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小説「M&A日和」第10章

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第10章 DDレポート

第127話 DDのフォロー

 京都から戻り、月曜日に出社した真奈美は、さっそく山田のデスクに赴いた。

「先週はお疲れ様でした」
「うん、酒井さんもお疲れ様」
「この後なんですが……先週のDDで依頼した追加資料の開示をフォローすることと、事業本部や本社チームの質問をまとめて宮津精密に提示する、ということですよね」

 真奈美が元気よく尋ねるのを聞いて、山田は笑顔で応えた。

「うん。じゃあ、まずはそれをお願いしよう。あと、みんなにDDレポートを準備するように伝えてもらえますか?サンプルはメールで送っておくから」

 山田は過去のプロジェクトにおけるレポートとそのプロジェクトのパスワードを真奈美に共有した。  

「金曜日にはDDレポート報告会をしよう。その場で、契約交渉方針も話し合えるといいな。段取りお願いしますね」
「はい、わかりました」

 そこからは忙しすぎて時間がどんどん過ぎていった。

 まず、VDRに新規開示資料があがっていないか確認した。
 すでに、ビジネス関係の追加資料開示と小巻が依頼した重要契約の開示が始まっていた。

 量も多いし内容まではしっかりと読み込む時間はないが、とにかく全体にざっと目を通し開示状況を把握。
 続いて、現地で要求した追加資料の一覧表に対し、追加開示ありと未開示がわかるようにチェックを入れてDDメンバーにメール。
 あわせて追加質問の有無を連絡するよう伝えた。

 そしてFAにもメール。

「――あー、肩凝るわ」

 でも、まだまだだ。今朝山田からもらった過去DDレポートには目も通せていない。
 時計を見るととっくに昼休みの時間が終わりかけている。

(……あれ?私、お昼まだたべてない!)

 真奈美は慌てて席を立った。彼女にとって、たとえ遅くなってもお昼を抜くという選択肢はありえないようだった。

第128話 提出期限

 真奈美は、遅めの昼休みを終えると、山田からもらったDDレポートのサンプルに目を通し始めた。

『このレポートは専門家のフルレポートだからボリュームが多いけど、みんなにはエグサマくらいの内容でいいからと伝えておいて』

 とのコメントが添えられている。

(エグサマ……Executive Summaryだったわね。久々に横文字短縮だ)

 真奈美は先月IMをもらったときに初めて聞いたエグサマという略語に懐かしさを覚えて微笑んだが、あまり悠長にしている場合ではない。

 早速レポートに目を通し始めた。

 財務DD、税務DD、法務DD、ビジネスDD……

 どれもエグサマだけで10ページは超えている。フルレポート全文を読むと、それぞれ100ページ前後。

(これは全部読んでいたら週が明けちゃうわね。とにかく早めにDDメンバーに送りだしてからゆっくり勉強しようっと)

 真奈美はメールでDDレポート作成依頼を送り出すことにした。

(期限は……今日が5月19日の月曜日だから……金曜日には報告会だから……)

 真奈美は、メール本文に『提出期限:5月21日(水)17時』と記入しメールを送り出した。

(提出期限決めても守らない部門が多いから、一日くらい余裕持った期限で要求しないとね)

 ……経営管理時代の褒められない経験値が活かされていた。

第129話 QAシート

 火曜日になると、各部門から質問や追加資料の要求が舞い込んでくるようになったので、どのように質問したらいいか山田に相談した。

「質問はQAシートを介してやりとりするんだよ」

 QAシートとはエクセルで作った質問と回答を記載する表である。
 山田はちょうど別件でDDしているQAシートがあるということで、それを見せながら説明した。

「左側から、質問日付、そして買い手の質問(Q)、対応資料番号。その右に回答状況。回答日付、回答内容、参照資料番号」
「なるほど、では私たちは、この左半分を埋めて送ればいいということですね」
「そういうこと」

 真奈美は表を見ながら質問した。

「対応資料番号というのはなんですか?」
「どの資料の何ページに対する質問かわかるように、資料番号とページ数を記入するんだ。資料番号は、VDRのファイル名に番号が記載されているから、それを書けばいいよ」
「なるほど、確かにわかりやすいですね」
「別添資料や図などを使って質問がしたければ、別Sheetにそれを張ってくれてもいいよ」
「わかりました。このフォーマットいただいても良いですか?」
「いいけど、通常は売り手のFAが用意するはずだから、まずは大津証券に提示するように言ってみたらどうかな」

 真奈美は大津証券にメールでQAシート開示要請を送ると、間もなく山田が見せたものとそっくりのフォーマットが送られてきた。

「ようし、いっちょやりますか」

 真奈美は、各部門からバラバラと届いている追加質問をQAシートに統合していった。

第130話 提出期限延長

 水曜日になっても、まだまだ質問や追加資料の要求が続き、真奈美も順次大津証券に要請を続けていた。

 そのおかげもあって、水曜日夕方には資料開示はかなり進んできており、現地DDで懸念されていた契約開示や運転資本詳細開示についてもほぼ確認をすることができていた。

 一方で、予想通りというか、DDレポートの期限が目の前に迫ってきているが、一向に提出される気配が見えない。

(……やっぱり、電話で要求して回るしかないのかしらね……)

 真奈美は、渋々佐々木に電話した。

「やってる、やってるけど。簡単じゃないよ。今日の夕方?無理無理」
「わかりました。いつ頃になりそうでしょうか」
「明日の午前中まで目をつぶってよ。今晩もみんな頑張ると思うからさ」
「……わかりました。お忙しいところすいません。それでは明日午前でよろしくおねがいします」

 厳しいと分かりつつ設定した期限、それを催促しなければいけない。このあたりは経営管理時代とやっていることは全く変わらない。

「あ、そうだ。経営管理のところは、酒井さんレポートドラフトしてくれているよね?」
「え?現地で質問はしましたけど……さすがにそれは事業本部で作ってもらわないと」
「もちろん責任はこっちがとるけど、ドラフト手伝ってよ。でないと、明日午前間に合わないかもよ」

(ちぇっ……そう来たか)

「はいはい、わかりました。ドラフトはしますけど、中身はしっかりそちらでチェックしてくださいね」

 こうして、真奈美もDDレポートの一端を担うこととなった。

第131話 しっかーく

 木曜日。真奈美は朝から法務部に来ていた。

「明日のDDレポート報告会で、契約交渉方針も話し合いたいって言われてるんだけど、どんな議題にしたらいいのかわかる?」

 聞かれた小巻は瞳を鋭く光らせた。

「教えてあげてもいいけど。厳しいわよ」
「ちょっと……優しく教えてよ」
「仕方ないな……じゃ、かわりにDDレポートの期限は今晩まで待ってね」
「もう……仕方ないなぁ」

 真奈美はほっぺたを膨らませた。
 事業本部はまだしも、小巻まで期限守ってくれないなんて。と文句も言おうと思っていたのに……

(こんな形で先に切り出されるとは……こんなところで無駄に交渉力使わないでよね)

 こうして真奈美は小巻の教えを乞うこととなった。

「まず、どんな契約を結ぶ必要があると思う?」
「それは勉強してきたよ。今回は会社への増資だから、株式引受契約。それと株主間契約も必要ね。あとは、業務提携契約。あってる?」
「おお!すごい。よくわかってるじゃん。正解よ」

 小巻は嬉しそうに答えた。真奈美も調子に乗って笑顔で受ける。

「じゃあ、それぞれの略称は?」
「え?略称?」
「そう。だって、面倒くさいでしょ?毎回、株式引受契約、株式引受契約っていうの」
「まあ、たしかに……先生、わかりません!」
「しっかーく!おかえりください」
「え!?いきなり失格?せめてヒントを……」

 こうして、契約の内容に入る前から前途多難な真奈美だった。

第132話 契約の略称・パート1

「ヒント!株式引受契約はShare Subscription Agreementっていうのよ」

(……なるほど。そういえばExecutive Summaryはエグサマだったから……)

「シェアサブ……とか?」

 おそるおそる言ってみると、途端に小巻が大笑いしだした。
 法務部の面々が二人に視線を向ける。

「ちょ、ちょっと、小巻。そんなに笑わないでよ。間違えたかもしれないけど……」

 真奈美は恥ずかしくなりうつむいた。

「ごめんごめん。初めて聞いたわ。シェアサブ」
「もう……答えは?」
「答えは、ふつうにSSA(エスエスエー)でいいのよ」
「何よそれ。考えすぎちゃったじゃない」

 小巻は予想外の面白い回答ですっかり機嫌を良くしたようだ。

「じゃあ、株主間契約は?」
「確か、Shareholders AgreementだからSA?」
「惜しい。SAだといろいろ紛らわしいので、holdersのHも入れて、SHA(エスエッチエー)っていうんだよ」
「なるほど、勉強になります」

 小巻はイジワルそうに最後の質問を投げかけた。

「じゃあ、業務提携契約の略称は?」
「う……それは、英語だと、Business Collaboration Agreement?」
「そうね。ほかにもBusiness Alliance Agreement、Business Partnership Agreementとか色々使われるわね」
「……降参です。略称分かりません。教えてください」

 小巻は勝ち誇った顔で応えた。

「実は、明確な略称は無いわ。BCAとかBAAとかいう人もいるかもしれないけど、なんかしっくりこないのよね。だから、業務提携契約は業務提携契約。もしくはビジネス契約とかかな」
「何よ……ひねくれ問題じゃん」
「事実だもん。じゃ、全問不正解の真奈美ちゃんは小巻さんにワインを奢ること。わかったわね?」

 したり顔の小巻。
 真奈美のほっぺたは風船の如く膨れ上がった。

第133話 契約の略称・パート2

「ちなみに、株式引受契約の意味は分かっている?」
「えっと、株式を買うんじゃなくて、宮津精密が発行する新株株式を引き受けるから引受契約?」
「お、やるじゃん。正解。じゃあ、もしこれが株式を買う場合は?」
「株式譲渡契約ね」
「そう。株式売買契約ともいうの。英語ではStock Purchase Agreement」
「じゃあ、SPA?」
「正解!すごいじゃん」

 小巻は真奈美の頭をなでなでした。
 真奈美はほっとして笑顔に戻った。
 まさに、飴と鞭作戦。小巻の手のひらで転がされているのだが本人は全く気づいていないようだ。

「それで、これらの契約はまとめて締結する必要があるんだけど、なぜだかわかる?」
「うーん、やっぱりどれも欠けちゃいけない契約だからかな」
「そうね。例えばSSAを先に締結してSHA交渉で揉めたら大変だから、できるだけ締結は一緒にした方がいいわ。あと、効力発生タイミングは絶対に同時にしなければいけないの。契約の中でも規定することになるわ」
「じゃあ、今回はこの3つの契約を同時締結、同時効力発生しなきゃいけないってことね」
「その通り」

 小巻は人差し指を立てて、先生のような口調で答えた。

「そして、これらはMOUと異なり、法的にも拘束力を持たせる契約になるので、最終契約っていうの。英語ではDefinitive Agreement。DA(ディーエー)っていうのよ。Do you understand?」
「先生。あざっす。よくわかりました」

(とはいえ、SHAは無理やり3文字にしたのに、ここは頭文字2文字で行くのね……やっぱこの世界、よくわからんルールが多すぎるわ)

 こうして二人は、やっと本題である契約の中身の話に移るのであった。

第134話 DD報告会開始

 小巻と相談して契約交渉方針を組み立てた真奈美は、夜に山田とも議論を重ね準備を完了した。
 DDレポートはなんとか夜にはすべて提出を受けることができた。

(ベストは尽くしたわね……)

 ――こうして、運命の金曜日が訪れた。
 テレビ会議の向こうには、片岡本部長や事業本部のメンバーがそろっている。

 相変わらず、山田は真奈美に司会を任せる気満々で席にどっかと座っている。
 真奈美も違和感なく司会を始めた。

「みなさまDDへのご協力ありがとうございました。本日はそれぞれのチームからDD結果を報告していただき、そのうえで今後の契約の交渉方針を議論させていただきたいと思います」

 そして、プロジェクターで映されている事業本部画面に向かって、

「片岡本部長。冒頭一言いただけますでしょうか」

 マイクを向けられた片岡は笑顔で応えた。

「みんな、DDお疲れさまでした。DDを通じて宮津精密さんのことをよく理解できたと思う。良い面、悪い面ともに遠慮せずに報告してほしい。忖度はしなくていいからな。肌で感じた感想をそのまま聞かせてくれ」

 こうしてDDレポート報告が始まった。

 まずは小巻から、法務DDの結果を報告。
 会社設立関係、許認可、コンプライアンスや訴訟など問題は見当たらず。
 各種契約も概ね開示され、偶発債務の懸念がある異常な契約は見当たらない。

 次に、四谷の財務税務DD報告。
 財務諸表、その内訳、とりわけ棚卸資産や売掛金の明細も確認でき概ね健全。

 そして、本論となるビジネスDDの報告へと移っていった。

第135話 ビジネスDD報告

 ビジネスDDについては佐々木企画部長が代表して報告した。

 ビジネスの主要顧客とのビジネス状況、バリューチェーン、主要機種のコスト構造、経営管理などの現状の事業状況を説明し、最後に事業計画の中身を説明していった。

「うむ。よくわかった。やっぱりうちと相性がいいよな」

片岡の機嫌は良さそうだ。

「はい。やはり技術力が良いだけでなく、経営としてもしっかりしています。パートナーとして申し分はありません」
「そうだな。となれば……問題は将来面か」

片岡は手元のレポートをめくり、報告内容を思い返しながら続けた。

「将来の事業拡大については希望的な内容に留まるということだな」
「はい。主要顧客から将来発注予想などが提示されていないかなど、多方面から攻めてみましたが、具体的な根拠は出てきませんでした」
「まあ……そうだろうな。これから投資して量産技術を確立しなければいけない段階だ。顧客と具体的な商談はまだ先だろう」

 片岡は残念ながらも想定通りでやむを得ないという表情で苦笑した。

 真奈美は、事業のことは事業本部に任せようと思い、黙って聞いていた。
 隣に目をやると、山田も目を閉じて沈黙し熟考しているようだった。

(これって……本当に熟考なのかしら?)

 そうこうしているうちに、話題はシナジーへと移っていった。

「シナジーについてはいくつか具体的な協業策を計画できそうです。事業部から説明させていただきます」

 そして、事業部のメンバーがマイクに向かって協業内容について説明をはじめた。

第136話 シナジー協業策

 シナジーを生み出す協業策は合計4つ。
 これによって事業本部の業績を底上げできそうである。
 それを数値にしたシナジーP/Lについて、事業部のメンバーが説明した。

「よくわかった。ありがとう。コスト面の効果は具体的に説明できそうだな。売り上げアップについては説明できるか?」
「今の段階では何とも。我々も営業先と新規プロジェクトを立ち上げていく必要がありますが、やはり先の話なので実際に営業先と協議するには早すぎます」
「そうだろうな……」

 将来計画なのだから根拠を固めようにも限界がある。
 とはいえ、片岡の頭には鈴木部長から提示された条件がちらついていた。

『最終契約までにシナジー効果について具体的に妥当性を説明すること。これができないときは本契約の起案は認めない』

 もちろん直接指示された真奈美を筆頭に、DDメンバー全員の頭の中にこびりついている。

 会議の場が静まり返った。
 しばらく続いた沈黙を破ったのは山田だった。

「鈴木部長がどの程度のレベルの根拠を求めているかはわかりませんが、これ以上の根拠を見つけ出すことが難しいのであれば、一旦はこの内容で説明してみましょう」
「そうだな。そうしてもらえると助かる」
「はい。その間、事業本部の皆様には、この4つのテーマを実現するための事業提携契約をしっかりとまとめていただけますか」
「わかった。それは事業本部に任せてもらおう」

 こうして、鈴木への説明を山田が預かり、事業提携契約を事業本部が担うこととなった。

第137話 交渉のコンセプト

「DD報告は以上です。片岡本部長、総評をお願いできますでしょうか」

 真奈美は報告会のまとめを片岡に託した。

「うん、調査ありがとう。本心として、この会社に出資してしっかりと組んでいきたいと思えるようになった。あとは鈴木さんを説得できるか次第だな。そこは君たちに任せたよ」

 最後は片岡本部長の苦笑いでDD報告は完了した。

 真奈美は気を取り直して次の議題に移った。

「それでは、続きまして、宮津精密側との契約交渉方針の確認をさせていただきます」

 真奈美はTV会議の画面を『交渉方針(案)』という資料に切り替えた。
 
「今回は10%の出資です。それほど大きな比率ではないので、なんでもかんでも権利を取りに行くのではなく、焦点を絞る必要があります。こちらが、そのコンセプト案です」

 真奈美はポインターを、資料の上段にかかれた『コンセプト:協業維持・希薄化防止・EXIT』というキーワードにあてた。

「最優先は協業による成果を実現することですので、その協業実現に向けた座組の維持が重要です」

 これは事業本部ももちろん異論はない。一方で、

「それとあわせて、出資の価値を維持する必要もあり、希薄化防止とEXITも考える必要があります」

 真奈美は、おそらく事業本部側がこの用語を理解していないだろうと察していた。

第138話 プリエンプティブ

「希薄化という言葉はあまり馴染みがないかもしれませんので説明させていただきます」

 真奈美は、自分もこれまで馴染みがなかった希薄化について、昨日山田に根掘り葉掘り質問して聞きだした内容を説明した。

 今回、宮津精密に10%の出資を行ったとして、その後しばらくして他の投資家が宮津精密に更なる増資をしたらどうなるか。
 当然、白馬機工の出資比率は減少する。これを『希薄化』という。

「出資の価値を維持するという面からは、出資比率が薄まることがないように手を打つ必要があります」
「具体的にはどのようなリスクと対策が考えられますか?」
「はい。増資の際には、まず既存株主である当社に出資する権利を当てることを要求します」

 これをプリエンプティブ(Pre-emptive right:先買優先権)という。

「もちろん、この権利を使う場合は追加増資の資金投入が必要ではありますが、出資比率を維持する手段を確保できます」
「追加資金がいるのか……」
「はい。ですから、そのような事態になったときに、そのときの協業状況に応じて、資金拠出をして議決権を維持すべきか、資金拠出を回避し希薄化を受け入れるか、を判断することになります」

 片岡は出資については素人だが技術者であり、定量的な論理への理解度は高い。出資比率と資金拠出に関して数値的なつながりを見いだせたのであろう。ゆっくりとうなづいた。

「わかった。宮津精密に追加の増資はするなというのは無理があるだろう。資金拠出で希薄化を抑えられる手段が手に入るならそれで良しとしよう」
「ありがとうございます」

 真奈美は安心してさらに説明を進めていった。

第139話 EXIT

「次はEXITです。これから出資して一緒に盛り上げようというときに、出資を引き揚げるときの話をするのは心苦しいのですが……」

 EXITとは、出資から撤退すること。
 ファンドは一定期間後に出資解消し『リターン(投資に対する収益)』を確保する必要がある。

 一方、事業会社の場合は、資本だけでなく業務提携(所謂、資本業務提携)が目的となることが多いが、それでもEXITを定めなければいけないのか?という声も聞こえてきそうだが……

「将来、協業の意義が変わるときは必ず来ますので、最初の段階できちんと話し合っておくことが大事です」

 これを聞いて、片岡は眉をひそめて考え込んだ。

(無理もないわ。昨日、私も同じように感じたもの……)

 『これから結婚しましょう』と告白するとともに『別れるときは笑顔で別れましょう』なんて普通言わないでしょう?という感覚になってしまう。

 そんな真奈美の反論に対し、昨日、山田はこんな事例を説明した。

『出資は合併ではないから、結婚みたいに完全に一つの家庭になるわけではないしね。それと、別れ話を切り出す役目は私たちではなく後輩たちかもしれない。だから、後輩が困らないためにも、EXIT手続きを定めておくことは重要なんだよね』

 真奈美は慎重に言葉を選びつつ、山田に聞いた内容を片岡に告げた。
 片岡は目をつぶったまま、腕を組んだまま答えた。

「わかった。必要性は理解する。具体的にはどういう規定になりますか?」

 真奈美は、片岡が激高せずに聞いてくれたため少しほっとしながら、説明を続けた。

「通常、非上場会社は株式の譲渡制限を規定することが多いのですが、今回は譲渡制限をなくすことを提案します」
「なるほど。EXITしたくなったら誰かに譲渡できるということだね」
「はい。もちろん、売却先を見つけることは簡単ではありませんが、八方はふさがれずに逃げ道を残すという意味合いになります」

 片岡はしぶしぶ頷いた。

第140話 タグとドラッグ

「あと、森社長の持ち株が誰かに売却されたら困りますよね?」

 真奈美は、唐突にプロジェクターに映る事業本部の会場を伺いながら質問した。

「そりゃ困るだろ。森社長あっての宮津精密なんだ」

 片岡は両目をかっと開き少しむっとした声で答えた。

「はい。ですので、そのような事態になった場合は、当社の保有株式も一緒に売ってもらい出資を解消するという権利を要求しようと思います。タグアロング(Tag Along Right)といいます」
「なるほど。売るのをやめてくれとは言えないから、抜けるときは一緒に抜けようということだな」
「はい。その通りです。でも、逆の立場の権利も要求されることになります」

 真奈美は、ドラッグアロング(Drag Along Right)について簡単に説明した。

「森社長が売却する際、当社の株式も強制的に共同売却させることができる権利がドラッグです。今回はタグとドラッグをセットで提案したいと思います」
「うーん……それって、森社長が売却しやすくなって協業体制が壊れやすくなるという意味となる。ドラッグは受けないという方法はありますか?」

 この質問に対しては、山田が答えた。

「通常はタグとドラッグはセットで規定されることが多いです。交渉力次第で片方を押し付けることもあり得ますがアンフェアな要求をしたという印象を持たれる懸念があります」
「なるほど。確かに欲しいものだけを主張するのはアンフェアだし、それならこだわらない方がよいだろう。わかった。セットでの提案で進めることにしよう」

 こうして重要方針が議論され、残った『重要事項の取り決め方法』などはMA推進部と法務と相談して交渉することとなり、無事会議は終了した。

 TV会議を切ると、山田が真奈美をねぎらった。

「お疲れ様。出資がらみの複雑な仕組みもきちんと納得してもらえたようで良かったね」
「はい、昨日色々教えていただいたおかげです。ありがとうございました」

 真奈美はほっとして、急激に全身に疲れが下りてくるのを感じた。

第141話 嵐の前の……Part.9

「かんぱーい」
「かんぱーい」

 真奈美と小巻は白ワインのボトルを注文し乾杯した。

「おお、きたきた」
「素敵!」

 オイスターバーの牡蠣尽くしコース、牡蠣を主体とした前菜盛り合わせがやってきた。

「やっと牡蠣の時期が来たもんね」
「うん、食べよう。食べまくろう」

 その後も、生牡蠣、焼き牡蠣、天ぷら、酒蒸しと牡蠣料理が続いて出てくるが、いずれもいとも簡単に二人の口に入っていく。

「おいしすぎる……」
「しあわせ~」

 こうして牡蠣料理を満喫しながら、ふたりはDD報告を振り返っていた。

「真奈美、相手の気持ちをほぐしながら説明するの、うまいよね。私だったら理詰めで押し付けちゃうところだわ」
「え?そう?ありがと。なんか照れるな……まあ、経営管理のときの経験かな。事業本部は押し付けるだけじゃ協力してくれない人たちだもんね」

 二人は苦笑いした。

「よくがんばったね。うまくいってよかったよ。まあ、真奈美がSSAをシェアサブって言ったことは一生忘れないけどね」
「ちょ……早く忘れろ。もっと飲め」

 真奈美は小巻のグラス一杯にワインを注いだ。
 そして、牡蠣クリームパスタがやってくる。メニューを見ると、まだ締めの牡蠣ご飯も来る予定だ。

「和洋折衷どんとこい!ボトルもう一本」

 こうして、久々の東京での女子会は夜中まで続くのであった。

おまけ:ダイジェスト第10章:DDレポート

現地DDから戻った真奈美は、QA対応とDDレポート準備を取りまとめつつ、並行して契約交渉を準備
最終契約(DA)として締結する契約は、株式引受契約(SSA)と株主間契約(SHA)と、業務提携契約(これは事業本部に任せた)
小巻の協力を得て、SSAとSHAの交渉方針の案をまとめる。コンセプトは『協業維持・希薄化防止・EXIT』
DDレポート報告会では、意向表明時の上司(鈴木部長)から『シナジー効果について具体的に妥当性を説明すること』との指示を受けていたが、なかなか具体的な内容が描けないという課題が残った
その後、交渉方針についても相談。片岡本部長に合意を得て、ついに本格的な契約交渉に向かうことになった。

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