ワタシの考える「いい写真」@TBとして

 撮った写真作品で語るべき「写真撮り」が「写真」そのもののことについて語るのはどうかと思うのだけど、ボクの場合は「写真撮り」であると同時に「テキスト芸人」であり、さらには「思索する人」(全部自称、笑)であるのでなんでもありなのです。

 でも、やはり写真について語ることはせずに写真に語らせたいとは思っています。なのにここのとこずっと、「いい写真について」のアレやコレやが脳内を浮遊して考えてしまうのは、とあるnoteを読んだからです。

 それは写真を取り扱う書籍のプロの編集者さんのnoteです。

 と、もうすでにここに答えがあるのですが、、つまりね、「いい写真」について、これほど楽しく思索心をそそる、しかもTBまでしたくなるnoteは、まさしく「いいnote」で、奥深さを感じる、、とまさに「このこと」が、「写真」でも同じではないかな、と思うんですね。その写真をみた人が、ずっとその映像やイメージが脳内や身体にのこっていて、あれこれ想像させたり、考えさせられたり、また「なんだったんだろう」と不思議な気持ちにさせられる。感性に訴えかけ、記憶に残る。また何かの機会に思い出される、これが「いい写真」じゃないかな、と考えました。

 前置きが長くなりましたが、TB元のnoteを紹介しますね。

このnoteで「いい写真」について短いセンテンスで紹介されてますので、その部分を引用させていただきます。

撮る人がどんな風に世界を見ているか、世界から何を受け取っているか。その人の物を見るときのまなざしを感じる写真がいい写真だと思う。

大谷八千代さんのnoteより

奥深いセンテンスだなぁ、と感じます。
このうち「世界から何を受け取っているか」については、だいぶ前にボクもnoteに書いたことがあるので、リンクで紹介だけして、今回は、後半部の「人のものをみるまなざし」について考えたことを書いてみたいと思います。



人のものを見るときのまなざしを感じる写真

 写真ってそもそも人間だけのものなんですよね。
 写真を撮るのもの人間ですし、それを見るのも人間。そして人間ならではの自分が写された写真とは別の世界にいるような観念というか客観的?神目線?でみている。
写真に撮られる被写体にとっては、そこで在るだけ、生きてるだけなんです。存在そのものなんです。たとえば、、、

写真集「海上の森」より

このなかに写された「虫(オトシブミ)」にしても「葉」にしても「光」にして、彼らにしてみればその世界のなかの一員なんですね。含まれるというか、そのものというか、人間だってそのなかの一員です。それが事実です。
写真には事実の記録という面もあるかもしれません。
「この葉の上にこの種のオトシブミがいる」という事実では「いい写真」かもしれませんが、「オトシブミ」をつぶさに記録するという点では「わるい写真」となるでしょう。だってほぼシルエットしか写されてなくて同定さえままなりません。

ここで語られる「いい写真」か否かとは、そうした記録の観点ではなく、より人間っぽい観念的な、「物語」を感じることのあるなし。そんな「まなざし」のあるなしのことだと考えます。
たとえば上記の写真は、「とるにたらない小さな虫が陽の当たるところを目指している」という物語を感じながら撮りました。
できあがった写真をみて納得できたのでワタシにとっては「いい写真」です。
もしかしたら、見てくれた人が「何かを感じてくれる人がいるんじゃないかな」という密かな願いももっています。もし一人でも何かを感じてくれれば、それは感じてくれた人にとっても「いい写真」になります。
もちろん、その物語が撮影者と一致する必要はありません。
別の物語になっても、「いい写真」です。

もう一点違う写真を紹介します。

4月9日のnoteより

これは最近noteにupした写真です。
コメントで「毒多らしい」というお言葉をいただきました。
言われてみて、ほんとそうだよね、こういうの好きだよねぇ、と自分でも思いますし、気付かされます。
よくよく振り返ると、この写真を撮るとき「今苦境に立たされ身体まで壊してしまった友人に届けたい」と思いながらシャッターを切ったことを思い出しました。こんな岩の上に生まれてしまった木の芽だけど育とうとしている、ボクはそんなメッセージを自然から貰った。だからシェアしたい。そして見ている人もいるんだよ、と、これは毒多のまなざしのような気がします。
もちろん、言葉にしない限り写真撮りのパーソナルなメッセージが伝わることはありません。でも、何かが伝わるかもしれないと思っています。

この被写体は、メインの散策道の脇のセセラギにあります。
おそらく誰も気に留めず、誰も写真に撮ることはない。
誰も振り向きもしない。
でも毒多という写真撮りにとっては気になって仕方がない。
森からのメッセージのような気がしているからです。
どんな環境であろうと、ただ生きる、というメッセージ。
思えば、この人生のなかでずっと逆境のなかで苦しんでいる人が気になってきました。そして写真撮りとしてでなく、そこに身をおいてきた。
遠い世界のことでなく、目の前でそれでも頑張っている人に気が向いた。
これは写真とは関係なく、ずっと気にして生きてきた。
そこからの地続きで、写真撮りになってもこうした被写体が気になるのかもしれない。こうした物語をつくりだしてしまう。
写真を通してエールをおくってしまう。
と、今回あらためて気付きました。

写真集「海上の森」より

これも同じです。
水のうえの枯れている立木に生きるシダ。もう沈みかけている。
完全に悪環境で苦悩すべき生きざまです。
毒多だからのまなざしが向いてしまうのかもしれません。
でもね、これも人間的ですがこの絶対絶命に「美しさ」を感じる。
こんな逆境のなかにいきいきと生きているから美しい。
華やかな場所で華やかに生きるよりむしろ美しい。
美しくあれと思う。だからもっとも美しく表現してあげたい。
そう思いながらシャッターを切っている。
こうした心理も今回気がついたことです。

考えているうちに、もはや「いい写真」かどうかはどうでもよくなって来ました。こうして撮られた写真が毒多なんだから「いい」も「わるい」もない。

結果なんですよね。
「いい写真」は、そこを目指して撮ろうとするものではないのかもしれません。写真撮りが、その者独自のまなざし(生き様)を表現した写真がある。
それが表現できていると納得できれば結果として「いい写真」である。
またその写真が共感を産めば、共感した人たちにとって「いい写真」となる。他者によって新しい物語がうまれれば、その他者にとって「いい写真」になる。
「いい写真」という評価はあとでついてくる。
あとでついた評価はすでにもうどうでもよいものでもある。

こうして考えていくと、敢えて「よくない写真」ということを言えば、自分自身の感性ではなく、他者によって「撮らされた写真」がそうなるのかもしれません。
「ここは絶景スポットだから写真にとるべきです」と言われて撮った写真。
「映えるセッテイングにしたらから写真にどうぞ」とつくられた写真。
ワタシも観光地なんかにいけば、そうした写真を撮ります。
そこの被写体が感性に響けばいいのですが、、、
でも、なんとなく、撮らされた感が残ってしまうんです。
あ、これ自分の写真じゃない、という風に感じてしまう。
まず自分の感性があり、まなざしがあって、ワタシの場合はメッセージを込める。それは写真以前の人生です。
そもそもの世界観かもしれません。
たまたま表現したのが写真を通してだった。
考えたあげく、図らずも最初に引用させてもらったセンテンスに回帰しました。

撮る人がどんな風に世界を見ているか、世界から何を受け取っているか。その人の物を見るときのまなざしを感じる写真がいい写真だと思う。

大谷八千代さんのnoteより

撮る人がどんな風に世界を見ているか、、
これは写真以前の世界観のことをさすのかもしれませんね。

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