第四開『雨』 飴町ゆゆき

雨に遊ぶのが好きだ。打たれるのは好きじゃない。
雨を眺めるのが好きだ。見ざるを得ないのは耐えられない。
雨の音を聴きながら、静かな部屋で本のページをめくる。お気に入りの大きなカップに淹れたコーヒーを口に含む。ふと顔を上げると、壁の時計が朝の11時を指したところで一瞬停止したような顔をして、やおら動き出すのが見えた。今日という日のなにも予定がないことを噛み締めて、また本へと目を戻す、そんななんでもない休日が好きだ。
いつもあるわけではないけれど、きっといつだって手の届く日常が、わたしを生かしている。雨はそこにときどき現れては、知らん顔をしてまたどこか同じような風景でたびたびわたしと顔を合わせるのだ。
雨はわたしのことをどうとも思わないだろうが、それでもやっぱり、わたしは雨が好きだ。

思えば早い段階からこじらせていたのだ。
中学生の時分から、自分には雨の日に散歩する趣味があった。もちろん周りの人間はそんなことをしない。家族からも奇異の目で見られる。なにか他と違うことをしたいお年頃だったこともあるのだろう。わたしは学校の部活動もない休日に雨が降ると、時計も携帯電話も持たずにふらりと傘を差して外へ出ていくことを習慣としていた。家の近所から、たまに学区を離れて遠くは隣町まで、特にコースは定めずに感覚で歩いていき、まず二時間は戻らない。帰る頃にはくたくただ。田舎なものでだいたいは畦道だが、たまに知らない公園や神社を見つけるとうきうきする。いつかは山道に入り込んで、抜けた先が養鶏場だったのでびっくりした。歩いているうちは雨の音しか聞こえないので、いろんなことに考えを巡らせる。折りしも、わたしは何の拍子か谷川俊太郎にはまったときでもあった。家には読み物といえばライトノベルしかなかったのだが、学校の図書館ででも読んだのか、とにかくその頃にわたしは谷川俊太郎の詩に触れたのである。それもあって、いつしか雨の日の散歩は、歩きながら詩のようなものを一編こしらえて、それを口ずさみながら帰ってくるというものになっていた。当時はブログの走りの時期でもあって、帰りしなに呟き呟きして覚えてきた詩を『雨』と題していくつも投稿したのを覚えている。高校に入ってからもそれは続いた。文芸部の部誌に投稿したものにも、雨をモチーフとしたものがあった。今見ればどれも噴飯ものなのだろうが、なにせあのときから自分が雨に囚われてしまったのは確かなことだ。

大学生にもなるとわざわざ雨の日に散歩などしなくなった。特段、雨が嫌になったというわけではない。文芸サークルに入ることもなく、詩作から遠のいていたこともひとつの理由なのだろうが、どうもそればかりではなさそうだ。では雨の日は何をしているかと言えば、たいていは本も読まずに家で日がな一日ゲームに興じているのである。あまり褒められたものではない。いったい何がわたしの足を雨から遠ざけたのか? 鑑みるに恐らく、あのころのわたしにとって雨とは己を解放する一種の装置であり、散歩はそれを用いた儀式だったのだ。別に当時家庭が息苦しかったわけでもなければ、家にいて何もやることがなかったわけでもなかったのだが、可もなく不可もなく、なにごともない淡々とした日常に漠然とした圧迫感や閉塞感を覚えていたのだろう。もっと言えば、何者かに規定されたかのような通り一遍な人生というものを思って、そこから飛躍しようとする行動だったのかもしれない。誰かが人の運命を操っているのだとしたら、ちょっぴり予想外の行動をしでかしてその手をぐらつかせるくらいのことはしてやりたいものだ。しかしこいつは中学生のころに何かそういう世界五分前創造説とか世界箱庭説とか胡蝶の夢とかにどこかで触れたんだろうか、と、書いていて思い出したが、確かに当時は箱庭世界を舞台としたテレビゲーム(※)にもはまっていた。主人公たちが必死に生に食らいついて他者を糧としながら闘い苦しみぬいた世界が、実は戦闘用AIを作るための仮想空間であったというもので、思えばその世界では常に、雨が降り続いていたのだった。そうした管理された世界やそれにあらがう人間というものを見たことも、もしかしたら行動に影響していたのかもしれない。げにオタクは影響されやすいものなのである。しかして、雨の散歩が解放を旨としていた行動であったのならば、大学進学で上京し独り暮らしを始めたわたしにとっては解放こそが日常のようなものであったからして、なるほどわざわざそのために非日常的に行動する必要はなかったわけだ。いわばわたしは状況の変化によって儀式を不要としたのである。こう考えると魔法を使う上での詠唱の破棄のようで気分がいい。オタクなので。

(※アトラスのPS2専用ソフト『デジタル・デビル・サーガ ~アバタール・チューナー』…そういえば同じころにやっていた同じくPS2の『ボクと魔王』もなにかそういう箱庭的な話だったが中盤で死にまくってやめてしまったので覚えていない。先日テレ東のゲーム番組『勇者ああああ』でも取り上げられていたのでまたプレイしたいんだけど移植がないので困っている。どうしたものか。)

かくして上京によって解消されたこじらせだが、それでも雨の日はやはり好きだった。スーパーへ買い物へいって荷物を守って足元がぐちゃぐちゃになるのは我慢ならなかったが、それでも雨というもの自体は好きだったように思う。音が好きなのだろうか。部屋の外に響く音、窓を叩く音、雨どいを伝う音、傘に当たる音、足元をはねる音、それらによってくぐもるすべて。でもそれだけではなさそうだ。なんだろう。わからないけれど。まあなにせ好きなのだ。世界の境界がぼんやりするというか、それでいて自分のまわりがぽっかりするというか、室内の空気が硬度を持ったり、景色が煙って遠くまで見えなかったり、いろんなことがあるが、全部まとめて好きだなあと言ってしまえるのが、雨だ。

今では特に雨だからといって行動にはしないが、かわりわたしは名に背負うことにした。実は飴町というのは、雨からとったのだ。特に理由というほどのものもない。字面が可愛いので飴にした。たったそれだけの話で、わたしの頭の中ではこれは雨でもある。これでわたしがこの名で名乗り続ける以上、わたしの頭の上には、つねに雨が降るというわけだ。その上そいつは飴かもしれない。こんなゆかいな思い付きはしばらくないだろうと思うので、いちおう、飴町は大事にとっておきたい名前になった。だからみんなも大事にしてくれるといいし、なんなら住んでくれていい。結構いい街だと思うのだ。どうだろう? なんてね。でも悪くはないだろ? そう言ってくれると思ったよ。

そうやって、きっと明後日もその先も、わたしは飴町で誰かを待っている。

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