見出し画像

土居豊の文芸批評 映画編 『ゴジラ−1.0』と、『シン・ゴジラ』

土居豊の文芸批評 映画編 『ゴジラ−1.0』と、『シン・ゴジラ』



⒈ 映画『ゴジラ−1.0』は、日本映画そのものである


(1)
映画『ゴジラ−1.0』と、『シン・ゴジラ』は、どちらも日本を舞台としたパニック映画でありながら、皇居の存在を描かない。というより、描けないのだ。
少なくとも「−1.0」の方は、太平洋戦争末期から戦後数年という時間軸が明確なので、皇室の存在に一切触れていないのでは映画としてリアリティ以前の段階だ。
そもそも、最初の『ゴジラ』第1作からお約束のように、日本に皇室が存在していないかのように描かれていた。それがこのシリーズの限界であり、同時にまた、その1点でこのシリーズは架空の日本国の物語として成立するといえる。
それにしても、架空なら架空でもっと飛躍したらいいのではないか?と思うのだが、どういうわけだか日本映画の製作陣は、ものすごく思考の範囲を狭めて、「皇室抜き」の描写を可能な限り現実の日本に合わせようとしているようにみえる。その気持ちは(というか、事情は)わかるが、そのせいで映画として限定的な物語しか描けないのだ。
こういう限定された現実描写、制限された知見のみで描かれる物語は、その意味で、現実の私たちが見聞きする今の日本の刻一刻と、ほぼ似たような視野狭窄となっている。つまり、ゴジラ映画をみることは、現実の我々の置かれた狭い視野の世界を体感しなおすという、一種の倒錯した現実再経験のようなものなのだ。





(2)
「−1.0」の世界では、戦争末期から戦後数年間にかけて、主人公の青年とヒロイン役の女性、それに孤児の童女の三人が、それぞれに苦しい生活を演じている。各キャラクターにも、生活の背景にもあまりにリアリティがなさすぎるため、俳優たち(子役も)が文字通り役柄を演じているようにしか見えない。そのため、実に日本映画的な映画作品となっており、謎のモンスターが出現しても、いかにもありそうな海上戦闘や戦闘機攻撃が巧みな映像効果で描かれても、どうしようもなくリアリティが希薄だ。だが皮肉にも、それゆえに何の心配もなくこの映画を見物できる、という利点?が生じているのだ。日本映画らしい現実離れした設定や物語の中身のなさ、登場人物のテンプレートな言葉や動きと比べて、本作で唯一興味深いのは、ゴジラの造形と動きとその暴れっぷりだ。
ゴジラ映画とはもともと、怪獣がひたすら暴れるのを眺めて、カタルシスを感じるためのものである。そこに妙な考えや感情、思想性を望んでも無駄だということを、今回もまた明らかにされて、清々しいほどに無駄な映像消費を満喫することができた。




⒉ 『シン・ゴジラ』を改めてみてみる

さて、一方、過去の「ゴジラ映画」には絶対にならないよう工夫を凝らした、映画『シン・ゴジラ』を再見してみる。すると、日本映画の製作陣でゴジラという題材を新たな形で作るには、庵野秀明しかいなかったと再認識させられた。非常識なまでの天才が、やりたい放題に過去の映画常識を蹴破るあの作風しか、あり得なかったのだと改めて理解できる。
庵野監督の「シン」シリーズは、「ゴジラ」、「ウルトラマン」、「仮面ライダー」と続いていったが、本来の代表作シリーズである「シン・エヴァンゲリオン」の場合と同じく、いずれもフェティッシュな執着心が揺るぎない作品の核としてあり、そのほかの場面や人物や、物語そのものは付随的な細部として処理されている。
『シン・ゴジラ』の場合も、膨大な政治と国権の発動の細部は、どこまでも付随的な細部であり、核としての(文字通り核そのもの)怪獣という存在を、これでもかと恐ろしい姿で描き切るところに、作品の全てが賭けられている。あの核兵器そのものというべき怪獣は、作中で何度も「神のごとき」と形容されながら、どこまでも人間の生み出した禍々しい災厄の象徴である。このことは、映画の最初から最後まで、無意識的な共通認識となっている。自然の生んだ災厄ではなく、人間が何らかの不可抗力で作り出してしまった核の産物、それをあの造形と動きと暴発っぷりで余すところなく描いている。
庵野秀明の生んだシン・ゴジラの祖先として、宮崎駿の『風の谷のナウシカ』の巨神兵がある。さらにさかのぼれば、富野由悠季の『イデオン』のイデオン・ガンなどであり、『宇宙戦艦ヤマト』の波動砲でもあるといえよう。庵野秀明の中に先行作品の創造した究極兵器的な破壊力のイメージがあり、それらが独自に融合され新たに再創造された唯一無二の恐怖の存在、それがシン・ゴジラなのだと考えられる。






⒊ 『シン・ゴジラ』雑感


※以下は、映画『シン・ゴジラ』への批評を再構成したもの

(1)この映画は「東京ゴジラ」だ

この映画はなぜか天皇への言及がない。つまり、この映画の世界は、実は天皇のいない架空の日本なのだろう。
もし天皇がいて皇居があったのなら、東京駅の前、つまりは皇居の真ん前で冷温停止したゴジラの姿は、2011年の福島原発事故での、現実の事故処理に対する強烈な風刺であるといえる。皇居の真ん前にそそり立つ、冷温停止状態の怪獣=原子炉そのもの、これは残念ながら怪獣映画でしか描けない。
舞台はほとんど東京だけに限定されており、テーマを絞り込んでいるのでわかりやすい。反面、ゴジラはなぜ東京だけを襲うのか? ちなみに、首都東京の危機をシミュレーション的に描いた名作に、小松左京『首都消失』がある。だが、あの小説には、日本全体をカバーする視点があった。東京なしで日本がいかに国家をやりくりするか、という観点が興味深いのだ。だが「シンゴジラ」では、もちろん意図的なのだろうが、日本=東京という思考停止が登場人物たちを覆っている。
正直、地方在住の筆者としては、東京防衛に拘泥する政府関係者たちにイライラした。さっさと首都圏住民の避難を決定して、政府を関西か九州あたりに疎開させ、そこから反撃したらいいのに、と。
そもそも、東京が襲われた場合のオプションは現実に存在するのだろうか? この映画では、少なくとも東京を放棄するオプションは出てこない。本来なら戦略上、ゴジラ再上陸を予想した首都機能の分散避難が、オプションにあるべきではなかろうか。ゴジラが再上陸してからも、首都を一旦明け渡し地方に「第二新東京市」(庵野監督作品「エヴァ」での第3新東京、のような)を作って、関東平野にゴジラを封じ込める作戦もあり得たのではないだろうか。
なのになぜか『シン・ゴジラ』には、東京守備しかオプションがない。この映画は本当は、「東京ゴジラ」というべき作品なのだ。メインテーマは、東京そのもの。この作品をみると、東京という街の成り立ちや、地政学が実によくわかる。描かれているのは、首都直下型関東大震災、津波、富士山噴火へのシミュレーションだ。さらに、他国からの東京攻撃へのシミュレーションにもなっている。
さらに、この映画から否応なく連想するのは、3.11への問いかけだ。東日本大震災で、もし東京に放射能が来ていたら?
日本国はアメリカの属国か?という問い。
日本国は世界の中で愛されている?東日本大震災のときのように?という問い。
日本の政治家、官僚たちは、あんなに善い人か?
日本人の科学者は、あんなに頼りないか?
そして、本当に「日本人はまだやれる」のか?
映画中の気になるセリフとして、「日本人はクライシスのたびに発展してきた」というのは、正しいのか?
以上のように、いろいろと疑問点は多々あるのだが、この映画は何度か観たくなる傑作だ。少なくとも、難しいことを考えようとせず、パニック映画として観れば、近年、ハリウッド大作の中でも、これほど完成度の高いクライシス映画は少ない。
姿を徐々に現すモンスター、という描き方はキングコング、ジョーズ、エイリアン以来の定番通りだし、モンスターがどんどん進化(文字通り)していくのも、観客の度肝を抜く。人間の英知を結集して敵を倒す展開は、勧善懲悪の典型的パターンだし、悩める主人公と、かっこいいヒロイン、という描き方も、現代的なエンターテイメントの王道だ。音楽も、美術も最高に洗練されていて、見どころ満載な娯楽大作に仕上がっている。
また、ゴジラの対空防御は、イデオンのミサイル一斉発射そのものだ。放射能熱線の、光線の剣のような使い方はイデオンソードか、エヴァQ冒頭の初号機のビームのようだ。他にも、「エヴァ」のヤシマ作戦的なやり方のように、『シン・ゴジラ』にはアニメと特撮へのオマージュやアレンジが随所にみられる。

(2)シン・ゴジラによせて政治を語る人たち

映画『シン・ゴジラ』で、政府がからくもゴジラを冷温停止させたことを、福島原発事故になぞらえて考えるなら、当時の民主党政権を再評価しないのは不公平ではあるまいか。あのとき政府は、もっと悲惨な結果になりえた災厄を、かろうじてあの程度に留めたのだから。
もちろん当時の政権の対応はいくらでも批判できるし、自分もそうした。
だが映画での政府の活躍をほめるなら、あのときの政権はもっと深刻な事態をどうにか切り抜けたのだ。事実、あのまま手をこまねいて、もし首都圏が大規模汚染されていたら、本当に日本が再占領される瀬戸際となっただろうとする見方もある。それを考えると、今回の映画での政府の対応は、フィクションの中なのだから実はもっとうまくやれてよかったはずなのだ。もちろん、確信犯的にあえてそうしなかったのだが。
実際、あれでは作戦成功だとはとてもいえない。クライマックスの列車爆弾など、本当は全く無意味だが趣味的に実行している。主人公たちも、政治的には敗れたも同然のはずだ。だからなおさら、彼が最後に辞めないのは心外に感じる。あの主人公とヒロインは、ラストでお互いに国を背負って立つつもりのようだが、現実ならば、政治的には二度と表舞台に出られないはずだ。だが、のうのうと辞めないでヒーローのつもりでいられるところが、この映画で最もフィクションらしい部分だ。
だからこそ、あれはあくまで映画なのだということを、忘れないでほしいものだ。あの映画をダシに政治を云々する記事が多すぎて、日本人はほんとに現実とフィクションの区別がつけられないのではないかと疑いたくなる。

(3)映画『シン・ゴジラ』を久々に見て、あの内閣は安倍内閣よりよほどマシだと思った

『シン・ゴジラ』を久しぶりに観て、あの政府はなかなかよくやっていたと思う。少なくとも、シン・ゴジラの「蒲田くん」形態が川を遡行する時点で、緊急災害対策本部を設置していた。2018年の安倍政権よりよほどマシだ。安倍首相は、2018年7月の西日本豪雨の最中、総裁選の運動のための宴会にうつつを抜かして、ついに緊急本部を設置しなかった。
『シン・ゴジラ』を見て思うのは、たとえゴジラといえども「蒲田くん」形態段階での被害は思ったより少ないことだ。あのぐらいなら、西日本豪雨の土砂災害の方がよほど大規模な被災だった。ゴジラの場合はもちろん放射能汚染があるが、単純に比較すれば住民の避難指示もうまく行っていた。2018年7月豪雨の方が、よほど怖い。
『シン・ゴジラ』の内閣はちゃんと緊急本部で対応したが、安倍首相はゴジラよりよほど被害が多い西日本豪雨の際に、自宅に引きこもったふりをしてこっそり自分の総裁選対策をしていたのだ。緊急本部を最後まで設置せず、住民を見殺しにした。そういう描写を映画でやるならば、その内閣は当然総辞職だろう。
むしろ、安倍首相のようにゴジラ以上の大規模災害の最中に総裁選対策を隠れてやってるような首相は、映画ならシナリオ段階で「リアリティに欠ける」としてボツになるだろう。安倍首相と現政権は、映画以下のリアリティしかない、本来ありえないレベルの政治家たちだったのだ。






※祝!「ゴジラ-1.0」アカデミー賞記念
(改稿版)映画「宇宙戦艦ヤマト」実写版への期待



土居豊の文芸批評・アニメ編
映画『君たちはどう生きるか』評 〜これは宮崎アニメの集大成というより米林監督作品との和解か?



土居豊の文芸批評 アニメ編
新海誠・震災3部作を観る〜『君の名は。』『天気の子』『すずめの戸締まり』


※マガジン「土居豊の文芸批評」

作家・土居豊が「文芸批評」として各種ジャンルの作品を批評します。
マガジンとしてまとめる記事は、有料記事です。まとめ読みができるのと、記事単独で買うより安くなります。

土居豊:作家・文芸ソムリエ。近刊 『司馬遼太郎『翔ぶが如く』読解 西郷隆盛という虚像』(関西学院大学出版会) https://www.amazon.co.jp/dp/4862832679/