちょっと混乱してしまった。どうなっている? あの真面目で優等生の小泉幸が、まさか? あの男は小泉の彼氏の大学生か? 顔がみえなかったので、判断しようがなかった。みていると、小泉は男と連れ立って、路上に停めてあった銀色のBMWに乗りこんだ。
 だんだん億劫になってきた。小泉が誰と付き合っていようと、どうでもいいではないか。だが、乗りかかった舟だ。BMWのあとをつけて、スマートを走らせた。小泉を乗せた車は、空港の方へ走って行く。やがて、空港の近辺にたくさん並んでいるラブホテルの一軒に、小泉を乗せたBMWはあっさりと入って行った。それを見届け、僕は帰路についた。
 やれやれだ。優等生のはずの小泉幸が、男とラブホテルにしけこんだのには、いささかがっかりした。おまけに、この件は、調査の手がかりという点では役に立ちそうにない。大学生と女子高生がラブホテルに行っても、援助交際ではないだろう。小泉のイメージは崩れてしまったが、これも、今どきの高校生の偽らざる姿というものなのだ。

(3)

 数日後、また空き時間に、生徒について基礎調査をやってみることにした。ふと気になって、不登校の吹奏楽部員、前嶋奈津のファイルをみてみようと思ったのだ。聞いた話では、生徒指導室に全校生徒の生徒ファイルがそろっているという。前回と同じ手口で生徒指導室にしのびこみ、ファイルを開いて、前嶋奈津のページをみた。顔写真が、名前の横に貼ってあった。
 『こいつだ。なんでもっと早く、基本的な調査をやらなかったんだ。この女子はあの夜、小泉幸と一緒に、ライブハウスに行った女生徒でははいか。まっさきに確かめてみるべきだった。どうにも、腕がなまってしまっている。こんなことでは』
 それにしても、不登校だというのに、いったいこの女子は、何をやっているのか? 自殺未遂の話は、やっぱりうそか? むらむらと腹立たしい思いがわき起こるとともに、奇妙なまでに彼女のことが知りたくなった。
 不登校だというわりに、この前実物をみた感じでは、前嶋奈津はいかにも遊び慣れていそうにみえた。一方で、大学生の男とラブホテルにしけこむ小泉幸を尻目に、一人で自転車で帰るというのも、なんだか変わっている感じだ。遠目に観察しただけだが、実物の前嶋奈津はスタイルが良く、瓜実顔に少しパーマをかけたセミロングの髪、厚めの唇が肉感的だった。斜に構えていて、一筋網ではいかない感じがした。
 次はこの前嶋に近づいてみよう。どうみても、彼女は不登校ではないようにみえる。自殺未遂は本当なのかもしれないが、噂されているようなアンタッチャブルな女子ではないのかもしれない。とはいえ、表立って接近するのは難しい。また小泉幸と一緒に帰る時を狙ってもいいが、出来れば前嶋と二人きりになりたかった。前嶋が、この一連の謎の手がかりになるかどうかわからないが、妙に勘が働くのだ。
『前嶋奈津、いったいどんな女子なんだ? なぜ友達がラブホに行くのを尻目にさっさと帰ったのだ? そもそも、なんで学校に来ないのにライブハウスに行ってる? 大学生のバンドマン目当てか? それとも友達につきあってあげただけか? レイプされたというのは本当か? 自殺未遂した話は、事実なのか?』
 前嶋奈津と二人きりになって、根掘り葉掘り、尋ねてみたかった。
 その後、前嶋奈津を探して、町をあてもなくみてまわり始めた。五月丘高校の周辺やロマンチック・ロードだけでなく、近隣の市にまで足を伸ばした。この日は土曜日で授業はなく、テスト前で部活動も休みだったので、スマートを走らせて隣接する市の繁華街まで出て来た。ここは関西府の新幹線駅にほど近く、東京資本の大型雑貨店のあるビルを中心に、年中人通りの多い街だった。車を駅の近くの駐車場に入れると、サイレントヘッドフォーンを頭にのせて、高校生が出入りしそうな店をいくつかチェックした。こういう場所を地道にみてまわっているうちに、前嶋奈津の手がかりがつかめるかもしれない。そんなあてのない期待を抱いていた。だが、探している相手に限って会えないという法則のままに、人通りの多い街角で、女子高生も大勢出歩いているのに、前嶋奈津だけはいないのだった。もっとも、まがりなりにも不登校の女生徒、こんな真っ昼間に盛り場を出歩いたりはしないのかもしれなかった。
 探している相手に会えない代わり、探してもいない相手にばったり会ってしまう法則もある。前嶋奈津ではないが、香里槙子を見かけた。土曜日にこの繁華街にいても不思議はないが、女子高生が一人でいるのはちょっと怪しい気がした。大型雑貨店の裏手のカフェに一人で座っている槙子に、僕は近づいて行った。彼女はシェイクか何か飲んでいて、本当に一人きりのようだった。  
 「待ち合わせ?」
 僕が声をかけると、さっと振り向いた。だが、僕を見ても、特にがっかりした様子はみせなかった。
 「あら、先生」
 槙子は、ストローをくわえたまま言った。
 「あら先生、じゃないよ。何してんの、こんなとこで」
 そう言って、彼女の向かいの椅子に勝手に腰を下ろした。
 「待ち合わせよ」
 そう言って、槙子はシェイクのグラスをスチールのテーブルに置いた。
 「彼氏かな?」
 「違う。ただの友達よ。男だけどね」
 彼女はストローを口からはなして、かわいらしい舌先をちらりと見せた。
 「先生、他の先生に言わんといてな。あの人ら、すぐに援助交際や何やって、うるさいから」
 「言わないよ」
 生真面目に答えながら、槙子をしげしげとながめた。品のいい白のブラウスにピンクのスカート、パステルトーンのセーターを肩にはおっていた。
 「彼氏でもない男と待ち合わせか。実は、ほんとに援助交際?」
 「そうかもね」
 そう言って、槙子は面白くもなさそうに笑ってみせた。
 「でも、あたし、お金はもらわへんの。お金持ちのお嬢様やし。逆に、貢いでるんよ、これでも。何人か、ヒモを養ってるの」
 なにがお嬢様だ。急に、僕は槙子の発する声が嫌いになった。響きのいいなめらかなアルトの声なのに、声音に奇妙なうなりがあって、その微妙な響きのずれのような感覚が、僕の脳髄をむず痒くさせてくる。僕の探してるのはお前じゃない。
 「僕も貢がれるようになりたいね」
 内心を押し隠してそう言うと、槙子はじっと僕をみて、まんざら嘘でもなさそうな優しげな微笑みを浮かべた。
 「貢いであげてもいいよ。あたし、先生好きやから」
 そう言って僕の顔に顔を寄せてくるのだが、その声が、相変わらず不快なのは変わらない。こいつは、ほんとに嫌いだ。
 「じゃあ、他の先生に見つからないようにね」
 僕は不自然にみえないように気をつけて、立ち上がった。
 「うん。バイバイ、先生」
 槙子は、軽く手を振って、またシェイクのストローをくわえた。僕は、さっさと背を向けてカフェを離れた。無性に腹立たしくなってきた。
 『なにが、先生好きだから、だ。ふざけるな、女子高生のくせに。ちょっと金持ちの娘だからって、なんでも許されると思うな』
 足早に歩き続けて角を曲がり、バックパックを足元におろして、サイレントヘッドフォーンをはずすと、着ていた薄手のジャンパーを素早く脱いだ。裏返して着直しすと、リバーシブルのジャンパーだから、こういうときに使い勝手がいい。バックパックからディズニーキャラクターのイラスト付きのキャップを出してかぶり、サイレントヘッドフォーンの代わりに耳栓をした。さらに細い銀色フレームの眼鏡を出してかけた。もちろん伊達眼鏡だ。雑貨店の中を急いで通り抜けて、別の出入口から通りに出ると、先ほどのカフェの方に近づいた。通りに立って、カフェの中を見ているうちに、はたして、香里槙子が男と一緒に出て来た。連れの男はダークグレーのスーツ姿で、小さな革のビジネスバッグを持っていた。背がすらりと高く、短めの髪を後ろにきれいになでつけていた。さもありなん、だ。
 二人のあとを少し距離をおいてつけていく。なにしろ人通りが多いので、尾行は楽だった。だが、わざわざあとをつけるまでもなく、二人はそのまま駅の改札に向かってまっすぐ歩いて行った。このまま地下鉄で都心に出るのか? あるいは逆に丘陵の方へ? 迷っている暇はなかった。僕もあとに付いて地下鉄に乗った。駐車場に停めたままの車が気になったが、やむを得ない。多少の出費は、趣味のためだと割り切ることにした。
 二人は都心方面のプラットホームにエスカレーターで上がっていく。すぐに地下鉄が来て、僕は同じ車両に乗り込んだ。少し離れたところから、二人の様子を見ていると、二人はとても親しげに何事か語り合っていた。もっとも、槙子のことだ、初対面の男とでも、こんな風に親しくしゃべるのかもしれない。地下鉄の中は騒音がひどいので、逆に僕の耳には楽だった。じっくり様子を観察する間もなく、次に停車した新幹線接続の駅で、二人は地下鉄を降りてしまった。もしや、尾行を気づかれたのか? 迷っている時間はない。仕方なく、僕も付いて降りた。二人は、プラットフォームを歩いてエスカレーターに乗り、新幹線駅との接続通路に歩いていく。そのまま、まっすぐ新幹線駅の改札へ向かっていくではないか。おやおや、まさか今から二人で旅行に行くのか? それとも槙子のやつ、家出か? だが、二人とも、ほとんど手ぶらに近い。どうなってる? 二人は、そのままどんどん新幹線改札へ歩いて行ってしまう。スマートを駐車場に入れたままだし、それに、新幹線の指定席にでも座られると、尾行はやりにくくなる。迷っているうちに、槙子と連れの男は、とうとう新幹線駅の改札を通って、中に入ってしまった。待てよ。あの二人、切符を買っていないぞ。あらかじめ用意してあったのか? 一体、どこへ行く? いずれにせよ、尾行はあきらめることにした。これ以上は追いきれない。さすがに、新幹線の料金を払ってまで、趣味を続けるのは、いささか財布に負担だった。
 また地下鉄に乗って、さっきの繁華街に戻った。もう、その日は探索をやめにして、駅前のサウナで一息いれることにした。

(4)

 週明けの月曜日、早目に学校に出て、香里槙子のクラスの前をさりげなく通ってみた。教室の中に、槙子はちゃんといた。やはり男と週末旅行だったのか? その日は、槙子のクラスは音楽の授業がなかったので、彼女に接触出来なかった。どうも気にかかるので、少々危険ではあるが、自分の方からアプローチしてみることにした。次の日、槙子が廊下を歩いているところへ偶然のように通りかかり、声をかけた。槙子は高岡さおりと一緒だった。
 「やぁ、香里さん。その後どう、援助交際の方は?」
 冗談めかしてそう声をかけると、さおりはびっくりしたように僕を見たが、槙子は平然と答えた。
 「まぁまぁってとこね。大した男はおらんかったけど」
 「あのね。今日、ちょっと昼休みにでも、音楽室に来てくれないか。香里さんのヴァイオリンのことなんだけど」
 「いいよ。お弁当食べたら行く。さおり、一緒に行く?」
 「あたし、サックスの練習しなきゃ」
 さおりは少し硬い表情で言った。
 「じゃあ、後で」
 槙子だけを誘ったことで、高岡さおりのご機嫌を損ねてしまったようだ。まあ、致し方ない。昼休み、香里槙子は音楽室にやって来た。準備室に彼女を入れて、パイプ椅子を持ってきてやった。槙子は背筋を伸ばして、高々と脚を組んだ。短めにした制服のプリーツスカートが少しめくれて、パンティが見えそうになったが、きわどい角度で見えなかった。これは、鏡の前で練習した成果だとしか思えなかった。援交女子め、さっそく、色仕掛けか。それなら、と、僕は遠慮なく、きれいにむだ毛処理してある形のいい生足を、じろじろながめた。
 「ヴァイオリンの話はうそなんだ」
 「だと思った」
 「ほんとはね、ちょっとききたいことがあったんだ。この前、繁華街で会ったとき、君がサラリーマンみたいな男と、二人でどこかへ行くのを見たんだ。それで、ちょっと気になってね。まさか、ほんとに援助交際してるんじゃないだろうね?」
 槙子は、眉一つ動かさなかった。
 「何で先生がそんなこと気にするの?」
 「君のこと気に入ってるから」
 「ふうん」
 槙子は、満足そうな表情を浮かべて微笑した。
 「あたしも先生のこと好きよ。このまえ、言ったでしょ?」
 「それは聞いた」
 答えながら、僕は、頭にのせていたサイレントヘッドフォーンを少し動かして、耳をしっかりとふさいだ。どうにも、この女子の発する声の響きが神経にさわるのだ。槙子は、僕の様子には頓着せず、話を続けた。
 「だから、ちゃんと言うけど、あれは、あたしの彼氏の一人よ。有名な会社の若手役員か何かなの。前に、男に貢いでるなんて言ったけど、あれはうそ。彼氏にたくさんおごってもらってるわ。お金持ちの人しか、あたし相手にしないの。だって、貧乏な人って中身も貧しいじゃない。で、あれは彼氏で、あの後デートしたってわけ」
 妙だった。さきほどまで、非常に不快感のあった槙子の話し声が、急速に、それほど嫌に感じなくなってきた。むしろ、不思議に心地よく感じられるぐらいだった。僕は、彼女にちょっと圧倒されてしまって、言葉が返せなかった。それでも無理やり平静を装って尋ねた。
 「どこ行ったの?」
 「京都」
 「へぇ」
 「あの人、京都に会社があって、あっちがホームグランドなの。いろいろ遊ぶところ詳しいから、よく連れて行ってもらうんだ」
 彼女の声は、ますます耳に心地よく響く。どうなっているんだ? 僕はこの女子に本当に籠絡されてしまったのか?
 「なるほどね」
 「安心した?」
 「半分ね」
 「半分?」
 「そう。君が援助交際してないってわかってよかったけど、大金持ちの彼氏が何人もいるからがっかりだ」
 「残念?」
 「まあね」
 「でも、先生にもチャンスはあるわよ。あたし、飽きっぽいから。先生、けっこうタイプかも」
 そう言って槙子はすばやく手を伸ばし、僕のフェラガモのネクタイを引っ張って、思い切り顔を寄せてきた。彼女の使っているローズ系の香水が匂った。予想に反して、嫌いな匂いではなかった。彼女の口からは、昼に食べたらしいリンゴのにおいがした。
 香里槙子の話は、とりあえず筋は通っていた。金持ちの彼氏と繁華街で待ち合わせて、新幹線で京都に遊びに行ったということか。だが、確かめようはなかった。これは、もうしばらく、槙子を追ってみた方がいいかもしれない。しかし、だからといって槙子に接近しすぎるのも、考えものだった。あの調子で、槙子と個人的なつきあいにでもなったら、他の女の子達にそっぽを向かれてしまう。今はまだ、調査を始めたばかりなのだ。
 それに、前嶋奈津の方も、ずっと気になってた。相変わらず、不登校のままだったし、街で探すのだが全く見つけられない。やはり、前回のように小泉と待ち合わせてライブに行くのを、気長に待つしかない。
 念のため、体育の授業中こっそり教室に忍び込んで、小泉幸のバッグを探ってみた。かわいいデザインの手帳が入っていた。予定表をみてみると、「なつ、校門」と書いてある日付があった。その日、前嶋奈津は、吹奏楽部の練習が終わるまでどこかで待っていて、校門のところで小泉幸と落ち合うのだろう。奈津は小泉と、ライブハウス・キッチュに定期的に通っているのかもしれなかった。その日付にキッチュでなにをやっているか、電話で問い合わせてみた。案の定、前回と同じ浪華大学のビッグバンドの出演日だった。そうなると、待ち合わせのとき、奈津は一人で、どこで時間をつぶしているのだろう? なにしろ、不登校のはずなのだから、学校には入れないだろう。もしかして、学校の近くに、行きつけの店でもあるのか? そこがわかれば、奈津に個人的に接近するきっかけがつかめるかもしれない。
 問題の待ち合わせの日、奈津を自宅から尾行してみることにした。奈津の自宅は、生徒指導ファイルによると、五月丘高校まで自転車通学できる距離の、一山越えた隣の市の高級住宅街にあった。その日は勤務を休んで、僕は夕方、スマートを奈津の自宅近くに路上駐車して、張り込んだ。奈津の家は、高級住宅地にある2階建の大きな庭付き一戸建てだった。やがて、奈津が自宅から出てきた。自転車で五月丘高校に向かう道を走りだす。ゆっくりとスマートであとをつける。奈津はロマンチック・ロードの手前で左に曲がった。そこから住宅地の中に入りこみ、曲がりくねった道路を自転車で行く彼女は、短かめの白いフリルスカートをはためかせて、まるで小さな女の子のようだった。やがて、貯水池の横を通って、奈津は大きな建物の前で自転車のスピードをゆるめた。その建物は、高い塀に囲まれていた。大きな鉄の門のところに高いポールが立っていて、どこかの国旗が揚げられていた。奈津がそのまま建物の門の中に入って行ってしまったので、いささか驚いた。車をゆっくり走らせて建物の前を通過した。門には守衛が立っていた。くすんだブルーの制服姿のその男は、巨大な身体の白人だった。門の脇のプレートに、「ロシア領事館」とあるのが見えた。建物の向かいの少し離れた所には、関西府警の機動隊とおぼしき、いかめしい車が停まっていた。
 狐につままれた気分だった。奈津はいったい、ロシア領事館に何の用が? そもそも、どうしてあっさりと入っていけた? 彼女は一体、何者だ?
 いずれにしても、その場所で張り込んで奈津が出てくるのを待つ、というわけにはいかなかった。領事館の前だし、機動隊はいるし、へたにうろうろしていたら不審尋問されてしまう。早々に退散するしかなかった。
 とりあえず、奈津がどこで時間をつぶしているかはわかったわけだ。それにしても、ロシア領事館とは。一体どうなっているんだ?
 スマートを走らせてロマンチック・ロードに出た。吹奏楽部の練習が終わるまで、時間をつぶすしかない。ライブハウス・キッチュの前を通ってみて、今夜が浪華大学のビッグバンドのライブだということを確認した。小一時間ほど経ってから、喫茶店の駐車場から車を出し、高校の近くの道に停めて待った。
 まもなく、前嶋奈津が自転車で現れた。校門から少し離れた路上で、自転車にまたがったまま、彼女はじっと待っていた。その彼女を見つめながら、僕も車の中で待った。小泉幸が校門から一人で出てきた。前嶋奈津と合流すると、また自転車に二人乗りして、走り出した。なるほど。友達を待つ間、ロシア領事館で時間をつぶす女子高生、か。謎だな。ますます、この前島奈津という女子高生が気になってきた。
 今回も、前と同じく、二人の女生徒は自転車でロマンチック・ロードに出ると、ライブハウス・キッチュに入っていった。さきほど、確かめてみた通り、今夜も、前回と同じく、浪華大学のビッグバンドがライブをやるのだ。おそらく、前と同じように、小泉幸は大学生とおぼしき男の車で、またラブホテルに直行するのだろう。前嶋奈津は、今回もまた自転車で一人、帰るのだろうか、それとも、今度は誰か男を捕まえて、友達の女子とは別のラブホテルに行くのだろうか? あるいは、二人で男を捕まえて、乱行パーティーにもちこむつもりかもしれない。本来なら、路上で張り込んで、二人の女子の行動を確かめておかなくてはならないのだが、僕はなんだか、急に嫌気がさしてきた。
 彼女たちは、一体どうなっているのだろう? 北摂のこの地域は、裕福な家庭が多く、何不自由ない生活をしているはずだ。五月丘高校は、学力レベルこそ高くはないが、生徒たちは勉強に部活に恋愛に、と青春を謳歌しているはずだ。その彼女たちが、なぜ援助交際、つまりは売春などするのだろう? それほどまでに肉欲に溺れてしまっているのか? 16、7の小娘たちが? さもなければ、金銭欲にとりつかれてしまっているのか? いや、そうではあるまい。おそらく彼女たちは、ただ刺激が欲しいだけなのだ。あまりに自由でありすぎて、甘やかされた精神が、その空虚さに耐えられず、何か手で掴めるものを求めてもがいているのだ。彼女たちは自由の重みにつぶされつつあるのだ。自由の重さに耐えられずに、あたかも麻薬に麻痺した手首をカッターナイフで少しずつ切って、滴る血の赤さに身震いするように、刺激を求めてエスカレートし続けるのだ。柄にもなく、僕は内省的になっていた。どこかで、本で読んだような気がする屁理屈をもってきて、小泉幸と前嶋奈津の行動を、わけ知り顔で説明してみようと、一人で躍起になっていた。
 僕は張り込みをやめて、部屋に帰った。コンロの火にエスプレッソメーカーをかけて、沸き上がるのを待った。マグカップに半分ほど入れたミルクに、沸騰したエスプレッソを注ぎ、かきまぜて、ラテを作った。ラジカセに入ったままのギドン・クレーメルのCDを再生した。バッハの無伴奏ソナタに耳を傾けて、ラテをすすった。エスプレッソの香りで、条件反射的に、ウィーンのあのカフェを思い出した。ラテを飲むといつも頭に浮かんでくる。あのカフェの落ち着いた雰囲気、壁や床に染みついたコーヒー豆の香りと焼き菓子のにおい。どれくらいの時間を、あの店で過ごしたことだろう。定点観察の場所にしていたあのカフェは、リンク通りの内側、オペラ座のほど近くにあった。音楽院の学生だった僕は、テーブルの下にフレンチホルンのハードケースを置いていた。目ざとくそれを見つけた白髪の老人や角ぶち眼鏡のおじさんに、オペラの噂話を聞かされるのだが、いちいち愛想よくうなづいていた。あの国では、そういったカフェでのたわいもない雑誌の中から、何事か大切なものが動き出すのだった。陰謀と策略の渦巻く街、国際政治の裏舞台、ウィーンは、冷戦の前線だった。
 そして世界は確かに変わった。僕のささやかな、しかし危険きわまりないアルバイトは終わりを告げた。見捨てられて、危く異国の街の裏通りに投げ捨てられるところだった。しかし、やっとの思いで帰って来たこの国では、全く何も変わっていなかった。人々は何も気づいてはいなかった。このままゆっくりと、巨象が病に倒れて少しずつ死に至るように、巨木が倒れてゆっくりと腐っていくように、この国は滅びへと向かっていくのだろう。そのことを、あの子らは、実は気づいているのかもしれなかった。滅びつつある自分達の未来を無意識にわかっているからこそ、あの女子たちは、全てのモラルから解き放たれようとして、手ががりのない自由の中でもがき続けているのだろうか。そんならちもない独白を続けながら、僕はラテを飲み干すと、風呂にお湯を入れるため立ち上がった。

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4章 ロシア領事館のパーティー

(1)

 昼休み、音楽準備室で、前の音楽教師、滝口先生が準備室の棚に残していったコーヒーメーカーと安物のコーヒー豆をひいて淹れた。調べていくうちにわかってきたのは、セクハラ事件を起こした滝口先生が、謹慎を命じられて教育委員会のどこかの場所で研修を受けている、ということだった。滝口先生には気の毒だが、そのおかげで、僕はこの準備室を独占することが出来るのだ。
 ドアにノックの音がした。見ると、ガラスの向こうに、香里槙子の華やかな笑顔がみえた。柄にもなく、少し胸が高鳴った。いよいよ、彼女の方からアプローチしてきたのだろうか。
 「入っていいですか?」
 ききながら、槙子はすでに準備室に入ってきていた。うっかり、サイレントヘッドフォーンを装着していなかったのだが、このごろ、槙子の声は、耳栓のままで聴いてもあまり気にならなくなっていた。昼休みの練習で、音楽室に来ている吹奏楽部員の中に、高岡さおりがいた。準備室との間のガラス越しに、突き刺すような彼女の視線を感じた。
 槙子は、準備室の机の端に、制服のプリーツスカートに包まれたお尻をちょいとのせて、チラシのような紙を差し出した。 
 「これ、先生も来てよ」
 「何だい?」
 チラシをみると、〈ロシア領事館・親善パーティー〉とあった。ロシア領事館? まさか?
 「このパーティーのアトラクションで、あたし、ヴァイオリン弾くのよ」
 「ふうん、なるほどね」
 僕は、思わずぽろっと言ってしまった。槙子はけげんそうな顔をした。
 「なるほどって?」
 「いや、さすがだな、と思ってさ」
 どうやら、状況がみえてきたようだ。そういうことなら、前嶋奈津が領事館に出入りしていたのも、わからないではない。おそらく、奈津もこのパーティーに関係しているにちがいない。ここの生徒がボランティアで国際交流活動をやっているというのを、職員室で耳にしたことを思い出した。よく考えてみれば、ありがちな話だ。近所に領事館があるのなら、別に不思議なことではない。
 「いいよ、行くよ」
 「もう一つ、お願いがあるの」
 そう言って槙子は、短めのプリーツスカートから伸びている、形のいい足をぶらぶらさせた。
 「何だい?」
 「先生、吹奏楽部のコーチなんだから、前嶋さんのこと知ってるでしょ?」
 「不登校の子だったね」
 「そうよ。あの子、一応吹奏楽部に入ってるんだから、先生の教え子やのよ」
 「教え子じゃないよ。僕は先生じゃないし」
 「なによ、先生でしょ、吹奏楽の」
 「ま、それはそうだが」
 「でね、そのパーティーにあの子も来るの。その時、紹介するから、あの子に、吹奏楽部に出て来るよう言ってあげてほしいの」
 「なるほどね」
 少々見直した思いで、きれいな脚をぶらぶらさせている槙子をながめた。男と遊んでいるばかりではなく、友達思いのところもあるらしい。
 「でも、僕が言っても、その子が来るようになるとは限らないよ」
 「そりゃそうよ。でも、あたしら、あの子の力になりたいんよ。もしあの子が先生のこと気に入って、部活に出てくるようになったら、状態がいい方に向くやん。このままやったら、あの子ずっと学校に来ないもん。それに、あの子、音楽にかけてはすごいんよ。あたしなんか足元にもおよばんぐらい」
 「へぇ」
 「じゃあ、先生、絶対来てよ」
 槙子は言うだけ言うと、机から飛び降りて、僕のネクタイを引っ張ると、チラシを僕の手の中に押し込んだ。会うたびにネクタイを引っ張られるのが、習慣になってしまっている。
 「約束やからね!」
 そう言って、槙子は準備室から出て行った。音楽室の中から、高岡さおりの視線が、まだ僕に突き刺さっている。僕がそちらをみると、さおりはすっと視線をそらした。
 前嶋奈津については、これで、一応の説明はついたわけだ。だが、なにか、腑に落ちない。ロシア領事館に奈津が出入りしているのを突き止めたあと、すぐに槙子がやってきて、パーティーに誘われたわけだ。なんだか、タイミングがよすぎる。僕が奈津を尾行しているのに気づいて、これ以上探られないうちにごまかそうというのでは? そもそもが、うさんくさい話なのだ。疑ってかかった方がよさそうだ。

(2)

 領事館のパーティーの日、少し離れたロマンチック・ロードの駐車場にスマートを停めておいた。歩いて領事館まで戻ると、僕は一人で高い門をくぐった。小山のような巨体のロシア人の守衛に、一瞬だがしっかりとにらまれた。
 中は、ちょっとした宮殿のような造りだった。案内に従って、飾りつきの手すりの階段を上がり、ふかふかの赤いじゅうたんを踏んで二階の奥へ歩いた。パーティー会場は、天井が高くシャンデリアの下がった白い壁の広間だった。重そうなぶ厚いテーブルが並び、その上にカナッペや果物が盛ってあった。正面にステージがしつらえてあり、グランドピアノと譜面台があった。
 「先生、ちゃんと来てくれたんですね」
 そう言って、香里槙子が近づいてきた。今日の彼女は、鮮やかな蛍光ピンクのロングドレスを着こんで、長い豊かな黒髪をアップにまとめ、造花の髪飾りを挿していた。
 「やあ。出演者がこんなとこにいていいの?」
 「出番まで、とりあえず腹ごしらえ」
 そう言って、槙子は舌の先をちらりとみせた。それから、傍に付いてきた男を手でしめした。
 「紹介するわ。こちら、貝塚さん。あたしのボーイフレンドの一人よ。こちらが大澤先生。あたしの高校で吹奏楽のコーチをしているの」
 貝塚という男は、40代半ばぐらいのようだった。関西府の教育委員会の役人だということだが、あまりそうは思えなかった。槙子の隣にいても不釣り合いにみえない程度の男前で、背が高く、上等そうな生地の黒スーツを着ていた。彼は、何か他のことを考えているような顔で、僕にすばやく右手を差し出した。妙に柔かくて、汗ばんだ手だった。こちらを見ずに何やら二言三言つぶやいて、すぐに槙子の方に向き直った。だが、槙子は貝塚のことをあまり気にかけていないようだった。会場を手でしめしながら、僕に言った。
 「なかなか立派なもんでしょ。あたし、こういうのわりと好きやの」
 「ずいぶんお金がかかってそうだね」
 「住むならこういうところに住みたいなあ」
 「じゃあ、大使夫人にでもなるか」
 「残念でした。あたし、結婚する気ないの」
 「ふうん。じゃあ、自分で大使になるか」
 適当な受け答えをしながら、僕は会場をぐるりと見まわしていた。まっさきに目に留まったのは、なんと、五月丘高校のあの校長だった。会場の真ん中にあるテーブルの脇に立って、しきりにカナッペをつまんでいる。僕に気づいて、校長はお箸を持った手を陽気に振ってみせた。僕はあわててお辞儀を返したが、いますぐここから帰りたくなった。
 広間の中央付近には、高岡さおりがいた。見覚えのない20歳前ぐらいの男と一緒にいる。非常にハンサムな男で、スリムな黒のスーツに身を包み、さおりに注意深く目をくばっていた。さおりは私に気づいたが、軽く会釈しただけで、つんと澄ましていた。一体、どうしたというのやら。さおりは濃いブルーのワンピース姿で、連れの男に何かしきりに話しかけていた。他に、小泉幸がいた。いつかの大学生の男と一緒だった。地味な顔に似合わない、真紅のワンピース姿だった。いつもながら、この女子は何を考えているのかさっぱりわからない。
 どうも、変な感じだった。みたところ、このパーティーに来ている人間は、高校生の女子達のほかは、役人だか外交官だか、とにかく大人の男性ばかりのようだった。おまけに、五月丘高校の校長と教頭が、二人そろってわざわざ来ている。それに、生徒指導部長の竹之内先生もいた。コバンザメのようにいつも竹之内に付き従っている若い体育教師の男も、一緒にいた。このパーティーは、一体何だ? どう考えても、怪しい。
 槙子が言った通り、前嶋奈津も会場にいた。背の高い太ったロシア人の男としゃべっている。かわいらしいピンクのジャケットに白のフレアスカートを着ていた。槙子が僕のジャケットのそでをつかんで、奈津の方に連れていってくれた。
 「紹介するわ、先生。こちらが前嶋奈津さん。実は先生の生徒なのよ。こちらが大澤先生。吹奏楽部のコーチよ」
 前嶋奈津は、臆せずこちらに歩み寄ると、にっこりと微笑みながら右手を差し出した。僕は、とまどいながら、華奢なその手を軽く握ったが、彼女は意外なほどの力をこめて僕の手をきつく握り、すぐに離した。
 「初めまして」
 「前嶋奈津です。よろしくお願いします」
 彼女は、少しかすれた小さな声で言った。今日は耳栓しかしていないのに、その声は意外なほど、不快感をもたらさなかった。
 「こちらこそ。香里さんの話では、五月丘高校の吹奏楽部員だそうだね」
 「はい、一度しか行ってませんが」
 間近にみる実物の前嶋奈津は、まさしく美少女と呼ぶにふさわしかった。スタイルが良く、瓜実顔に少しパーマをかけたセミロングの髪、厚めの唇が肉感的だった。浅黒い引き締まった顔立ちで、少し癖のある皮肉な目つきが魅力的だった。斜に構えていて、一筋網ではいかないと言いたげな感じがした。ピンクのジャケットを優雅に着こなしていた。
 どうやら槙子のもくろみは、このパーティーで、僕に前嶋奈津をエスコートさせることのようだった。槙子は僕に意味ありげな目配せをして、さっさと二人きりにしてその場を離れていったのだ。僕は前嶋奈津の傍に立ったまま、当たりさわりのないことを話しかけてみた。
 「香里さんの話では、ピアノがとても上手なんだってね」
 「そうでもないです」
 「こういうパーティーには、よく来るの?」
 「たまに」
 前嶋奈津は口が重かった。僕が話しかけると、よどみなく答えたり、こちらの目をみてうなづいたりはするが、自分からなにか話そうとはしなかった。そのせいか、僕はついつい、いらないことまで話してしまっていた。高校のことや、自分のやっている音楽について、ふと気がつくとウィーンでの生活についてまで、しゃべってしまっていた。
 事前に槙子から頼まれてはいたが、前嶋奈津を吹奏楽部に出て来させようという気は、さらさらなかった。あくまでもただの女の子を相手にしているつもりだった。
 「吹奏楽の指導も、なかなか楽しいよ。生徒達はみんなよく練習するしね。けっこうレベルの高い曲がやれる。僕が学生の頃やってたブラバンより、よっぽど上手だよ。そう、少し前までオーストリアのウィーンにいて、ホルンを勉強してたんだ。日本に帰ってきたけど、なかなか仕事がなくってね。ウィーンは、物価は高いけど、落ち着いた街で、暮らしやすかったよ。もっとも、東欧の民主化の時はけっこう騒動があったな」
 いつになく多弁になってしまっている自分に気づいて、僕はいささかあわてた。とりとめのない自分語りをやめ、無口な美少女と二人、しばらく黙りこくって、パーティーの様子をながめた。そのうち、太ったロシア人らしき白人の男が近づいてきた。
 「ハーイ、ミス・マエジマ。楽しんでおられますか」
 「ええ、とても」
 前嶋奈津はにっこりした。横から彼女の笑顔をみるともなく見ていたが、どういうわけだか心が一瞬震えた。
 「初めまして。私はワシーリ・ペトロフスキーです。ここの職員です。このパーティーのお世話をしています」
 そう言って、白人の男は僕に巨大な手を差し出した。僕も握手を返しながら自己紹介した。
 「ええと。はじめまして。僕は大澤です。近くの高校で吹奏楽の指導をしています」
 「ミス・マエジマは、ロシア語教室にきちんと来て下さる。優等生です」
 「いいえ、そんな、たいしたことないです」
  奈津が言った。
 「へぇ、すごいな。しゃべれるの?」
 すると、奈津はたどたどしいロシア語でワシーリに言った。
 「このパーティーは、とてもすばらしいです。招いていただき感謝します」
 「どういたしまして。今日のあなたは、すばらしくきれいです」
 ワシーリは、ゆっくりとロシア語で答えた。すると、調子が出てきたのか、奈津もロシア語でワシーリに応じた。
 「私、ワシーリさんと知り合えてとてもうれしいです。がんばって勉強しますので、これからもよろしくお願いします。お礼はきちんといたします」
 「こちらこそ、いろいろサービスしていただいてありがたいです。あなたのおかげで、仕事がはかどります。私としても、個人的にとても満足です」
 ワシーリがロシア語で答えた。僕はもちろん、この初級ロシア語会話が全くわからない振りをしていた。だが、聞きとるだけならロシア語はわかるのだった。東欧にいた時、必要上覚えたのだ。奈津という女子と、ワシーリというロシア人のその短い会話の中に、何かしら気になるところがあった。けれど内心を顔に出さないよう注意して、視線はパーティー会場の方に向けていた。どこがどうとは言えないが、何となくひっかかるところがあった。ロシア語会話が練習調であるせいではなかった。初歩的な言葉遣いの中に、何かが隠されていた。何がひっかかるのだろう? 無口なはずの前嶋奈津が、急に話し出したから? ワシーリの妙になれなれしい態度か? だが、考えている暇はなかった。ワシーリが僕に気をつかって、日本語で話しかけてきた。しかたがないので、しばらく、ワシーリとウィーンについてどうでもいい会話を続けた。
 そこへ、高岡さおりが連れの若い男と一緒にやって来た。さおりは、濃いブルーのスーツ姿で、まるで女子大生のように見えた。僕を上目使いに、軽くにらむように見上げて、よそよそしい声で言った。
 「先生、もうすぐ香里さんの演奏が始まりますよ。前の方で聴いてあげませんか」
 「そうだね、そうしよう」
 さおりは、僕に見せびらかすつもりか、連れの男の二の腕に指をからませて、隣に立っていた。だが、このカップルは、何となく不自然なようにも思えた。彼女なりに、僕にあてつけようとして、この男と仲のいい振りをしてみせているのかもしれなかった。
 香里槙子は、大きく肩を出したシックな赤いドレスに着がえて、上等そうな古いヴァイオリンを抱えて、広間のステージに立った。グランドピアノで伴奏するのは、40代ぐらいの白人の女性だった。意外にも槙子は、かなり立派にベートーヴェンのクロイツェル・ソナタを弾いた。その演奏ぶりは、音大にやすやすと合格できるぐらいの腕前だった。少なくとも、耳栓ごしに聴いているぶんには、僕の気分を波立たせることはないレベルだった。僕は聴くともなく耳を傾けながら、斜め前に座っている高岡さおりと、連れの男をながめていた。この男はとても整った顔立ちで、いかにも切れ者といった印象があった。温和そうな表情の裏に、気の許せないところが見え隠れしていた。顔立ちや振る舞いが完璧すぎるのだ。あきらかに、この男は仮面をかぶっている。さおりとの関係がどのようなものなのかわからないが、この男は、さおりの身も心も支配しているようにみえた。この男が、ひょっとして? これは一つ、さおりを通じて接近してみる必要があるかもしれない。
 それにしても、このパーティーは何なのだろう? 一体、どうしてこんなパーティーが成立し得るのだろうか? ロシア領事館が、地元との親善のために、五月丘高校とタイアップして行っているというが、どうもおかしい。なぜなら、ここに来ている人ときたら、高校生の女の子達と、あとは役人だか外交官だか、とにかく大人の男性ばかりのようだった。おまけに、五月丘高校の校長と教頭が、二人そろってわざわざ来ているなんて。生徒指導部長の竹之内やコバンザメの体育教師まで来るのは不自然だ。槙子をエスコートしていた、あの教育委員会の役人とかいうやつも、いかにも怪しい。
 もしかしたら、このパーティーそのものが、実は援助交際あっせんの場なのかもしれない。親善という名の売春パーティー、これは十分成立するではないか。だとすると、それを仕切っているのは、一体誰だ? 先ほどの、領事館職員のワシーリか? 槙子の連れの役人か? あるいは、槙子自身か? ひょっとすると、さおりの連れのあの男か? 特に、あのおそろしくハンサムな男は、どうにも気にかかる存在だった。さりげない様子に振る舞っているが、みればみるほど、パーティーを巧みにコントロールしているように感じられる。この奇妙なパーティーを仕切っているのは、おそらくは、ここにいる大人たちではないだろう。この場を支配しているのは、高校生たちの中の誰かに違いない。大人たちはみな、単なる客にすぎない。もしかしたら、この華やかなパーティー会場で、少女たちが公然と売買春されているのかもしれなかった。
 表面上なごやかに進行しているパーティーの、隠された裏をさぐろうとして、僕は会場をうろついて客達の会話に耳を傾けた。耳栓をつけていても、これだけ多くの人間の声が雑然と響いていると、その中に渾然一体となった人々の思惑や欲望、願望、様々な感情、怒り、悲しみ、憎しみ、恨みなどが、ほとんど物理的な圧力となって、僕の脳髄を圧迫してきた。その強烈な不快感をこらえながら、この有象無象の中に真相を探ろうと試みるものの、聞こえてくるのは、むしろらちもない話ばかりだった。どういうからくりがこのパーティーに隠されているのか、残念ながら全くみえてこなかった。
 槙子は、ヴァイオリン演奏の後、また鮮やかな蛍光ピンクのロングドレスに着がえてきて、ワシーリと奈津とにこやかに話していた。槙子の連れの役人氏は、いつの間にか、姿がみえなくなっていた。さおりも、連れの男とは離れてしまって、いまは竹之内のコバンザメの体育教師と並んで立ち、オードブルをつまんでいた。一体、このパーティーは、どういうことになっているのだろう? そもそも、どうして僕はここに呼ばれたのだろう? 槙子は、ただのお客として呼んだのだろうか。それとも、挑発しているつもりなのだろうか。明らかに、僕はこの場の異分子だった。他の人達は、この場のルールを知っている。だが、僕はそれを知らない。槙子は、僕があれこれ探っているのに気づいたのだろうか。だから、わざとここに呼んだのか? それとも、別の下心で招いたのか?
 ふと、耳栓越しに声を感じた。声のした方をみると、さおりが、遠くのテーブルからじっとこちらを見つめていた。おいおい。なんだ、あれは?
さおりの横に立っている若い体育教師は、さおりの腰に腕をまわしているようにみえる。おい。それは自分の高校の生徒だぞ? なんだ、この公然たるセクハラは? だが、さおりは、特に嫌がる様子もなく、むしろ、自分からお尻を体育教師に押し付けているようにみえた。まったく、どうなってるんだ? 僕は嫌気がさしてきて、一刻も早くこの場を立ち去りたくなった。耳から脳髄を圧迫してくる有象無象の混濁した思念の塊も、耐え難いまでに不快感を増していた。それだけでなく、この場所に満ちてきた奇怪な雰囲気は、まるで人々が内心に抱く劣情と動物的な暴力欲求が、実体化して広々としたホールの空間を圧して立ち上がるような、物理的な脅威を感じさせるレベルにまで、負の磁場を発散していた。だめだ。ちょっと、これは耐えられない。
 僕は、逃げるように会場を後にすると、領事館の門を出た。相変わらず、身動きもせずに立っている門衛のロシア人の大男が、冷ややかな視線を僕の背中に突き刺していた。

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