第六開『花/色/本』飴町ゆゆき

「君の作品を読んだけど、まるで泥を塗りたくったみたいだったよ」

 そんなことをいきなり言ってきた相手に、わたしはあのときなんと答えてやればよかった?
 カッとなったわたしにできたのは、ただ一振りの大きな張り手だけだった。

 彼が読んだ作品というのは、つい先日発行されたばかりの文芸部の部誌に、わたしが寄稿したものだった。確かに、読者には作品に自由な感想を持ち、それを述べる権利がある。それはわたしも重々承知しているし、むしろ作者としてそれは感謝してしかるべきことだと思っている。ありがたい話なのだ。本来ならわたしは、相手に食らいついてでも自分の文章の瑕疵を問いただし、今後に期待を持ってもらおうと話をよく聞いただろう。大会にも出ない弱小文化部にとって、誰かから活動を認識してもらえること、さらにその反応をもらえるということは——読者がいるとわかるということは、それだけで万歳三唱ものなのだ。わたしは浮かれあがってよかった。そのはずだった。
 自分でも、馬鹿なことをしたと思う。でも、失礼な話だったのだ。これは大変な失礼だったのだ。なぜならわたしがそのとき部誌に寄稿していたのは、自分史上類を見ない恋愛もので。かつ、そのモデルとしたのが執筆当時わたしが付き合い始めたばかりの違う部の先輩で。あとから読み返せば自分でもわかるくらいにのろけに走っていて、他人から見れば心底気持ちの悪い極めて自慰的な小説で。何より、完全にひとりで舞い上がっての提出から、周囲に囃されながらの編集を経て、思い切って羞恥の発行に至った直後に、わたしは先輩にフラれていたのだ。人間をここまで異物に作り変えておいて「やっぱり合わないと思う」ではない。これは後学のために述べておくが、絶望の風景は色素が薄い。狭苦しい通学路さえ無辺の荒野に思えるほどの、広漠とした気持ちで足元がおぼつかなくなる。虚無感に苛まれて一夜を過ごすうちに、とにかく校内の各教室に頒布されてしまった部誌から、該当のページを切り取ってなかったことにしてしまおうと奇跡的に思い立ち、カッターを持参していつもより早く登校し、教室中の部誌を回収していた、その矢先のことだったのだ。あんな言葉を言われたのは。
 パァン! と教室に響いた音で、わたしは自分が、覚えずビンタを食らわせてしまったことに気が付く。考えるよりも先に、彼が手に取っていた部誌を奪い取り、そのまま一気に廊下へと駆けだした。顔が熱かった。胸は痛かった。吹っ切れたなんてただの思い込みだった。わたしは自分で思っているより弱くって、自分でも駄作だと思っていた作品でも、先輩のことを思っていた自分の気持ちまで否定されたみたいで、そのことが苦しかった。自分で墓まで持っていくつもりだったのに、途中で誰かに暴かれたみたいで嫌だった。
 そもそもそんなことを作品にしてしまおうとしたわたしが悪いのだ。わかっている。そんなことはわかっている。でもそれとこれとは別なのだ。好きだったのだ。そしてわたしは阿呆だったのだ。色に触れては蒙くなり、恥と知っても守りたい。人間はそれほど理知的ではないのだとわたしは思い知る。息せき切って駆けこんだ部室の長机に、集めた二十部ほどの部誌をどんと置く。一限目の授業まで、まだ時間があった。こんなことをして何になるんだ。腰を下ろしたパイプ椅子に、天井を仰ぐようにしてもたれかかると、ふいに目頭が熱くなった。何をやっているんだ、馬鹿だなわたしは、とつぶやくうちに、涙がにわかにあふれ出して、まばたきといっしょに零れ落ちる。本当に、本当にわたしは馬鹿だ。でもどこかでそんな自分を上から見る自分がいる。神の視点のわたしは、お前は主人公なんかじゃないんだぞと言っているようだった。
 いいじゃないか、今ぐらいヒロインでいさせろよ。失恋だぞ。もう少しわたしの感情を描写しろ。ばかめ。そんな風に頭の中で文字に起こして考えているうちに、授業の予鈴が鳴る。モブキャラがお似合いのわたしは、変に現実に戻ってしまって、涙もスン、と出なくなってしまった。目元をむりやり袖で拭き、部誌を残したまま部屋を去る。どうしたって、わたしの一日は動き続けていた。

 妙な噂を聞いた。
 季節が移って、また次の部誌を作るための会議を部室で行っているときだった。幸いにして、この頃にはわたしの熱は冷めていた。今度こそ本当だ。会議は、お互いの進捗確認と、ページの概算やジャンルの振り分けを行う程度のものなのだが、ついでに、最近何を読んだ・見たという部員の交流の場にもなっている。そこで先輩が語り始めたのが、どうも校内に大変な読書家がいるらしいという話だった。
 それはいつも図書室にいるという男子生徒の噂だった。あるときは利用者として、またあるときは図書委員として目撃されるその男子生徒は、常に傍らに数冊の本を携えている。そのジャンルも、文学作品や岩波の哲学書に留まらず、実用書や専門書に至るまでと幅広い。しかも毎回そのタイトルが変わっているのだという。その量たるや、日に一冊どころではない。実際に読んでいるとは思えないような早さで本が取り替えられていく。あれは速読でもしてるのかな、うらやましいなあ、と人一倍遅読の先輩は語った。
 しかし妙なのはここからだ。先輩の言い草に何か違和感を覚えたわたしが「かなあ、もなにも、そんなに速いなら速読じゃないんですか?」と聞いてみると、先輩は、いや、うーんと言って口をつぐんだ。はて、と思っているわたしに、別の先輩が訳知り顔で口をはさむことには、「その男子が本を読んでいるところを、誰も見たことがない」のだということだった。
「いつも本は隣に積んであるだけで、本人は勉強ばっかしてるらしいからね。だから中には、実際には読んでなくて、読んでますアピールで横に置いてるだけなんじゃないか、って噂もある」 
「なんだそりゃ。本を自分を飾る道具にしようってのは、本を愛するものとしてちょっといただけないよな」
「愛するう? 部室の本読んだまま出しっぱなしの人がよく言うよ」
「これは次来たとき迷いなく読むためにだな……」
「そうやって置いといて、こないだリプトンこぼしたの誰だっつってんの」
 などと長机を挟んで先輩たちが喧々諤々を始めたのを、わたしがまあまあと収める。我が部のいつものパターンだ。
 しかしこの時、いつもは黙って聞いているだけの後輩ちゃんが、机の隅っこからおずおずと手を上げようとしているのが目に入った。ハッとして、咄嗟に後輩ちゃんの名前を、周りに聞こえるように大きめの声で呼ぶ。振り向いた先輩たちに少しびくりとして、微妙な手の位置で固まってしまった後輩ちゃんに、わたしは今度は声を落ち着けて「何だったかな?」と聞いた。

「えっと、あります私、見たこと。その人が本読んでるところ……」

 後輩ちゃんの話はこうだった。
 あるとき図書室で本を読んでいた彼女は、うっかりうたたねして、閉館時間を過ぎてしまっていた。まわりを見ても、もちろん他の生徒の姿は見えない。しまった、と思いながらそろりそろりと入口へ向かっていくと、カウンターの中に人がいることに気が付いた。司書の先生かと思ったがそうではない。三年生の学章をつけた男子生徒が、一冊の本を開いて読んでいるのだった。こちらに気づいて顔を上げた彼の表情は、直前まで少し笑っていたようで、頬にその名残が残っていたという。「ああ起きたね、じゃあ閉めるから」というと、彼はそれ以上表情を見せずに後輩ちゃんを図書室から閉め出し、そそくさと帰って行った。後輩ちゃんがその男子生徒を噂の本人と認識するのは、それから何度か図書室で姿を見かけるようになってからだということだ。しかしその彼女でも、最初に見た時以来、その生徒が本を読んでいる姿を見たことはないという。
「でもその時も、速読みたいにぱらぱらめくっていく感じではなかったです。私一瞬しか見てませんけど、その、ひとつのページを、じっくり眺めて楽しんでいるような感じに見えたっていうか……」
 話を聞いているうちに、わたしはどうにも件の生徒が気になって仕方がなかった。先輩たちは彼のことを読んでいるだの読んでいないだのとまだ言い合っているが、後輩ちゃんが見たという、楽しそうに本を開いていた彼の姿を、わたしは少し信じてみたくなった。もしかしたら、噂通りに大量の本を読破しているわけではないのかもしれない。しかし、少なくとも彼は一冊の本を楽しそうに読んでいたというのだ。私にはそれで十分だった。なんならわたしは、一度きちんと会って、自分の文章も読んでみてもらいたいと、そう思ったのだ。

 新しい部誌が完成するとすぐ、わたしは閉館間際を狙って、それまで我慢していた図書室に噂の彼を訪ねて行った。入り口すぐのカウンター。出されたままの返却箱。スタンバイされている「終了しました」の置き札。その奥で、確かに数冊の本を傍らにして、勉強に集中しているらしい男子生徒が座っていた。学章は見えないが、おそらくこの生徒だろう。わたしは刷り上がったばかりの部誌を手にして、なにがしかのどきどきを感じながら、「あの!」と声をかけた。少しうわずったのは否めない。

「はい。……なに?」

 開いた口が塞がらないというのは、こういう状態を言うのだろう。
 わたしの呼びかけに顔を上げた男子生徒は、わたしにも見覚えのある顔だった。そこにいたのは、数か月前、必死に部誌をかき集めていたわたしを目の前にして暴言を吐き、それに応えてわたしがしたたかに顔をぶった、あの、失礼な、男子生徒その人だった。
 彼の声は穏やかだった。わたしは驚きに飲まれそうになりつつも、意識してゆっくり「あの」と言い直して、気を取り直す。
 これ、読んでもらえますか。
 そう言いたかったはずなのに、わたしの脳裏では以前の彼の言葉が蘇っていた。言いかけて、また口をつぐんでしまう。彼は正しかった。だがその正しさはわたしに鋭過ぎた。ここにきてわたしは、まだ己の過去の影に囚われていたことを知った。
 それでも言わなければ、とわたしは勢いよく口をひらく。そうして出てきたのは、当初のわたしの心づもりとは、まったく別の言葉だった。
「あの、あのときは、すみませんでした」
 そういって差し出された部誌を、彼は「ああ、あれ」とだけ言って受け取ると、ぶたれた方の頬を反対の手で少し掻いた。
「結構、痛かった。もう次の出たんだ」
 わたしは混乱していた。いろんなことが目の前で起こっていて、自分で自分の言った言葉に驚き、どぎまぎとした。それから彼はこちらの言葉を待っているようにも見えたし、もう話しかけてほしくないようにも見えた。顔を伏せるような伏せないような中くらいの位置に目線を漂わせている。
 渡した部誌はそのままの形で、彼の手の中で閉じられていた。
「あの」
 わたしは勝手に口を開いていた。
「読んでもらえますか、今」
 彼は驚いたような顔をこちらに向けると、次第に渋るような表情へ変わっていった。「今?」と聞いてくるのにかぶせるようにわたしは「今」と返す。
 しばらく黙っていた彼は、時計を見て「終了」の札をカウンターに置くと、「まあ、君には悪いことを言ったし、わかったよ」と言って部誌を開く。彼はわたしが指さすよりも早く、目次の中からわたしのページを探し当てた。そういえば、前の時もそうだったが、いったいこの人は、
「なんでわたしのペンネームを知ってるのか、って思った?」
 いやに心を読んだようなことを言う人間だ。と思うほかなくわたしが黙っていると、彼は「まあ、これでもファンだからね」と続けた。……だ、だまされないぞ、わたしは! おい!
「だからこそ、前の文章は許せなかった」 
 それを聞いてわたしは、どきりとする。彼はわたしのページを開いたまま、文字を追っている風でもなく、ただ目線を紙に置いているだけのように見えた。
 しかし、彼はそのままページをめくった。わたしは思わず声をかけそうになる。待って、ほんとにちゃんと読んだ? 読みましたか? 言いたい。言って確かめたい。いいかげんに読まれたくなんてない。わたしの作品は、たとえ駄作でもわたしにとっては可愛いこどものようなものなのだ。その上、今回の作品は前回の雪辱も兼ねている。せっかく読んでくれている相手とは言え、そんなふうにないがしろにされるのは、あまり気持ちの良いものではなかった。
 しかしわたしは我慢した。それは、彼の目線は文字を追っていないようでも、顔はいたって真剣に見えたからだった。はたからは読んでもいないように見えても、確かに時間をかけてページを送っている。単なる適当や上の空とは違うなにかがそこにあるような気がして、わたしはだんだんと気持ちをやわらげ、その動きを見守ることに徹した。
 今回は短編だったので、その我慢は十ページにも満たないものだったが、わたしにはとても長く感じられた。彼はわたしのページの最後まで行くと部誌を閉じ、ありがとう、と口にした。
「止めずに待っていてくれて、ありがとう」
 これもまた、わたしの予想と違った言葉だった。と同時にどきっとした。わたしは現に彼の行為を止めようとしかけたのだ。だが彼はそれもわかっていたように、「いや、いいんだよ。普通は気になるんだ」といって少し笑った。「僕の本の読み方は、他の人とたぶん、違うから……」
 そうして彼はこう付け加えた。
「共感覚、ってわかるかな」
 わたしにも幸い聞いたことがあった。五感などのある感覚が、他の感覚と混ざり合って感じられる性質を持つ人が、世界にはいるらしいということを。それが共感覚というものだった。そして彼もまたその一人であるというのだ。
「例えるなら、太宰は深い青とグレーが基調で、たまにオレンジやピンクが差す。カフカは薄汚れた金色の手すりだったし、鷗外は一徹して布と濃い赤が多い。ああ、ビジネス書なんかは色が薄い折り紙みたいで、たまに見ると目に優しいよ」
 最後のは冗談だったのか、彼は小さくハハッと笑う。わたしは戸惑いを隠さずに彼を見た。彼は一呼吸置いてから続けた。
「僕はさ、文字で色や形が見えるんだよ。だから文を追っているうちに、周りが見えなくなってく。人前で長い文章を読んでると、どこ見てるんだかわからないって気味悪がられるし。まあだから逆に、絵を見るつもりで本を読んだりもしてて。だから噂されてるのは半分本当なんだ。全部の文章を読んでるわけじゃあない」
 初めて聞く話にどう反応してよいかわからず、わたしは手持無沙汰のまま彼の手元に目線を映した。彼もそれを追ったが、ちょうどその先にあったのが、さっきまで彼が勉強していたらしい教科書だった。
「ああ、これ? これはいいんだ。数学だから。数式は落ち着くよ。水族館みたいなるんだ」
 そう言われて、Σや√が泳いでいるのを想像してしまったわたしは、「それはたのしそう」と初めて彼の前で笑みをこぼした。
「それで、あの時のわたしの文をあんな風に言ったんですね」
 少し悔しかったが、確かにあのあと自分で見返しても泥のようなできだったのだから仕方がない。そう思っていると、彼は「いや、それは違う」と訂正した。わたしはきょとんとする。
「違うって、何がですか」
「さっき言ったでしょう、これでもファンだって。君の書く文章はいつもガチャガチャしていて、そのくせ繊細で、たくさんの物から影響を受けているのがよくわかる色遣いで、」
 と彼はいくつかの形容を並べると、最後にこう締めくくった。

「……際限のないお花畑みたいで、好きなんだよ。僕は」

 いままで受けたことのない褒め言葉がやってきて、わたしの頭は完全に停止してしまった。むこうも面と向かって言ったのが恥ずかしかったのだろうか、少しうつむいてしまう。
「今回の小説も、きれいでたのしかった。前回のだって、本当は……」
 そこまで言われて、わたしは我に返る。空白の頭に、ひとつの疑問だけが浮かんでいた。
「じゃあ、なんで、泥みたいだなんて言ったんですか」

 この言葉への彼の返り事をもって、この話はおしまいとする。なぜかって、もうこれ以上、わたしがわたしを描写しきれないのだ。おお、神なる第二のわたしよ! なぜこのような過酷な役目を与えたのか。わたしにはモブがお似合いだ。花形なんてとてもじゃない。三分で散るのが関の山だ。
 それでもそれでも、わたしにこの役をやれというのなら、どうか今度こそハッピーエンドまで導いてくれ。わたしはそう切に、切に、願うばかりだ。

 彼は少しためらってから思い切ったようにわたしに言ったが、言っているうちに最後の方はまた頭が下がっていってしまいながら、結局のところ、こんなことを言った。
「なんでって、悔しかったんだよ。僕が好きな君の世界をあんな桃色まみれにしたやつがいるなんて、嫌じゃないか。負け惜しみさ。でもだから、悪かったとは思ってるんだよ。これはつまり、僕が、そんな世界を書ける君のことを、好きってだけなんだろうから……」

 泥にも花は咲くという。
 あのとき塗られた泥の中から、やおら何かが色めくのを、わたしはたしかに感じていた。

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