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戦時下における人生と青春ー加藤道夫『なよたけ』ー

※戦時下に執筆され、1946年に発表された加藤道夫『なよたけ』についてのメモです。

綾麻呂 さあ、文麻呂。時間だ。
文麻呂 なぜです、お父さん。まだです。

物語の始めを整理してみよう。主人公である石上文麻呂は、政敵に負けて都落ちする父親に二つのことを言われる。一つは「勉学に励み立派な学者」となれということ、もう一つは、文麻呂が夢中になっている「和歌」もほどほどにしろ、である。つまり父から与えられた課題は、政治の世界と芸術の世界とのバランスをとれ、ということだ。この段階では文麻呂にとってそれは観念的なレベルでの課題であり、どのように解決すれば良いかわからない。父親に反撥するのもその現れである。そこに友人の恋愛事件が勃発する。友の恋愛を応援する文麻呂は恋歌という「和歌」の世界に足を突っ込み始めてしまう。だがそこで判明するのは、その友の恋愛相手に、父を無実の罪で蹴落とした政敵がちょっかいを出しているという事実である。まさにここで、なよたけという人物の登場によって、「和歌」の世界と「政治」の世界とのバランスをとるという課題は、ずっとシンプルに、そして強靭な運命へと転化・昇華する。友の恋愛を応援する=「和歌」(芸術)の世界へと踏み出すことがそのまま「政治」の世界=政敵の不実さをさらけ出すことになるのだ。観念的な課題から行動へ。これは演劇の第一幕として見事な出だしだといえる(たとえばソフォクレス『オイディプス』において、国に疫病が蔓延している原因と、国王にかけられた個人的預言とが、同一であることが明らかになる一致の瞬間を想起させる)。文麻呂の課題は始終、政治と芸術との関係にある。

作品に作者の伝記的要素を投影したくなる欲望はある程度抑制されるべきではあるが、『なよたけ』における政治と芸術のバランスという課題は、戦地へと赴く作者である加藤道夫自身の問題そのものである。「僕が『なよたけ』を書いたのはさう云う精神の不安を抹殺しようとする気持ち、何か生きてゐたと云う証拠を書き遺して置こうと云う気持からだったやうである」と書くとき、それはたしかに三島由紀夫が評したように「青春の遺書」であったのだ。では「精神の不安を抹殺」とはどういうことだろうか。もちろん加藤道夫が当時没頭していた新演劇研究会の活動を断念することであろう。あるいはジャン・ジロドゥなどのフランス文学などに耽溺する自由の放棄のことであろう。だがそれは芸術を断念・放棄するということであり、政治と芸術との関係の妥協にすぎない。そういった芸術への悔恨・心残りを「抹殺」しなければいけないのだ。

「なよたけは夢ではありません! ……竹の里の伝説は滅んでも、なよたけの姿は決して滅びはしません! なよたけはこの竹の里を捨てて、今こそ僕のものになるのです!」 なよたけを説話・神話化し「竹の里の伝説」のなかに閉じこめようとする竹取爺に対して、文麻呂は敢然と挑戦する。そして「たった二人だけ。……あたし達だけが本當に生きている」世界へと突入するが、その完璧な瞬間はすぐに喪失・消失してしまう。なよたけの台詞通り、「何も彼もが一度にみんな起つてしまつた」のである。

「何か生きてゐたと云う証拠」と加藤道夫は書いていたが、それはすでに過去形であるのだ。「すでに・もう」「喪失・消失」したなよたけとの摩訶不思議な決定的な出会いを、文麻呂はオリジナルな物語として書き上げる。それは竹取物語という説話物語を、文麻呂という著名付きの個別的な竹取物語として生み出すことにほかならない。「いえ竹取物語はかうして生れたのです。そしてその作者は石ノ上ノ文麻呂と云う人です」そう「執拗に主張し続ける」ことで、文麻呂と加藤道夫とが重なり合う。

そして喪失・消失したものをロマン化するエネルギーは、文麻呂の「和歌」の世界だけではなく、「政治」の世界に影響を及ぼす。「萬葉を生んだ國土。……僕はこの國に生れたことを心の底からしあわせに思ってゐます」文麻呂は「和歌」によって國をロマン化・心情化することに成功した。これは政治の芸術化・心情化にほかならない。文麻呂にとっての課題であった「政治と芸術とのバランス」はここにおいて決定的な解決をみる。なよたけの喪失・消失を、そしてまたこの國をロマン化・心情化することで、世界があるがままに肯定されるのだ。「あるがまま」の世界に対立は存在しない。

美しい國に抱かれて東國における開墾に励む文麻呂。大東亜共栄圏を掲げている日本の一陣として南方の戦地へと通訳官として赴任する加藤道夫。彼らはともに政治と芸術との関係に妥協するわけではない。政治と芸術は一つにならなければいけない。さらにいえば、政治と芸術との関係は、戦争と人生との関係の投影である。だから「戦争と人生は一つとならねばならぬ」(亀井勝一郎)のだ。政治と芸術との、戦争と人生との関係に悩む「青春」はすでに去った。「まるで人が變つたやうに晴々とした顔付」の文麻呂を生み出した加藤道夫は、だからといって同じように精神が変容したかどうか。

『なよたけ』の展開は、急速であり飛躍だらけである。まさに生き急ぐドラマツルギーは、なにかしらの精神の変容をもたらさねば生きて行くことができない戦時下に生み出されたに相応しい。戯曲の一言目である「時間だ」という台詞は、青春という悩む時間を奪い去る、決定的かつ強迫的な響きを伴っている。『なよたけ』にはつねに「時間だ」という台詞が響いているから、急速であり飛躍だらけのドラマツルギーとなっているのである。そこには加藤道夫の精神の軌跡が生々しくさらけ出されている。

テキスト:加藤道夫「なよたけ」(青空文庫)
https://www.aozora.gr.jp/cards/001240/files/46361_25175.html

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