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雨と鮪と子猫の夏

空が泣けばすこしは心が落ち着くかと思った神様が善意で流したような長雨は、人の心もこの土地も川も、水の力で大きくえぐって行ってしまったように思う。一方では無かったことにするために、一方では無かったことにしないために。

それでも待ちわびていたものと違う、夏が来た。
決して「人はどうして生きるのか?」なんていうことを考えたくない、むさ苦しくて、汗がしがみつくように流れて、電車の中に人の匂いがむんとかおる夏。"特別な夏"なんて言葉を簡単に使う人がいるせいで、どうしてか私の中にある"特別な夏"が雑誌の陳列を変えるような自然さで差し替えられてしまったような気がする。

「狂わないために狂わなきゃ」

こんな心で、こんな状況で、また淡々と生活を営むことこそ、なによりも狂ってるじゃないか。
まるで泳ぎをやめたら死んでしまう鮪みたいじゃないか。

とある大きな水族館で、大量の鮪たちが泳ぐ水槽を見たことがある。最初はその勢いと大きさに圧倒された。しかし数分、数十分と眺めているうちにそれは生き急いでいるようにも、迫りくる時の渦に飲み込まれてしまったようにも見えた。その水槽がある場所は薄暗く、白い光が鮪の身体を時々照らした。これでもかと青白く光る命に、何十匹何百匹という命が大海原とは比べものにならない小ささの海の中で展示されていたのを覚えている。その後、その水槽をまるで永遠と続く大航海のように泳いでいた鮪たちはまた一匹また一匹と、その海をまた見ることなく泳ぐのをやめた。何が原因だったのか、何のために死ぬ必要があったのか、そもそも必要ってなんなんだろうか、鮪たちは何を思っただろうか。私にこんな記憶だけ残して。

公園に映える木々は子供達の日陰を作るのに勤しむ傍、根元に生える花の陽を奪う。どこかの裏庭で生まれた子猫は母猫が狩に出ると鳴き出し、母猫の帰りを当たり前に待つ。
そしてその鳴き声をまた朝方聞けるだろうと、ありもしない確信を祈りのように胸に抱く私がいる。

何のために?

何のために、あるいは何のためにもならずに、雨は夏は、鮪たちは、花々は子猫たちは、わたしは。

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これを書いた6日後の今日、道端に子猫が死んでいたと聞いた。あの3匹のうちの1匹、トラ柄の子。
その子の姿を思い出しながら私はまた、硬いあずきバーをぺろぺろと舐めては、必ず溶けると信じて疑わない。