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ひりつく猫背は、触るとあたたかかった

これは人を語っているようで、ただの自分語りだ。
ただ伝えたいのは、4年前のあなたに今救われた人がいるということ。
そして、あなたはそれを知らなくていいということ。


昨年末、BTSさんに雷が落ちるような衝撃を受けてからというもの、昔の曲まで駆け足で聴いた。そこでわかったことは、彼らの歌を聴くということは、彼らの物語、ひいては生きてきた道を見つめることなのだということ。
けれど、時々なぜだか彼らの物語を見つめているはずなのに、自分の生きてきた道を見つめているような気持ちになる。

なかでも私は特にユンギさん、いやAugustDの曲を聴くとかさぶたが疼く。きっと数年前の私が聴いたら、心がぼろぼろになるまで泣いただろうな、と思う。そのぐらい、きっとユンギさんも経験したであろうあのひりひりとした痛みを私も感じずにはいられないのだ。

なぜ私がそう感じるのか?

私は5年ほど前のある日から強迫性障害になった。そう、ユンギさんも闘っていたであろう病。
ユンギさんがその病にどう蝕まれ、どう闘っていたのかは分からないけど、私はいわゆる“加害恐怖”というものと闘っていた。毎日名前も知らないテレビに映る人や街行く人に対して、私自身の思いとは別にどこからか悪魔の声(でも紛れもなく私の声)が「殺せ」とつぶやいてくるのだった。もちろん他人にそんな感情を抱いたことないし、実行に移そうとも思ったことなかった。だからこそ、こころの中で私ではない意思の声が私の声で叫ばれる時、経験したことのない恐怖に飲み込まれた。

私は一体誰なのだろう?
本当の私はこれを望んでいるのだろうか?
いつか“私”が“私”を飲み込み、誰かを傷つけてしまうのではないか?

恐怖は確実に私を蝕み、1人でいることも眠ることも外を歩くこともすべて怖くなってしまった。道行く他人が私のことを見ているのではなく、見知らぬ私が道行く他人を見ているようだった。いつか私がこの手で誰かを傷つけてしまうなら、せめて私が私のまま終わらせようとさえ思った。でも、それすら実行出来ない弱さを前に、自分の不甲斐なさを感じた。

そのとき私が感じた、出口のない恐怖、自分の中でうごめく見知らぬ闇、ひとの暖かさを真っ直ぐに受けとめられないほどの孤独。

もしかしたら、ユンギさんも似たようなことを感じたのだろうか?
私はAgustDの曲を聴くとき、そう思わずにはいられない。だからいつも聴くたびにこころが痛痒くなる。
私はユンギさんが愛するヒップホップのことをよく知らない。このラップがかっこいいと感じることはあっても、何がどう良いのかは説明できないくらいだ。それに私は何万人という人の前で歌うアイドルでもない。
だからあくまでも、ラッパーでありアイドルであるユンギさんの中にある途方もなく広がる宇宙に、かつて存在したであろうブラックホールに関して、少しだけ共感した。
今のユンギさんはきっと”そこ"には戻らないだろうな、そして私も"そこ"には戻らないだろうということが分かるから、私は改めてAgustDの曲を聴けるのだと思う。
それでもほんの少しだけ近い道を通った人間としては、彼の言葉ひとつ、彼の音ひとつにちいさな光をも飲み込むようなあの暗闇の香りを何度でも思い出す。


「うつ病 強迫観念が時々襲ってくる」
「Hell no」
「そんな訳ないって思っていても」
「もしかしたらそれが俺の本来の姿かもしれない」
「時々俺も俺が怖い」
「自己嫌悪とまたふらっと訪れたうつ的気分のせいで」
「すでにミンユンギは死んだ(俺が殺した)」
「お医者さんは俺に聞いたんだ」
「________したことはあるか?って」
「躊躇わず俺は応えた『ある』ってな」
「事の顛末は全部俺にあるから 俺が終わらせてやる」

つづられる自己嫌悪や劣等感、強迫概念。
そして語られる「(したこと)ある」という言葉。

私は一度もしたことはない。でも“しない”ことを選んだというよりは、“する”ことすら怖かったから“できなかった”というだけだ。してもしなくても目の前にあるのは圧倒的な弱さで、抗おうとすればするほどその首輪が喉を食い込むように、確実に心にさす影が大きくなるだけだった。
それが、むかし確実に刻まれた私のそれが、この曲を聴くと思い出したように痛む。まるで雨の日に古傷が痛みだすみたいに。

「俺のファンたち堂々と顔を上げろ 俺ほどやれる奴は俺だけだ」

しかしAgustDは最終的にこう歌い上げる、だから余計に泣いてしまう。これは私が彼のようになれない劣等感からではない、そこに、彼の姿に希望を見出そうともがくからだ。


「みんな走ってんのになんで俺は止まってるんだ」
「みんな進んでるのになんで俺は進めねえんだ」
「遥か遠くへと俺にも夢があったなら 飛んでいける夢があったなら」
「そうだよ 死ねずに生きてんだ」
「毎朝目覚めるのが息をするのが怖いんだ」
「現在 何もかも消えればいい」
「蜃気楼みたいに消えちまえ 消えてしまえば」

どんな言葉も心に出来上がった大きな暗闇が飲み込み、私を救い上げてはくれなくなったときのこと。私はただ実行することもできず、生き延びるための夢も見つからず、その間を行ったり来たりしているだけで1日がやっと終わるような、そんな日々を送っていた。世界はそんなことも知らずに当たり前に1日1日を刻んでいくから残酷だった。私だけがずっと”ここ"にいるような、どうあがいても友達と同じラインに並べられない絶望感が焦りを生み出し、さらに"ここ"に居座らせる。

「夢みてる君の誕生と人生の終わりを共にすることを」
「君の居場所がどこであろうと寛大であることを」
「最終的に試練の終わりには満開になることを」
「初めは微弱だろうと最後は壮大であることを」

何度も繰り返し歌われるこの言葉たちは、まるで塗り薬だ。できてしまった傷をなかったことにするのではなく、せめて良くなるように、早く痛くなくなるように。私はやさしいメロディと共に歌という部屋の中で祈るようなこの歌に何度も救われてしまった。


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とここまで書いて本来終わるはずだったのだが、何のタイミングか、AgustDが2作目のミックステープを出した。

人にかけている言葉は、実は誰よりも自分に強く深くかけている言葉なのかもしれないとD-2を聴くたびに思う。1作目と同じくらい切り口の鋭いラップがある中で、私はユンギさんがAgustDのことを、むかしの自分のことをちゃんと許せるようになったのではないかと思った。いや、私がむかしの自分を許せるようになったから、そう感じるのかもしれない。人は自分の見たいように人を見るものだから。

ただ今までと変わらないことは、誰かを救おうともしてない、ただ自分の内側にともしつづける火をみてユンギさんは歌うということだ。


大吹打のMVのなかで、かつての姿を彷彿とさせる金髪のAgustD(王様)に対し、現在の近代的な装備を持つ黒髪のAgustDが銃を向け発砲するシーンがある。

4年前の自分である王様を、今のAgustDは殺せたのだろうか?Vliveでユンギさんは「銃を撃ったけど、死んだかどうかは僕も知りません」と言った。私はたぶん死ななかったと思う。いや、殺さなかったのではないか。

ユンギさんは金髪のAgustDには別の名前があるといった。「怒り」だという。怒りや嫌悪の海のなか痛むことで生まれた昔の自分を、打ち消すことは今の自分に脈々と流れる血管を遮断するようなものじゃないかと思う。

そうやって生きるのも悪くないじゃんと、こちらに、あるいは自分に対して話しかけるAgustD は、きっとそんな自分も許してあげられたのではないかと思う。これはきっと私の願い。夢についての考えもそうだ。かつて「夢がなければ」と思っていた人は、今「夢がなくてもいい」と語る。その考えに行き着くまでにどれだけの時間があったのだろうか。物理的な時間ではなく、体感的な時間がとても長くあったのではないだろうかと思う。


「夜明けに見た あの月明かり」
「未だにあの頃とは変わってないな」
「俺の生活の多くは変わったけど なんか」
「あの月明かりは変わらずそのままなんだなって」

この曲を聴いたとき、この人は、眠れない夜ベッドの上でそう高くはない天井に向かって幾度も手を伸ばし、伸ばせば伸ばすほど小さくなる自分の手に絶望したことがあるのかもしれないと思った。ユンギさんが実際にそうしたかはわからないけど、何度もそうやって絶望した私はユンギさんとほんの少しだけ似ている闇を見たのかもしれないと思わせてくれる、その余白。その隙間に甘えさせてもらっている人はたくさんいるんじゃないだろうか。私もその1人だ。



4年前の、2016年のゆんぎさんに出逢えていたらと最初は思っていた。そうしたら早く救われたかもしれない。でも、私はいまの私だから、過去の私の苦しみやユンギさんのひりついた歌を心と身体をもって感じられるのかもしれないなと思う。ちょうど、ドライアイスに指がくっついてしまうように、自分の弱さも悲しみも知らない未熟なあの頃の私はひりついた歌に吸い寄せられてこの身をずたずたにしてしまったかもしれない。無かったことにするみたいに。だから、今で良かったのだと思う。合理化が働いていたとしても、きっとこのタイミングだったんだって信じたい。

今日みたいな夏の夜明けはどうしてもあの日を思い出してしまう。もう何年前のある日なのか忘れてしまった、あるいは忘れたく思っている夜明け。漠然とした不安に駆られて、かわいそうな私が飛び立とうとすこしだけ心の深いところで考えてしまった日。眠ることよりも、夜明けがずっと怖かった日。蝉の煩い声だけが部屋と私の心にあって、それ以外はベッドに沈む自分の身体の重みだけ。
いまも、夏の夜明けはすこしだけ怖くなる。でもいまの私はなるべく早く陽が登ってくれることを願いながら、また始まる1日を想って眠ることができる。
夏の夜明けはすこし早く訪れることで、あと数時間遅ければ陽を見なかったかもしれない人を救ってるのかもしれない、と少し猫背な彼の背中をみて思う。ユンギさんは私にとって、決して忘れさせてくれない夏の夜明けだ。世界でたったひとりぼっちになってしまったと錯覚する夜に、朝を少しだけ早くくれるひと。


傷は気づくから痛むものだ。たとえ傷ついていたとしても自分が傷ついていることに気づかなければ、少しの間その痛みを感じることはない。でも改めて今自分が傷ついているのだと知ったとき、じりじりと痛むもの、それが傷じゃないだろうか。ユンギさんの作る音楽、ひいてはAgustDの曲を聴くと安心して自分の傷を見つめ、痛むことができるように思う。最大の慰めをもらえてような気持ちになる。


4年前に生まれてきてくれてありがとう。

そして4周年おめでとう。

恩着せがましくしたくないし重みにもなりたくないから決してあなたは知らなくていいけど、それでもちゃんと私は知っていたい。

4年前のあなたに、いま救われたひとがここにいるのだということを。

そう思って書いた散文、此の夜ここにしるす。


(Translated by:@luv_musik_)