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カーテンの向こう

誰かがひとりで死んだと聞くと、息が、胸がつまる。

触れたくなかった古い額縁に触れなければならないような感覚。勝手にその人が最後に見た、あるいは思い浮かべた景色を考えて、どんな色だっただろうか、どんな姿だっただろうか、と考えて勝手に悲しくなる。そして勝手に、私は私としてまだ悲しめているのだと知り、少しだけ安堵するのだ。

死とはなんだろうか?
その方法はたくさんある(それでいて全てが自分の問題とは限らない)のに、死ぬことは決して揺るがず、そこにいる。まるで待ち受けている高山のように、時に試し、時に罰する。

私が死について考えたくないのは、私の死を考えることで私の大切な人の死を考えなくてはならないからだと思う。その最期に私も一緒になって悲しめる自信はないのに、助けを求められてすぐに駆けつけられる自信はないのに、私はその道を渡らないと決して約束できないのに。

生まれたときから死に向かって歩んでいるというのに、私たちはそれに逆らおうとする。死というものを考えず、語らず、感じずにいることでその変わらない事実を認めずにいようとする。そして、いつまでも続く長い長いトンネルのような場所に自分の身を置くことで、その事実をできるだけ遠くに寝かせ、自分自身を安心させるのだ。
そうすることで、また遠くにいる私が、その事実に苦しめられるというのに。

朝日がのぼることが怖くてたまらなかった私は、今もここに生きている。
眠ったらそのまま起きないかもしれない怖さと安らぎに身を任せて目を閉じた私は、今もここに生きている。
そしてまた相も変わらず、怖がる私がいる。
朝に対して、夜に対して、生きるということに対して、死ぬということに対して。

ただそれだけ、それだけだ。