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ダークモードは認識できない

立ち上げの仕事の忙しさと娘の長期休校と自分の低空飛行の体調に慣れてきている感覚と、気を張り続けて気合いを循環させてこれてたと思ってたのだが今朝の自分の状態を思うとかなり極限だったのだな。

と何日か前に思っていたら友人が同じようなことを言っていてそこで目が覚めた。

大丈夫という彼に、それって大丈夫じゃないよって言った後、      あぁ、私は気遣って欲しかったんだ、と気づいた。

優しくされたかった自分がいたことを認識するとはっと我に帰る。恥ずかしさと情けなさと諦めと意欲。友人に向けた励ます言葉は同時に自分に向けても言っていた。

諦めてひとつずつしんでいく。それは生まれたということでもあるので祝福でもあるのだが。終わりと始まりの繋ぎ目。

ならば祝福だけでいいじゃないか!という人はたくさんいるだろう。。が、死ぬと生まれるはセットでありたい。自分の中で、もうずっとずっと前から譲れないものになっている。それを美しいとする、みたいな。決意表明。

死は悲しいけど悪いことじゃなくて、悲しいのは長い時間自分の側にあっていつのまにか自分を象るものの一つになっていたから。自分の何かが死んだと思う時、それはしがみついていたものを手放せたとも言えるし、俯瞰して観れるようになったとも言えるし、〇〇してあげられなかった結果でもあるし、変わりたいと思う気持ちの新しい芽でもある。なんでもいい、だから否定も理解もいらないのかもしれないな。

とかなんとか綺麗なことを言っておいて、これでいきたい!と思う時はエゴが発動している。誰かを変えようと思っている。

情けない話だけれど、今がそう。私は今、許せないことを持っている!

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自分の時間は作るしかない。重々承知の上でそれが難しいことを主張したいし、それでも時間は作るしかないことを知っている。時間がないのは自分のせいだ。

自分には言えるけど他人には口が裂けても言えない言葉。

他人のしんどさを想像することは簡単できりがない、だから自分の正しさを強要しない。

 今持っているものは未来に持っていくもの。

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