午後の紅茶を午前に飲む

このユーモアを初めに思いついた人も、ここまで使い倒されるとは思わなかっただろうな。

このフレーズを最初に聞いた時は、確かに「上手いこと言うなあ」とクスリと笑ったはずだ。それがいつしか、ストレートにこのフレーズを使う人を生暖かい目で見るまでになってしまった。
感性としては成長しているのだろうが、使用者を冷笑してしまいそうになる自分が嫌いになる。

感性の成長によってコンテンツというものに対する許容域が狭くなって行ってる気がする。
僕はもうアンパンマンに目新しさを感じることはないし、雑貨屋の10円ガムのガチャガチャに心を躍らせることもない。
もしそれらと面と向かうことになれば、くだらないとさえ思ってしまうかもしれない。

思えば、何かに対して楽しいと思うメカニズムも変わってきた気がする。

小さな頃は接したコンテンツから発せられる刺激をそのまま純粋に楽しんでいた。
ある程度成長した今になると、コンテンツから発せられる刺激を一旦「許し」、仕組みとして「理解」した上で、その文脈を楽しむようになってしまった。

映画やアニメを見る時でも、小さな頃は純粋に主人公やその取り巻く環境に共感、時には自己投影して楽しんでいた。
しかし今では「なるほど、作った人はこういう意図があったのか。演出も素晴らしくて――――」みたいな、なんというか俯瞰している(つもりな)見方になってしまう。

国語の問題を解く時に嫌っていた「一々登場人物の感情を言語化する無粋な大人」になってしまった。
今となっては問題の本文の登場人物よりも問題の製作者側の気持ちの方がストレートにわかってしまうような気がする。

これが良いことか悪いことなのか、僕にはまだ分からないが、時たま、物悲しくなってしまう。

まあ、どうでもいいや。
午後の紅茶、飲ーもう(執筆時刻11:30)。

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