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リハビリであるという、都合の良い理由

ちょっと前に、「問い詰めるは追い詰めるだ」、というような話を聞いて、自分も純粋に興味があることをどんどん聞いてしまう時にあまり良い顔をされないことを思い出した。
普段はそんなに話さないくせに、気になることや知りたいことの時、その人の隅々を点と点が線になるまで聞きたいと思ってしまうことがあって、そういう、私のなぜなぜどうしてに付き合ってくれるおともだちがいるのは人生において救いなんだな。特別だったんだな、と知る。

同時に、仕方ないよね、どうしようもないこともあるよね、と言ってくれる人がいるのも救いだけど。

私は私が選んだものに囲まれて生きている。

見たかったら見に行けばいいし、会いたかったら会いに行けばよくて、欲しいものは手に入れればいい。
言い訳してはじめから諦めるのがとても嫌で、ほんとうは誰かのそれを見るのもいやなんだなーお金ないならもっと働けばいいし、働きたくない人は嫌なことしないでお金もらえる方法考えればいいじゃん。汗水垂らして得るお金が本物みたいなこと言ってる人が自分はこんなにがんばってるんだからもっと貰えるはずだ!って声高に主張するのを見ると不思議な気分になる。

人のせいにしたくない
誰かを傷つけて正しさを使いたくない
って、そればっかりだけど。

好きな人たちに会うたびに、生きててくれてよかったと思う。それだけで、良い。
随分と、感覚的に引きこもっているんだなーと温泉に入って実感した。

話すことは怖いけど、たぶん好きだ
下手だけど、たぶん好きだ

上手な人しか話しちゃいけないみたいな空気をずっと勝手に感じていて、自分を強張らせていた。その感覚は今もちょっとある。
それでも話さなくちゃはじまらないし、楽しくやれるようになりたいので、少しずつ少しずつ。私の基本姿勢は修行だ。

悩みのタネだって、遅いとか遅くないとかそういうのじゃないし、繰り返したっていい

方法はきっとたくさんある。
それを知れるのはラッキーでしかない。
だから、他人の考えてることを知りたい。大事なものを知りたい。

そのためには自分の考えてることや大事にしているものを伝えられるようにしておかなくてはいけない。

※①にもどる

俺の楽しみ方はこれだかんな!って見せつけたいので、仕事も作るし曲も作る。
そういう感じなのかもしれない。

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