第五開『酒』 宗谷燃

足元がふわふわしているのは、酔っているからだろうか。固いアスファルトを踏みしめようにも世界はぐるぐる回転して、地球という惑星に生まれ落ちたことを遅まきながら実感する。
寝ている時に見るものと将来へ抱くものが同じ「夢」という言葉なのはおかしい、と誰かが言っていた。考えたこともなかったけど、確かにそうかもしれない。では私が人生の夢とまで言って抱えていたあれは、どっちだったのだろう。もしかしたら水槽の中の脳が見た幻だったのかもしれない。

電気ブランという酒がある。
森見登美彦氏の、『夜は短し歩けよ乙女』という小説をご存知だろうか。京都に住むとある男子大学生が意中のサークルの後輩を黒髪の乙女と呼び、どうにかして彼女を振り向かせようと悪戦苦闘するラブコメディである。
本筋とはあまり関係がないのだが、その小説には「偽電気ブラン」という酒が出てくる。その基になった電気ブランなる酒が私はずっと飲みたかった。
(以下引用)
‘‘偽電気ブランを初めて口にした時の感動をいかに表すべきでしょう。偽電気ブランは甘くもなく辛くもありません。想像していたような、舌の上に稲妻が走るようなものでもありません。それはただ芳醇な香りをもった無味の飲み物と言うべきものです。──口に含むたびに花が咲き、それは何ら余計な味を残さずにお腹の中へ滑ってゆき、小さな温かみに変わります。‘‘

最高だ。こんなの飲むしかない。いつかきっと絶対飲む。

初めてこの本を読んだ中学生の時はまだ酒を飲むなんて遠い未来の話で、いつか飲みたいとは思いつつそんなにリアリティのある話ではなかった。それから心のどこかでまだ見ぬ電気ブランに焦がれてはいたものの、最近やっと思い出したのだ。

酒が飲める。
そうだ、京都、行こう。

新幹線に乗り、いくつかの寺社仏閣を見て回り、気がつけば酒飲みの聖地こと先斗町の入り口に立っていた。すごい。本当に来た。ずっと想い続けてはいたけれど実際その場に立つと足元が急におぼつかなくなった。まだ酔うには早いのに。
何度も調べた店までの道を早足で歩いて、何度も調べた店のドアをゆっくり開けた。メニューを開いて、指をさして注文した。他の何も目に入らなかった。

ほどなくして運ばれてきた小さなグラス、その中で光輝く黄金の液体こそが、夢にまで見た電気ブランだった。
ゆっくりグラスを口に近づける。グラスの向こうで恋人が優しく微笑んでいるのがわかる。
おそるおそる一口飲むと舌にピリッと電流が走った。実際のところ、味はどうでもよかった。この場所でこれを飲んでいるということだけが、今の私の全てだった。少し強めのアルコールにだんだん脳が浸かっていく。
これが私の夢だったのか。頭の中で声がする。これが全部夢だったらどうする?気がつけばベッドの上で、なにもかも、今ここにいることも、ひょっとしたら憧れた小説も、この場所も全部なくて、目の前にいる恋人さえ存在すらしなくて、そんな夢を見ていたことさえ忘れてしまったらどうする?
夢と現実と夢が入り混じる。彼が吸わないはずのたばこに火をつける。

ホテルまでの帰り道、2人で夜の鴨川を歩いた。
私がどれだけこの地に憧れていて、どれだけあの酒を飲みたかったか全部知っている恋人は、ずっと黙って歩いていた。京都で電気ブランを飲んだら鴨川に沈んでも構わない、なんて本気で言った。このままどこかに逃げちゃおうか。笑い飛ばす彼の目が潤んでいるのに気づかないふりをして、少し早足で彼を追い抜いた。ふたりで、とは言えなかった。

ぬるい夜風が頬を撫でる。

人生の夢だのなんだのと大見得を切って乗り込んだ土地だって結局ここと地続きで、道行く人たちの暮らしはどこだって変わらない。誰かの故郷で、誰かの大嫌いな場所で、でも私の憧れだった。
お前が無駄に過ごした今日は昨日死んだ誰かがあんなに望んだ明日だって言葉が大嫌いで、でも日々を無為に過ごす人はきっとここにもいて、そのつまらない生活がほしくて仕方がなかった。
鴨川に映った街灯がゆっくり滲む。滲んでいるのは私の視界だったかもしれない。

いつもと違うベッドで目が覚めた。喉が異常に渇いていた。ああやっぱり。でもいい夢だった。
水を飲もうと起こした頭が重い。サイドボードに、バーでもらったらしいコースターが置いてある。これはどこのバーだっけ。思い出す間も無く、胃がひっくり返るかと思うような吐き気に襲われた。あわててトイレに駆けこむ。

二日酔いだけが、確かな証拠だった。

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