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「涙」を持ち上げる報道が好きになれない

オリンピック男子サッカーの3位決定戦を見た。
私は某Jリーグクラブを応援していて、代表戦はそこまで真剣に見ていなかったけれど、いちサッカーファンとしてゆるく応援していた。ゆるく、とはいえ、やっぱり応援しているチームには勝ってほしいし、メダルを目指して頑張っている選手の姿を見ていると、自然と思い入れもできてしまう。だから、準決勝と3位決定戦での敗戦はとても悔しかった。

3位決定戦のメキシコ戦の試合終了後、久保建英選手がピッチに倒れこみ、悔し涙を流すところが延々と放送されていた。翌日の新聞の見出しや、TVの視聴者からのメッセージでも、「久保選手の涙」がやたらと取り上げられていた。

それってどうなんだろう、と思う。

普段なかなか感情を表に出さない久保選手の涙が絵になるのはわかる。だけど、悔しくて泣いている人を見せ物にしているみたいで、私はなんだか好きになれない。

ゆるく応援している私ですら悔しくて、他の競技でのメダル獲得を素直に喜べないくらいなのだから、戦っていた選手たちはそれこそ死ぬほど悔しいだろうと思う。それをこらえきれずに泣いている姿を、美しいもののようにやたら取り上げるのは、選手の思いに寄り添ったやり方だとは思えない。見ている方としてもいたたまれない気持ちになってしまう。

スポーツの中継では、選手でも観客でも、泣いている姿はカメラに抜かれやすい。嬉しさにしても悔しさにしても、感情が高まっている瞬間だから映したいのはわかるけど、もうちょっと悔しい思いをしている選手の事を思いやった、武士の情けみたいな美学は無いのかな、と思ってしまう。(嬉し涙は存分に映して良いと思うけど)


そもそも「泣ける○○」とか「涙の○○」みたいな謳い文句が好きじゃないのだ。泣けることってそんなに大事なのだろうか?私も小説や映画やスポーツを見て涙が出てしまうことはあるけれど、そういう言葉で括られてしまうと、その作品から受け取った、様々な感情が、急に薄っぺらいものに置き換わってしまったように感じる。泣くために見ていたわけじゃないんだけどなぁ、と思う。

感じ方は人それぞれだから、悔し泣きする選手に感動する人がいてもいいと思うけど、涙をやたら持ち上げる報道のしかたは好きになれない。同じ気持ちの方はいませんか?

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