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『晩春』に見る諦念――我々は選択の自由をいつどこで放棄するのか?

 前便の本で印象的だったのがRobert E. Lane” The Loss of Happiness in Market Democracies”からの
「人生を左右する選択の機会が多すぎる。……結果的に重荷を背負い込むという意識がなく‥‥‥慣行による束縛がなくなった。つまり、あてがわれたアイデンティティを受け入れるのではなくアイデンティティみいだす。あるいは、作り出すのが仕事になった」という引用だった。
 
 たとえば、性に関しても経口避妊薬の発明、性革命による結婚の自由化、性的少数者の承認など基本的に、性愛の選択肢を増やしてきた歴史といってよいだろう。

 過去には生物学的な性によって性自認や性的指向など固定的で宿命とされたことが自分で選択し、デザインするようになったとさえいえる。「性」すら多様な選択肢に開かれ、一つ一つ自分で確認し、選び取らなければならない社会になってきている。これに歓迎する一方、徒労を覚える人もいるだろう。
 
 先日、久しぶりに『晩春』を見直したが、婚期を迎えたヒロインの原節子もその父親の笠智衆もためらいはあるものの、最後には自分の宿命を受け入れる。原節子はお嫁に行き、笠智衆は老いるのだ。映画の設定では父は56歳、原は27歳。なんと父は小泉今日子や斎藤由貴より1歳下だ。
 京都で父娘で旅行に行って、父が娘に諭すシーンがある。

「結婚が最初から幸せであるとするのが正しくないのだ、幸せになるに  は1年、10年、もっとかかるかもしれない。お前のお母さんだって最初から幸せだったわけじゃない。台所の隅で泣いている姿を何度も見たことがある。結婚というのは若い2人が新しい人生を切り開き、幸せを築いていくものなんだ、それが人間生活の歴史の順序なんだ。」
 
 近代はこのような「諦念」をひたすら放逐しようとしてきた。その結果、現代では無限の選択の罠にはまって曖昧な私に困惑している。
 
 人間は有限なのでどこかで諦念しなくてはならないはずだ。でもどこで?という常識が消去し、それすら個々に任されている面倒な時代に入ってきている。

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