第七開『縛る』飴町ゆゆき

 ある言葉が表す概念がどの程度の広さのものかは、人それぞれだろう。もちろん、暑いだの美しいだの、硬いだの明るいだのといったものは、現象に対するその人の評価に他ならない。学術的な区分を除けば、キツネをイヌだと言おうがオオカミだと言おうが人の勝手なのである。なにせ世界にはチョウとガを区別しない言語まであるということだ。今日の空が晴れなのか曇りなのか我々には名状しがたい別の天気といえるのかなんて、それこそ可能性は人の数だけあるわけで、なんといっても我々が難なく意思疎通しているように見えるのは、それぞれの持つ真実のうちわずかに重なった共通項にのみ目を向けて、お互いの言葉の意味する概念を絞り込んでいるからに相違ない。
 だから私は、目の前の現象に混乱してはいけないのだ。

「ボクはネコだ、ホラ、早くミルクをよこすといいぞ」

 目の前の彼(あるいは彼女)がそう言っているのなら、きっとそれもまた、確かな真実であるのだから。

 彼(あるいは彼女)はいつのまにか私の書斎にいた。そうして私の服を着て床に座っていた。ソファの脚先をかりかりとさほど長くない爪で掻きながら、私を見ると、最初、「やあ」としゃべった。
「うわあ、誰だ、きみ」
 驚き訝しむ私の様子を一顧だにせず、その者は先のように自分をネコだと名乗った。馬鹿にしているのかと思った。また不審者かと思った。こういうわけのわからない言動をするサイコパスが人を殺して回るのを私は本で読んだばかりだった。ネコは人間らしい容貌でまだ10代ぐらいに見えた。顔は幼く、オスにもメスにも見えた。確かにネコの頭にはネコの耳のようなものが、髪の毛の間から出ていた。髪は黒っぽいが、耳のようなものは灰色と黒の混じった模様だった。ネコの耳はぴょこぴょこと動いていた。しかしそれでいて、顔の側面には人間らしい耳もきちんとついているのだった。私はわけがわからなくなった。ただ、かの者が己をネコと名乗っているということだけは確かなこととしてわかった。
 このサイコパスに刺されても困ると思った私は、冷蔵庫から紙パックの牛乳を取り出して深めの皿に入れ、ちゃぷちゃぷと波立たせながら恐る恐る書斎までそれを持ってきた。ところがなんとも、私を待っていたのはネコの深いため息であった。
「馬鹿だなあ、ミルクぐらいコップで飲むよ」
 こいつはネコだと名乗りながらネコらしい自覚がまるでないようだった。馬鹿にしやあがってと思ったが、私はどうやらきちんとマグカップに牛乳を入れなおして持ってくるお人よしであった。それをネコに渡すと、ネコはふてぶてしい受け取り方のあと満足そうに口を付けた。どうにも腹の立つネコである。カップを両手で持ってこくりこくりと飲む様子が、かわいらしいのがまた腹立たしい。得てしてネコとはそういうものだったかもしらん。まったくこのネコがネコだという保証はどこにもないのだが、彼(あるいは彼女)がそう言っているのだからおそらくネコなのであろう。
 ネコよ、何ゆえ我が前に現れた。
 それを聞くこともしないまま、どうしたことかネコはすっかり書斎に居ついてしまい、私はネコを書斎に放し飼いにする始末となってしまった。

 ネコは私の部屋で爪を研ぐ代わりによく本を読んだ。幸いその爪は、ソファを傷つけるのではなくページをめくるためにあるようだった。私もまだ手を付けていない本を先に読んでしまうこともあった。読む順番は気にも留めない様子でやたらめったらと好きに読んでいるようだった。連番ものでも関係ない。たいてい私が部屋で別のことをしているときに、ソファの脇でこれ見よがしにそうした本を広げてはフフンと鼻を鳴らしている。しかたがないので私はミルクを温めて持ってくる。ネコが満足そうにしていたので私も悪い気はしなかった。顔が腹立たしいのは常であった。
 あるとき私は、ネコが読んだ後の本を棚に戻そうとする手を、ふと止めた。ネコは本を出すだけ出して戻さない。そのため、部屋中のあちこちに引っ張り出された読んだのだか読んでいないのだかわからない本を、ネコの気が済んだ頃に再び書棚に戻すのが私の日課であった。しかしこのときはまっすぐ書棚に戻すことをせず、ネコの取り出していた本の表紙に私は目を留めた。それはある作家の三部作の途中の巻だった。私が買うだけ買ってずっと棚に眠らせていた本である。そのような本は無論この部屋にはいくらでもあるのだが、なぜだか私はその本が急に読みたくなった。しかし、そう長い間タイトルをにらんでいたわけでもない。すぐに気を取り直し、私は順々に本たちを元の場所へ返した。私はまだ、その本を読むわけにはいかなかった。私にはまだ読みかけの本があるし、三部作の一作目すら読んだこともなかったのだ。
 それからその本はネコに引っ張り出されることはなかったのだが、私はたびたび無意識にその棚の前で足を止め、あるいはソファからその位置をぼんやりと眺めることが多くなった。そのたびに、いやいや、と私は何事もなかったように元の作業に戻る。そんなことをしばらく繰り返していると、やがてネコがソファの脇の定位置から振り仰いで、私にしゃべりかけてきた。
「読まないのかい、あの本」
 見透かしたような言い方だった。「実は、ずっと読みたいんだろ?」
 私の答えは早かった。
「いや、読まない」そうして自分に言い聞かせるように言葉を繰り返す。「読まない。読めないね、まだ」
 ネコは私のやることなすことに散々ついてきたお決まりのようなため息をついて、わざと呆れたような顔でこんなことを言った。
「馬鹿だなあ、犬畜生のごとくなりだ。読んでしまえばいいんだ」
 まさかネコに畜生呼ばわりされるとは思っていなかったので、私は慮外にもカチンときてしまった。あれだけ本を散らかしておいて、畜生はどちらだというのだ。というかネコだって立派な畜生だ。チクショウめ。と口に出しかけたものの、しかして続くネコの言葉に息をのんだついでに、私はそうした言葉も飲み込んでしまった。

「だって、君の本だろ」

 その言葉を受けた私は、考えるよりも先に目で書棚を追っていた。ソファから向かって左の棚二段目左奥にその本はある。立ち上がり、書棚の奥で迷いなくその本の前に立つ。背表紙にかける指がかすかに震えているのが自分でもわかった。まじまじと表紙を見、裏表紙を見る。地の平らかな面をなぞりながらカバーのズレを整え、栞紐の根元から天の凹凸に目を滑らせる。開く。作者の来歴を斜めに読み、目次に手をかけると、いざ、もはや我慢ならず。私はガバリと覆いかぶさるように適当なページを開くと、なんの脈絡もわからないのに、そのまましばらくの間読み進めてしまっていた。語りの経緯は知らず、しかしちょうど開いたページにあったセリフが、いたく気に入ってしまったのだ。「人間は精神の隷属者だ。」という一言から始まるそのセリフは長々と数ページにわたって続いた。ある人物の一人語りにしてはあまりにも長く、いつのまにか読んでいるこちらが、活字のガイドレールに沿ってその作者の思考をなぞらされているかのようだった。途中、私はふっと本から顔を上げた。そうしてなんだか、だんだんこれまでの自分が馬鹿馬鹿しくなってきた。なんだ。読めるじゃないか。まだ読んでいる本が、順番が、などと、うじうじ考えていたそれらがまったくもって意味のないものだったように感じられた。現に私は読んでいる。そうして面白くって止まらないのだ。こんなに面白い本を山ほど積んで、どこの馬の骨ともわからぬネコチクショウに読み散らかさせていたのかと思うとまったく悔しい。まったくもっていけ好かない。私はぷりぷりと憤怒を募らせながら、また少し、また少しとページを繰っていった。

「どんなもんだい」
 フフンとネコが鼻を鳴らしたような気がして、ハッとして本を閉じた。振り返ると、そこにネコの姿はなかった。あたりを見回しても、どこにも見当たらない。ネコは書斎に居ついていたので書斎を出るとも思えない。
 私はいくらか逡巡したのち、持っていた本を目の前の棚に差し込んでしまって、今度は自分のもともと読んでいた本に立ち戻った。ハードカバーを支える手首がこんなにも軽い。不思議と私は気にならなくて、そのときはネコを探そうともしなかった。瞬く間にその本を読んでしまうと、私は悠々と先ほどの本を再び手に取り、今度は目次のページから、なめるようにゆっくりと目を通していった。
 それからこの書斎でネコを見ることはなかった。よくよく思い出してみると、ネコが着ていた私の服はずいぶん前に捨てたものだった。いったい幻覚でも見ていたのかとあとから不思議に思う次第だが、それでもサイコパスでなかっただけまだましである。
 ネコがいなくなってから、私は前より本を読むようになったようだった。まだ順番のことは気になるが、たまに少し自分を裏切ってみることがある。それは、何かの拍子に本棚から少し飛び出た本を見つけるときだ。ほんの1センチの段差は、たとえ大きさの不揃い本の中でも、見慣れた書棚ではやたらと目につく。一体何の拍子で飛び出るのか私には皆目見当もつかない。見当もつかないが、そこにある本は読んでほしそうに飛び出ているので、私もそれを手に取ってしまう。私は本を手に、ソファに深く腰掛ける。
 こうして自分を裏切った本を読んでいると、どこかでまたネコがのどを鳴らしているような気がする。もし今度出てきたら、もうそろそろミルクは自分で用意しろと言ってやりたいところだが、いかんせん、私がそれに気づくかどうか。
 なにせ困ったことに、手に取る本はいずれもまた、どうしてかいたく面白いのだ。

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