大人になるということ

大人になるということをよく考える。
辛かったあの日の私を理解できるのは私だけ、のはずだったのに、あのとき親や教師にかけられたちっとも効かない言葉を今過去の自分にかけてしまいそうで、時々混乱する。

これが出来ないなら私ではない。
これが叶えられないなら私に価値は無い。
かつての私はまともな人生、もっと言うのなら他人以上の人生を求めていた。
私は自分のことを、他人を超えて然るべきな人間であると恥ずかしげもなく思っていたのだ。そうして自分の首を締め、その苦しさに悶える日々だった。

そんな狭過ぎる視野を、18歳になってようやく、自分の手で少しずつこじ開けることができそうでわくわくしている。
誰と比べるまでもなく、私が私として生きているだけでとっくに満たされているこの器を、尊ぶべき自分だとある日突然思えてしまったのだ。

ダッセェと思っていた生き方も、絶対に譲れなかった自分も、無かったことにした訳ではないけれど。
人生を程よく都合よく楽しめるように視点が変わっていっている。
10代特有の鋭さ、のように扱われるものが自分から取れていって、まるくまるくなっていることを自覚する。

苦いものをやがて美味しいと感じるように。
手に持つ500円玉がいつか軽くなるように。
格好悪いと思っていたものの良さにある日気がづくように。
あのときの先生の話の意味がわかるように。
昔の自分を理解できなくなることや違う考えを持つことは自分への裏切りではなく、不変のものなど無い世界での日常風景であり、また世界を優しく紐解く方法なのかもしれない。

一秒後に揺らぐ確信も、明日には絶たれる希望も、全ては若さ故の過ちなどではなく、極めて純度の高い自分への愛なのだと思う。
そしてそれは大人になった途端に失うアイデンティティではない。いつか孤独ごと抱きしめ合おうと思える誰かと、何かと、言葉を交わすための小さな布石だと思うのだ。

私は忘れないでいたい。
いつか変わっていく、薄れていく。その真っ最中だからこそ、今ある感情のひとつひとつが愛おしく、光ある未来に向かっているという確信をこの手で紡いでいける理由になっているのだということを。
大人と子どもの間のちょうど合わないピントのまま、ぼやけた世界を歩いた日のことを。

先日誕生日を迎えました。祝ってくださった皆様有難うございました。
前々からのしつこ過ぎる私のアピールもあり、今回間違いなく人生で一番多くの方々に祝っていただきました。本当に嬉しく思います。
今日こそは、を重ねてきた4年間が、ようやく糧になったと胸を張って言えるような1年にしたいと思います。

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