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夢見つつ深く植えよ

 真夜中のことだ。ついに本物のフクロウがやってきた。「ゴロスケホーホー」だ。姿は見えなくとも間違いない。
 先日はアオバズクの声もはじめて聴いたのだった。野生の生き物たちは今どきは冬に備えて餌を求め、いつもより行動範囲を広げているに違いない。(よもや住み着きはしまいが)

 フクロウは10回以上も鳴いたのではないか。住宅街の小さな森の中であまりに遠慮なく鳴き続けるので、もしや姿まで見せるつもりなのではと、私はベッドから起き出して懐中電灯を手に外へ出てみようかと思ったくらいである。
 けれども程なくして、森の向こう側に沿って走る線路を、深夜の貨物列車がゴトゴトと鈍い音を立てて通過して行くと、それっきり、何もかもが持ち去られたように静まりかえってしまった。すっかり目が冴えて、夜の中にひとり私は取り残されたーー。

 しかたがない。オルハン・パムクを読んでしまおうか。数日前に手をつけた《黒い本》である。これが実は、ぜんぜん進んでいなかった。ーー地味にショック、である。

 この世に「面白くない読み物」というものはない。人気作家の小説だろうと、素人の読書感想文だろうと、あるいは宗教のビラであれ、スーパーの特売チラシであれ、「読解力があれば面白い」のだ。
 オルハン・パムクがまったく理解不能で、我慢して三分の一まで読み進めてもいまだ興味が持てず、さっぱり面白いと思えないのは、当然これは彼の責任ではなく私の問題であって、いわば私にはまだ「この本を読む力が無い」ということである。
 知らないことだらけだ。トルコ界隈の歴史、宗教、人種、地理、生活スタイル、気質、伝統菓子の名前ーー。(若い頃にトルコ料理店で働いた経験があるが)、何ひとつピンとくる言葉がないとは、やはりショックであるーー。

 そのうえこの《黒い本》は私に、得体の知れない不安をもたらす。夜驚症(子供時代に発症しやすい就寝中に起こるパニック)という症状が、この歳になっても私は治らずたびたび苦しめられているが、それに近い感覚である。読んでいて、その内容も理解していないくせに、背中がぞっとして、心臓がバクバク鳴り、なんとも言えない恐怖に襲われるのである。ーー呪いの書でもあるまいに。

 おかげでなんだか今朝も夢見が悪い。誰かに助けを求めるほどのことではない、この得体の知れない不安をどうしたものかーー。
 不安や恐怖というものには実体がないのである。だからこそそこから逃れるのは難しい。取り除くべき原因がそもそも無いのだから。これでいいのだ、人生とはこんなものである、たかが私じゃないかーー、そう思うしかない。

 久しぶりに、メイ・サートンでも読みたい気分だ。得体の知れないものに追い回される日にも、現実に呆然とさせられる日も、理由もなく悲しい日にも、《夢見つつ深く植えよ》と彼女は言うーー。


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