「判断」という感想

如何に末端であれ、創作し発表するような立場にいる人間は何かしらの批判や批評を受ける立場にある。
演劇であったり、絵画であったり、小説であったり、発表時に制作側の表現を一方的に受け取らなければならないものほど、それは顕著だ。

例えば舞台で「命は大事だ」と主張する時、観客はそれを正面から聞くことしか出来ない。ルドヴィコ療法とまでは言わないが、上演が終わるまではどんなに忌避感を覚えようとも、その場を離れたり異を唱えることは難しいからだ。
なので、観客は見た感想をアンケートであったりSNSの発信であったりを使って、時間差で自分の言い分を主張するのだ。

これは考えてみれば当たり前で、「そもそも金や時間を貰った上にこちらの言い分を一方的にぶつけているのだから、向こうにも何か言い返す機会がないと不公平だ」という、至極真っ当なコミュニケーションのルールのようなものだと思う。
少なくとも自分が言った程度のことは、向こうから言われて然るべきだろう。

「言いたいことだけ言うから、そっちは黙ってろ」は通じるわけが無い。



その一方で、明らかにその均衡を破ってしまう感想というものもある。

それは「○○である/でない」という感想だ。
この感想は、制作側と観客という対等な関係を「判断される側/する側」という上下構造にしてしまう恐れがあるからだ。

ここ数年だと、マヂカルラブリー「漫才、漫才じゃない論争」やダウ90000の「コントか芝居か」などが目立っていたように思う。
SNS上でも、「本人たちが○○だと言ってるのだから○○だ 」「いや、△△という点から○○じゃない」「そもそもそのカテゴライズすら必要ない」など様々な意見が飛び交った。
何となく「○○じゃない」という人は「○○らしくない」と言っているイメージだった。「このジャンルでやることでは無い」と言っている人もいたように思える。



ここ数年、評論や評価、批判以外に「判断」という感想が生まれたように感じる。
いや、以前からこういった感想はあったのだから、「増殖した」と言う方が正しいのかもしれない。

僕はこの「判断」という感想は、非常に危険なものだと思っている。
なぜなら「判断」は、そのジャンルの成熟を妨げてしまうからだ。

例えば、映画においてトラッキングショット(移動撮影)が、映画らしくないと「判断」されていたらどうだろう。
例えば、漫画において不均等なコマ割りが、漫画らしくないと「判断」されていたらどうだろう。
例えば、演劇において電気を用いた照明が、演劇らしくないと「判断」されていたら。
例えば、絵画において遠近法が絵画らしくないと「判断」されていたら。

芸術という娯楽は、枝葉の自由な成長によってその趨勢を辿ってきた。
もちろん、いくつかの枝は先細り折れてしまうこともある。
しかし、だからといってまだ青いうちから「判断」によって断裁しては環境に順応できず枯死を待つだけだ。

「○○らしくない」という感想を持つのは何も悪くない。ただその先の「○○ではない」と言った飛躍は極力避けなければいけない。

「嫌」と「ダメ」は違うのだ

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