ハラリ20190207

どうプロダクトするか?

ユヴァル・ノア・ハラリの最新作

『21 Lessons for the 21st Century』英語版の要約‘The philosophical car’ P56~61

本日のタイトルは‘哲学者の自動車’です。

筆者特有の、トリッキーなタイトルが今回も来ました。

カントの車!?

シューマッハの車!?

って何でしょうか?

自動運転自動車に思いを寄せる際に、この疑問を念頭に読んで頂けますと。今日のコンテンツは理解して頂きやすくなるかもしれません。

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人々は、アルゴリズムが私たちに、重要な決定を下すことは決してできないと思っているに違いない。なぜなら、重要な決定はふつう、倫理の要素を含んでいて、アルゴリズムは倫理学を理解していないからである。アルゴリズが、倫理学において、一般的な人間を打ち負かすことができないであろうと推測する根拠はない。すでに今日、スマートフォンや自動運転車両のようなデバイスは、人間が独占してきた決定を行っている。それらは、1,000年のあいだ人間を苦しめてきた倫理上の問題をも、取り扱い始めている。

トロッコ問題というのがある。

例えば、ボール遊びしている二人の子供が、自動運転自動車の前にジャンプしてきたとする。

光学計算に基づき、車を運転しているアルゴリズは、二人の子供をひくのを避けるための、ただ一つの方法が反対車線にそれることだと結論を出す。やってきているトラックに衝突するリスクをとりながら。

人間だったら、危機に瀕して、哲学的見地を忘れ、感情に従うであろう。

残念なことに。数100万年前にアフリカのサバンナで生き残り、再生産する為に適していたことは、21世紀の道路上で、責任ある行動をとるのに必要なことではない。その証拠に。取り乱し、怒り、心配する人間の運転手が、交通事故で毎年100万人以上の人を殺している。心理学者、識者、聖職者をそれらの運転手に倫理を伝えるように差し伸べることはできるが。道路上では、感情とサバンナの本能が優位に立ってしまうであろう。歴史上で最も優れたドライバーとして名高い、シューマッハならば、レース中に哲学について考えられるであろうが。私たちのほとんどはシューマッハではない。

もしも、イマヌエル・カントやジョン・スチュアート・ミルにコードを書くことを教えたならば。

彼らは、自動運転自動車を精密にプログラムできるであろう。そして、自動車は彼らの意図にしっかりと従うに違いない。実際のところ、すべての自動車は、シューマッハやイマヌエル・カントによって運転されるのである。

自動運転自動車をデザインする時、トヨタやテスラは、倫理と哲学の問題を、実際のエンジニアの問題に変換するのであろう。

トヨタやテスラは、マーケットに委ねる行動をとる。二種類の自動運転自動車を生産するのである。トヨタ利他主義車、トヨタ自己愛車、といったように。緊急時に、トヨタ利他主義車は、大いなる善の為に所有者を犠牲にする。トヨタ自己愛車は、取りうる限りの力で所有者を守る。たとえそれが二人の子供を殺すこととなっても。

顧客は、自分のお気に入りの哲学的見地に最も合う自動車を買うことができる。

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