もういない人の文章

すでに鬼籍に入ってしまった作家の小説を読むのが苦手だ。

文章に集中していると、作者と同席している気になることがある。
もちろん登場人物やその状況に身を投じながら、その上で、なんというか「顔」のようなものが見えることがあるのだ。
運転をしているときに周囲に気を配りながらも風景を楽しめる、あの感覚に近いのかもしれない。あるいは好きなアニメを見ていてそのキャラクターを楽しみながらも、声優の演技を推察するあの感覚といってもいいかもしれない。
これはどんなジャンルの作家でも同じで、小説家だけではなくエッセイストや随筆家の作品でも同じことが起こる。

そしてそれは時代も選ばない。
坂口、芥川、黒岩といった文豪たちの「顔」も、また同じように見えることがある。(もちろん国語の便覧に乗っているあの顔のことを指して言っているわけではない)
彼らの静謐かつ荒々しく皮肉にまみれたような文章により、文字を介して彼らと「顔」を突き合わる瞬間がある。
僕はその瞬間がたまらなく恐ろしい。
文字の向こうにいる彼らがもうこの世にいないという事実が、たまらなく、恐ろしいのだ。
その時生々しくもリアルタイムに感じ取っていた彼らの「顔」が一気に矛盾して見える。幽霊を見た時もきっとこんな心地なんだろう。「いないのにいる」が怖い。僕が神経質なだけだというとは重々承知の上で、そう思う。

そしてさらに恐ろしいのは、それらの「顔」は僕が項を捲ることによってどんどんすり減っていくという事実だ。
当たり前だが、もうこの世にいない彼らが書いた文章たちは有限だ。
読めば読むほど減っていき、発見されることはあっても新しいものは生まれてこない。
文字を追うたびに。覘かせる「顔」は消えていく。
読み、理解し、身に落とす度に、これからの「顔」が減っていく。
なんだか文章を書いた彼らの遺骨を踏み砕いているような感覚になるのだ。
同じ文章をまた読もうとも、それは以前見た「顔」をもう一度確認するだけだ。生配信とアーカイブを見るときの違いと言えば、同世代の人たちには伝わるだろうか。
おそらくあまり共感してもらえないだろうが、そんな気持ちになるくらいなら、読まないまま『「顔」はまだ残っている』と思っていたほうが幾分気持ちは軽い。

ああ、もうなんだか言葉をこねくり回して余計わかりにくくなっている気がする。
ようは、「この世にいない人が書いた文章が怖い」「その人の書いた文章を読み切ってしまうのが怖い」という話だ。



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