助け合う、、、「生きやすい」世界

過日、NHKで人類の誕生3回シリーズみたいな番組をやっていた。
偶然観た1回目がおもしろかったから、2回目も観ようと思っていたのに見逃し、こともあろうか再放送もほぼ見逃した。
再放送の最後のほうを観たのだが、全て観れなかったことが残念でしかたない。
2回目の最後のほうでは、なぜネアンデルタールは滅んで、ホモ・サピエンスは繁栄したかという内容だった。
ホモ・サピエンスは氷河期なんか食糧がなくなったときに、食物を別部族でも分け合ったから種として生き延び繁栄したということらしい。
「動物」だったホモ・サピエンスが「助け合う」ことで「人間」になった。
つまり「助け合う」ことこそが「人間性」の根源だといえるのではないか?

その後はそれぞれが役割を分担し「助け合う」。そんなこんなの「助け合う」も、なるべく混乱なきよう治める役割の者がでてきて、社会が出来上がる。
そして社会を治める役割を奪い合う争いが起きたり、社会どうしが争う戦争がおきたりする。
人命を奪い合う争いは、一方で科学技術を発展させることもあり、殺し合う戦争は競争と名をかえルールのもと推奨される。社会が複雑になると「法律」やら「制度」やら「道徳」やら「倫理」やら「人権」やらetcでシステム化される。

科学技術はどこまでも発展し続け人間の役割を奪いつづける。
役割を奪い続けるということは「助け合い」も阻害されるということだろう。
社会システムも複雑になり人間本位からシステム本位となる。
人間そのものが置き去りになり、なんのためのシステムか見えなくなってくる。

いつしか「科学の発展」や「社会システム」が大切で上位におかれ、「助け合い」は二の次として希薄になる。「助け合い」をしなくても「科学」が代行してくれ、「システム」が代用してくれる。
人間になった根源のDNAが動かす「助け合い」をしようとしても、科学やシステム前提の「意味」とか、その「価値」が語られてしまう。
ボランティアなどしようものなら、「科学」至上、「システム」絶対と思い込む多数から、何か企みがあるのではないかなどと勘ぐられたり、意味を問われたりする。
また「科学至上」「システム絶対」という社会から、むしろ「助け合い」が異端視され、「助け合い」をしてしまう自らもそうした批判を気にするようになる。
たとえ「生きづらさ」を感じていようと、科学至上とシステム絶対は教育によって植え付けられてしまった。

それでも「助け合い」は人間であることの根源なのだ。
ネアンデルタールのように滅びることなく生き残り「人間」になった本質なのだろう。
このDNAを覆い隠すことはできない。だって人間だもの。
そしてこの人間性が希薄になり「生きづらく」なりつつある今だからこそ、人間の根源である「助け合う」を希求するのではないか?

ボクがフォローしているnoteで高橋恵子さんという介護士でありマンガ家という方がみえる。
ボクだけでなく彼女のフォローしている方も多く、多くのフォロワーさんが彼女のnoteからは感銘をうけているようだ。
マンガのタッチが魅力的ということもあるけど、なにより介護現場でのエピソードに惹かれる。
介護というと「助ける」というイメージもあるが、彼女のマンガからは「助け合う」という双方向の人間であることの共同作業が感じられる。描かれるのは、なにげなくさりげないことかもしれないが、人間の根源である「助け合う」に触れて共感している自分を感じる。
損得でなく、意味や価値でなく、人間だからやらずにいられない「助け合う」を誰もが発揮できることができたなら、人間本来の生として「生きやすい」世界になる気がしている。
「助け合う」が素のままで出来る環境が「生きやすい」世界かもしれない。


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