禁止されていなかった頃の手触りを価値と呼ぶ

肉体的と脳を極限まで使うと多分倒れるんだけど、その手前はめちゃくちゃ寂しくなって誰かにそばにいて欲しくなるみたいなものが発動しやすい。

きっとそういうのも研究されていて人間の感情なんて科学の手のひらで転がされているんだろうな、、(だからめっちゃクールって話でもなくて、統計学の視点とでも言えばいいのだろうか)

 頭を使うことを疲れると思う時は、今やろうとしていることに対して自分の理解が追いついていない時、又は私の考えることに他人の理解が追いついていない時である。

理解の不一致の平行線が一番疲弊する

 

戸惑う時は必ず自分の理解不足を疑って追い込みをかけるようにしているけれど、そういう問題じゃない時があるのかもしれないと思うようになった。それはもう人種の違いや言語の違いのようなもので、これを私が思うということは同じように相手も私に対して思っているということ。

 こないだ誰かと話したが、自己肯定感の低さからくる、基準を自分にしてしまう問題が余裕がない時ほど出てくるので自分で自分の機嫌をとることが本当に大事だなと身にしみている(ここで出だしに戻る鮮やかな循環)

 こういうモヤモヤの時の方がむしゃくしゃして甘いものが食べたくなったり上の空でご飯を食べてしまって、そのことにも落ち込んで追い討ちをかけがち。ご飯は味わって食べたいし、ただただ喜んでごちそうさまを言いたい。


今の状況を3.11の時の気持ちと重ねてしまっていて日々底なし沼に落ちていく感覚。近くて遠い遠くて近い。今回の方が自分たちで決めて選択の末のこの状況だと思うと余計辛くて途方に暮れそうになる。やれることはやる。やれることしかやれないんだけど少しづつ少しづつすり減っていってる。応援するや助け合う、隣の人を気にするとか、無意識の中で薄れやすくなってしまうことをなんとか維持し続けないとって気負いすぎていたり、単純に分断されやすい状況になっていくことへの落ち込みが負荷となっている。メンタルが弱いの一言で済んじゃう話なんだけど。。。

不要不急ってなんなんだろう。

マスクがなくなりマスクをしてない人が増えていることにどんな理由であれ許さないって姿勢の人もいるし、こんな時だからいつも通りの人もいる。

自分を守ることを誰かに背負わせないこと、ちょっとだけ周りを気にする余白を持ち続ける努力をすること。

桜が咲き出していた。

夜明けと朝の間に高速を走る時、浜名湖から三ケ日の間あたりの道路脇の桜が真っ先に思い出す景色。毎回感動してる。毎回感動してる自分に単純でおめでたくて好きだなぁと思う。本当はその時間や景色に付随したキュッとした記憶も一緒に出てきてるけど過去は全部綺麗だ。その辺も良いところかもしれない

 こんなときだけど満開の桜の下でのんびり歩きたいなーーーー


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というようなことをこっそりやっているブログに書いていた去年の春。

あれからSNSを減らしたり人と会えなくなったり趣味をする力がなくなったりした。その分仕事はハチャメチャにやっている。音楽は好きだけど音楽をしたいという気持ちがなくなってYouTubeをたくさん見るようになった。

ブログを書きたくなる時は大体苦しかったりしんどくなったり孤独だなぁと思う時で、読み返しては同じような気持ちを吐き出した自分の文章を読んで共感して励まされて書くことも辞めてしまった。

コスパはいいが何かが死んでしまったような気がする

きっとそういう人はたくさんいるんだろうな。だからもっと寂しいとか言っていいんだと思う。


 

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