被り物をしたフィギュアスケ―ター

ユバル・ノラ・ハラリ ‘ #21世紀における21の提言 (英語版の日本語要約) ’

第14の提言 #世俗化  P203~209 (サピエンス全史の著者が、宗教を語る。)

(結論)

#ヒジャブ  (イスラーム教徒の女性が頭や身体を覆う布)を脱ぎ去る必要はなく、世界全体のことを思うことが、宗教の世俗化である。

(本題)

私たち生身の血の通った人間は、することにも、しないことに対しても、十分な責任を持たなければならない。

もしも、世界が苦難で満ちていたら、解決策を探るのが、私たちの責任である。

世俗化した人々は、 #伝染病を予防し#空腹の人に食べ物を与え

#世界中の人々に平和をもたらす といったような科学の功績に誇りを持っている。

それらの功績は、人間が知識と憐れみを育んできたためであるが、これらをもって、神の擁護者を信じる必要性はない。

しかしながら、世俗化した人々は、 #ジェノサイド  から #環境破壊  のような、現代という時代の罪や失敗に対して、十分な責任を持つ必要性がある。

#奇跡を祈るかわりに私たちが何をできるか問う必要がある 。 」

このことが、世俗化社会の主な価値である。

絶対的に世俗的という価値観はない。

#ユダヤ教 は、真実に価値を見出し、 #キリスト教 は、憐れみを尊び、

#イスラム教 は、平等に重きを置き、 #ヒンドゥー教 は、責任を大切にする。

たとえ、世俗的教えが宗教的教義とぶつかり合ったとしても、世俗化社会は、それらの共通点を学び、敬虔な#ユダヤ教徒 、 #キリスト教徒  、 #イスラム教徒  、 #ヒンドゥー教徒  を受け入れる。

後者は、譲歩すべきである。

例えば、世俗的な社会に受け入れられるためには、 

#ユダヤ正統主義者  は、 #非ユダヤ教徒  を平等に扱うのがよい。 

#キリスト教徒  は、文化遺産を燃やすのを止めた方がいい。 

#イスラム教徒  は、経験の自由を敬うべきである。 

#ヒンドゥー教徒  は、カーストに基づいた差別を止めるべきである。

対照的に、敬虔な人々は神を否定し、伝統的な儀礼を止める必要はない。

世俗化社会は、着るものの好みや儀式というよりも、むしろ、行動の基準で、人々を判断する。

個人は風変わりな宗教的 #ドレスコード  を選べるし、奇妙な宗教的儀式を行えるが、

それでいて、世俗化された基準に従う。

そこには、ちょっとした #ユダヤの科学者  、 #キリスト教の環境主義者  、 

#イスラムのフェミニスト  、 #ヒンドゥー教の人権活動家  がいる。

たとえ彼らが #科学的真実  、 #憐れみ#平等  や、 #自由  に対して勝っていたとしても、

彼らは世俗化社会の一員であり、 #ヒジャブ  を脱ぎ捨てるように要求しない。

また、世俗化教育は、「神の存在を信じないように」、「どんな宗教的儀式にも参加しないように」、

子供たちに教える否定的な教化ではない。

むしろ、世俗化教育は、子供たちに以下のように教える。

「信条と真実を区別すること。」 

「すべての悩める存在に憐れみを持つこと。」

「英知と地球上の息とし生けるものを賛美すること。」 

「知らないことを恐れずに自由に考えること。」

「行動と世界全体に責任を持つこと。」

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