第六開 『花/色/本』 宗谷燃

初めて会ったとき、その人は私のイヤリングを見て、綺麗な水色だと言った。

仕事帰りに立ち寄った本屋で、いつもは見ない児童書のコーナーをその日はなんとなく通った。見るともなしに歩いていると、ふと一冊の本が目に留まった。赤色で描かれた犬や緑色の猫が出てくる、少し変わった色遣いが印象的な絵本だった。作品を見ただけでは作者の人間性は分からないけれど、この物語のように優しい人だといいなと少し思った。

しばらく経ったある日、家の近くのショッピングモールで買い物をしていると突然誰かに肩を叩かれた。知り合いかと思って振り返ったが、見知らぬ男性だった。その人は申し訳なさそうにこう言った。

「すみません、一緒に買い物をしてくれませんか? 」

とりあえず適当なカフェに入り事情を聞くことにした。最初に口を開いたのは向こうだった。いきなりすみませんとつぶやき、次いで「僕、しきじゃくなんです」と言った。しきじゃくという言葉が色弱という単語に変換されるまでに数秒かかった。つまり色の区別がつきにくく、いわゆる赤と緑(とされる色)や、青と紫などがよく分からないため、服を選ぶのに困っているとのことだった。加えていつも買い物を手伝ってくれていた恋人と最近破局し、友達にはなかなか言い出せず、とりあえずひとりで来てはみたものの途方に暮れている、と。そこで偶然私が目に入り思わず声をかけてしまったとのことだった。
事情は分かったし怪しい人でもなさそうで、そして何より万策尽きたといった様子で本当に困っているようだったので、私でお役に立てるなら、と引き受けることにした。そう言うと彼の萎縮した表情がパッと笑顔に変わり、なんだかその表情を見られただけでこの奇妙な頼みごとを引き受けた価値があったかもしれないと思った。
手伝いといっても恋人でも友人でもない、それどころかさっき知り合ったばかりの人と買い物をする上でやることなど、彼が手に取った洋服を逐一「それは赤です」「それは緑です」と言うだけで、それだけのはずなのになぜか時間が経つのが早かった。彼が買い物であまり悩まないタイプだったというのもあるが、それ以上に一緒に買い物をするのが楽しかった。どんどん時が経つのが惜しくて、しかしだからといっていきなり何かをする気にはならなかった。少し変わった、でもとても楽しかった思い出として静かに心にしまっておこうと思った。
5軒か6軒は回っただろうか、最後の店で会計を済ませた彼が「ありがとうございました、おかげで助かりました」と頭を下げた。何かお礼がしたいんですが…と言うのを制して、最初から気になってたことを聞いてみた。どうして私に声をかけたんですか、と。あの時周りには私なんかよりもっと明るくて親切そうな人がたくさんいたはずだった。なのにどうして私だったんですか?
そういうとその人は照れたように笑って、イヤリングが、「その水色のイヤリングがすごく綺麗で、それでこんなに綺麗なものを選ぶ人はきっと素敵に違いないって思って、考えるより先に声をかけてしまったんです。でもやっぱり当たってました。こんなに楽しかったの久しぶりです」
そう言ってから慌てたように、あ、でも色弱なのは本当です!本当に買い物ができなくて困ってて、だからそういう嘘をついたわけではありませんから!と付け足した。だから本当にありがとうございました。柔らかく笑うその顔があまりに優しくて、大事にしまいこむのはもったいないと思ってしまって、イヤリングが揺れて、だからつい魔が差した。
鞄から予備の名刺入れを取り出して、1枚差し出す。もちろん携帯の番号が書いてあるバージョンだ。突然のことに目を丸くする彼に、もし今後困ったことがあればいつでも連絡してください私も楽しかったですお気をつけて帰ってくださいと一息に言って手に名刺を押し付けて帰─ろうとすると、伸ばした手を掴まれた。思わず顔を見上げたら、言い逃げですか?と同じ大きさの紙を渡された。何が何だかわからなくなって逃げるようにその場を去った。何か言った気もするし何か言われた気もするが、立ち止まる余裕はなかった。

外に出て駐車場を走り、車の中でようやく落ち着いた。ずっと手に持ったままだった名刺を改めてよく見てみる。肩書きは作家となっていてその物珍しさにばかり目を惹かれていたが、苗字を見て否が応でもさっきまで見ていた笑顔を思い出した。
芙蓉という小さな花と同じ苗字が、あの柔らかい雰囲気にぴったりだった。

家に帰って、出来心から名刺の名前を調べてみた。あの人はどんな話を書くのだろうと純粋に興味があった。できれば読んでみたいという下心も、少し。
検索結果の一番上に出てきた代表作らしい書名は、どうやら児童書らしい。絵本はあまり読む機会はないだろうなと思いつつクリックしてみる。焦らすように長い画像読み込みの後、表示された表紙の絵を見て思わずあっと声が出た。その瞬間、あの絵本の色遣いの独特さの訳が一瞬で分かった。赤い犬に、緑の猫。なんだ、そうか。私たちはもう出会っていたんだ。

風も吹いていないのに、耳元のピンクのイヤリングがかすかに揺れた気がした。

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