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小説 輪郭を辿る

インスタグラムのストーリーに表示されたのは、和也と美佳が手を握っている姿だった。布団で体を隠しているけど、多分、服を着ていない。ホーム画面に戻ると、ラインのアプリにも通知がたまっている。複数のライングループでこの写真についてコメントされており、通知が止まらない。この写真は美佳のアカウントで限定公開されていたけれど、わざわざ誰かがスクリーンショットで画面を撮影し、それを友人に送って、またそれを誰かが誰かに送った。そのおかげで、限定公開の意味はなくなって、おそらく、この写真は学年中の生徒に拡散されている。もちろん、人のSNSの投稿をスクリーンショットで撮ることは倫理的に間違っているけど、こんな写真をSNSに投稿する方がずっとたちが悪い。美佳は、きっと気にしてないんだ。和也が友達の彼氏だってこと。私は、そんな美佳のこと男好きとか友達を裏切ったとか言って、騒ぎ立てる関係のない女子たちのコメントをダサいと思った。
スマホが鳴った。相手は、渦中の美佳だった。
「見た?」
他人事のように、なんなら少しだけ楽しそうにそう尋ねる美佳を私は誇らしく思う。でも、悟られないように言う。
「うん、美佳があげたものも見たし、いくつかのライングループでスクショが上がっているから何度も見た。」
「明日、きっと沙理たちになんか言われるから…よろしくね。」
「よろしくって、私は何もしないよ。中立、中立。いや、中立でいたいけど、沙理たち多分私とも口きいてくれないだろうな。あんな女と仲良くするなんて、あんたも悪い!だと思う。」
「まあそうだね。」
悪びれもしない美佳は、電話口できっと笑っている。にこにこというよりも、にやにやに近い笑みを浮かべているだろう。
「和也とのセックスは…良かったよ。」
唐突に美佳はそう言った。やっぱり全然反省してはいない。
「どこがどう?」
「感触?全然、慌ててなかった。」
いつも美佳は感覚的なことを言う。
「沙理に申し訳ないとか思わないのかな。」
「思ってないんじゃない?」
「美佳も?」
「私は思っているよ。でも、和也が選んだことだから。もし、美佳が好きなら、そんな和也を認めないといけない。」
美佳の独特の恋愛観を聞かされる。美佳は話を続ける。
「和也と付き合いたいわけでも、沙理を傷つけたいわけでもなかった。でも、結果的に沙理を失うことになるだろうなとは思っていた。それでも和也とセックスしたかったからした。それに、私には友里恵がいればいいから。」
「そんなこと言われても全然嬉しくない。」
私は冗談でそう答えた。破天荒な美佳と冷静な私。私たちは小学生からの親友で、全く似ていないけど、だからこそうまくいっている。
「まあとにかく、セックスすることにオープンでいたいということ、やりまんって言う言葉をクールにしたいということが私の信念の一つだから、投稿したってわけ。友里恵は分かってくれていると思うから。」
電話の先で、美佳はきっとにやにやしている。

廊下にはカーテンがついていないけど、日差しが届かないからそんなに明るくない。クラスメイトの中で誰よりも早く教室の扉をくぐる。始業時間の一時間前、この時間の教室は朝日を浴びて、一番眩しい。均等に並べられた机と椅子。その上に、残ったほこりがよく目立つ。黒板の消し残しだって、誰もいない教室ではよくわかる。でも、それらは全然汚くなんてない。それはとても人間らしい。夜の間、静かに息をひそめていた無機質な教室だけど、よく見ると人が生活した跡が、かけらがたくさん残っている。人がいる昼間だと騒がしくて、そんなかけらに気づけない。だから、私はゆっくり教室を見つめられる、朝の時間が一番好きだ。
「友里恵、ちょっといい?」
自席で課題を確認していた私は振り返る。後ろ側の教室の扉近くに、沙理と沙理と親しい愛が立っていた。私は立ち上がり、彼女たちの方へ行く。
「ここでもいいんだけど…。」
愛が教室を見渡しながら言う。視線の先には、私より少し後に登校した数名がいる。
「いいよ。教室から出よう。」
なぜか無言で私は愛と沙理の後に続く。心の中で、中立、中立とつぶやいてみる。女子トイレでは互いに向かい合うわけではなく、3人がそれぞれ鏡と向かい合った。沙理の目は腫れていて、普段はかけない眼鏡姿だった。
「友里恵は、どう思う?友里恵だけ何も反応ないからさ、気になったんだけど、友里恵は美佳の味方なの?」
昨日、あの写真がインスタに投稿された後、すぐに美佳を除いた数人のグループラインができた。だから、わざわざ言わなくても、昨日の件だとすぐにわかったし、こんな風に深刻に話を始めるのがさも当然であるくらい、彼女たちには重大な出来事なのだ。私と美佳はクラスが同じだけど、沙理と愛とは違うし、私たちは4人で仲良しグループというわけではない。私と美佳は親友で、沙理と愛は学年の中で、仲良くしている友達のくくりになる。陰キャとか陽キャ、スクールカースト、そんな概念は進学校であるこの高校でも存在していて、私は学年の目立つタイプと付き合っており、彼女たちはその層の仲間だ。
「どう思う?に関しては、美佳らしい、くそだなって思った。沙理が可哀そうだと思う。美佳の味方かと言われれば、まあ小学生のころからの付き合いだから。」
愛は顔をしかめ、沙理は何も言わずこっちを見ている。愛が口を開く。
「私たちは、美佳のしたこと許せない。和也のことを誘惑して、しかもあんな写真載せるなんて。高1の時、美佳と同じクラスで男好きだから、嫌だなと思っていたんだけど、普通にあり得ない。だから、私たちはもう美佳と話せないようにしようと思っている。」
私は、無表情を心がけて話を聞いていたが、内心は愛の話にダサいなと思って聞いていた。美佳もクソだけど、彼女がいてセックスした和也の方がずっと最低だ。愛は一通り、話し終えると、私のことを美佳と親友でい続けるなんて理解できないと言った。私は、とにかく角が立たないように、余計なことは言わなかった。感情的になるようなことではないし、無駄に人を傷つけたいわけでもなかった。ただ、この出来事の登場人物の中で一番好感が持てるのは美佳だなと改めて思う。適当に受け流していた私に向かって、悲劇のヒロインである沙理がようやく口を開いた。
「友里恵が、美佳に裏切られないといいけど…。」
私は、その言葉にも曖昧にうなずくだけにとどめた。二人が、女子トイレから去って行って、私は鏡に映る自分の顔をまっすぐに眺めた。私の顔は美しくない。地味だ。目は一重で、鼻筋は通っているけど、すこし長く、のっぺりとした印象を与える。色が浅く黒く、身長は152センチ。髪の長さは肩くらいまでのセミロング。太ってはいない。きっと一人でいたら、誰からも特別に評価されない、そこら辺にいる、女子高生の一人だ。派手で、奇行の目立つ個性的な美佳の横で、動じずにクールぶってそこにいる私。美佳がいるから、私は普通とは違う存在になれるような気がする。強くなったような気がするから、美佳といるのだ。美佳を利用しているのが私だから、裏切っているのは私の方なのかもしれない。

「水泳の授業を選択しようよ。」
五月の連休を終えたばかりだけど、真夏のように暑い教室で、夏服の長袖をめくりあげた美佳が満面の笑みで言う。昨日の写真の件なんて全く気にすることなく一日が終わり、下校時間となった。朝、私に話をした二人も他の生徒も、美佳には直接何も言わない。悪びれもせず、いつも通りの美佳に言っても仕方ないと思っているのだろう。
「ねえ、聞いてる?今日説明があった体育の選択の話。」
美佳に言うまでもなく、私は体育の選択科目を水泳にしようと思っていたので、もちろんというように右手でOKのサインをした。
「さすが友里恵!プール入りたいよね!まあ、女子の体育選択は全然人気がないだろうから開校しないかもしれないけどね。高校生の体育でプールがあるのはこの辺りじゃ、うちくらいじゃないかな?」
今日の体育の時間に、6月から夏休みまで水泳と卓球とダンスのどれかを選択するように説明があったのだけど、高校2年生の女子が体育で水泳を選ぶのはハードルが高いんじゃないかと思った。単純に、水着姿が恥ずかしいということもあるけれど、それ以上に毎朝の髪型のセットや教員に指導されない程度の薄い化粧などが崩れてしまうことが嫌な生徒が多いのだろう。私たちは廊下をだらだらと歩き、階段を下る。行きはそれぞれで登校しているが、帰り道は一緒に帰ることにしている。靴箱にたどり着くと、そこには和也が立っていた。
「あー。」
わざと驚いたような声を上げた美佳は、和也に声をかけると、和也は困ったような笑みを浮かべ、
「沙理に振られた。」
と言った。私はすかさず、
「そりゃあそうだ。あんたは浮気したんだから。」
と突っ込む。美佳はにやにやしているだけで、罪悪感もなければ、和也を独占することを喜んでもいないようだった。
「…で、俺は美佳がなんでインスタにあんな写真上げたのか、理解できなんだ。俺が美佳を責めたり、八つ当たりする資格なんて毛頭ないんだけど、さすがにあれはない。」
「まあ、和也が言う資格がない。うんそれに尽きる。」
私は呆れて言う。
「和也~、私のこと全然分かってないなぁ。私は性にオープンな女なの。」
美佳はにやにやしながらそういうと、頭を垂れた和也の肩をポンポンとたたいた。和也は、アイドルにいそうなイケメンで、鼻筋がすっとして、少し東南アジアの方のような彫りの深い顔をしている。背はそんなに高くないけれど、その甘い見た目で女子から人気があるのだけど、彼と仲良くなると見た目とのギャップに驚かされる。へたれで、プライドの高い負けず嫌い。努力もしないのに、すぐに愚痴を言うし、屁理屈ばかり言う。女子には異常に優しいのだけど。
「美佳の信念に俺を巻き込むなよ。普通に考えて秘密にすると思って、口止めすればよかった。…あっあと、昨日の忘れ物を持ってきたんだけど、今渡していい?」
内容の割にはあっけらかんと和也は話を続ける。リュックの中に手を突っ込んだ和也だったが、それが見つからないらしく、慌てて二人は和也の教室に探しに行った。私は、二人を昇降口で待つことにしたが、渦中の二人が放課後に教室にいたらまた何か言われるんじゃないかと内心思っていた。でも、二人はそんなこと気にせずに、階段を駆け上がっていった。
「先輩。」
顔を上げると、一個下の神崎がいた。神崎とは、中学の陸上部が一緒で、今でも高校ですれ違ったらお互い会話しあうような関係だ。中学のころ、刈り上げたショートカットに、日焼けした肌、めったに笑わない神崎は、全然似合わないスカートを履いていたけど、今はスラックスを履いている。世の中で制服のジェンダーレス化が声高に叫ばれるようになったこともあり、去年からこの学校でもスカートではなくスラックスを選択できるようになった。
「神崎じゃん。帰るとこ?今帰るってことはまだ部活決めてないんだ。」
先週、神崎と昇降口であったときに、部活の話になったとき、神崎は高校でも陸上を続けるか悩んでいると話をしていた。私は体育会の部活の雰囲気にうんざりしていたから、帰宅部と決めていた。
「決めましたよ。今帰るのは、今日は活動がない日なだけです。笑わないで聞いてくれる?」
中学の頃から、神崎は、なぜか私にだけ時々敬語を使わない。私は上下関係に全く関心がないので、不思議だなと思いつつも自然に受け入れていた。神崎が不器用にぽつりと話す、しゃべり方が好きだったから。
「何?笑わないよ。」
私が微笑むと、神崎はリュックからファイルを取り出した。そこには演劇部入門と書かれたプリントが一番上に挟まれている。無口でスポーツに打ち込む神崎が演劇をするなんてイメージが全く湧かなかったけど、約束した手前そのことには言及せず
「いいじゃん。」
と私が言うと、神崎は照れながらうなずいて、そのファイルをリュックにしまった。
「そういえば、もうすぐ梅雨の季節だから南区の図書館にまた行かないと。」
「ああ、よく覚えているね。」
雨の日の図書館が好きだという話を陸上部の練習中に話したことがあった。湿気のせいか、本の匂いが強くなる気がするし、南区は窓が大きくて、庭の木に雨が滴っている様子がよく見える。それに、中央図書館と違って人が少ないから、梅雨の時期、部活がオフになるとわざわざそこに行っていた。
「先輩からその話を聞いて、去年の梅雨の時期にそこに行きました。」
私は何と答えたらいいのか分からず、曖昧な表情を浮かべた。
「ピアスあった~!」
能天気な明るい声と共に美佳と和也が降りてきた。忘れ物はピアスだったようだ。神崎は美佳にぺこりと頭を下げ、私にまたと言って、その場を離れた。
「ああ、ごめん。話し中だった?」
「いや、大丈夫。」
和也が神崎を見ながら言う。
「あの子、1年生だよね。スラックス履いて、短髪で目立つよね。」
「神崎さん、中学が私たち一緒だったの。友里恵と同じ陸上部だったし、いい子だよ。」
美佳が続ける。和也は神崎について、何か言いたそうな腑に落ちない表情を浮かべている。
「和也の言いたいことを代弁すると、彼女の自認する性は男だと思う。本人がオープンにしていないのに憶測で話ではだめだけど、私自体が全くそれに偏見がないから、嫌な意味でなく言っているので許してね。」
和也は美佳のこういうところに、また始まったというような表情をして、私を見つめた。

3Aの学習室には、女子は私と美佳の2人、男子は10人がいる。和也と目が合ったので、お互いわざとらしく笑ってみる。40代くらいの体育教諭である田崎が、いつもの営業スマイルを浮かべながら話を始める。彼は社会人から教諭になっており、営業で売り上げが東日本で一番だったとことあるごとに話す。
「ようこそ、水泳の授業へ。見ての通り、とんでもなく人数が少ないが、ぎりぎり開講することができたので、改めて選んでくれてありがとうと心から言う。」
「そんなに水泳やりたかったんですか?」
陽気な男子が人懐っこく田崎に尋ねる。田崎はまた嘘くさい爽やかな笑みを浮かべて、
「実は…俺の専門は水泳で、前任校では県大会常連の水泳部の顧問をしていたんだ。この学校に来て、今は剣道部の副顧問をしているけど、来年には水泳部を作りたいんだ。同好会から始めたいと考えているんだけど、あっ大会には同好会でも出られるから安心してくれ…と、今のところすべて俺の気持ちばかりだから、まずは水泳の授業を通して水泳の魅力に触れてもらおうと思っている。早速、来週から練習が始まるので準備よろしくな。」
早速、水着の購入に関するチラシが配られたが、事前に水着の用意が必須と合ったので驚かなかった。それより、思ったよりずっと熱を込めて語る田崎に圧倒されながら、創設の部活だったら変な上下関係もないだろうし、ありかもしれないなと思った。
体育の授業が終わり、教室に戻ると、複数の女子が明らかにこちらを見ながら陰口を言っている。多分、水泳を選ぶ私と美佳をまた男好きだと揶揄しているんだろう。

水泳の1回目の授業は、どんよりとした曇り空の下行われた。とても肌寒くて、夏の日差しの元、快活に水の中を泳ぎたいという私の期待は裏切られた。田崎は、いかにも体育教師と言う風貌だけど、古臭い厳しい指導が嫌いなようで私たちは恥ずかしくなるくらい褒められた。男子たちは元々、基礎代謝が高いのか、こんな気候でも寒くないようで、いつもとは違う新鮮な授業風景にテンションが上がっていたが、私と美佳の水着姿をわざと視界には入れないようにしているようでもあった。小学生のようにはしゃいで、ふざけ合っていたが、そんな姿にも田崎はいなすだけで、厳しい注意はしない。着替えの時間が長く必要だから、かなり早めに授業は終わったのだけど、田崎は放課後希望者にプールの使用を許可すると言った。もちろん自分が監視するが、安全面には気を付けて使用しなくてはならないとも言った。そこまでして、水泳部の発足を現実のものにしたいのか、と少し呆れてしまったが、天気の良い放課後にプールを貸し切りできたらさぞ気持ちがよいだろうなと思った。更衣室で塗れた髪の毛を乾かすためにタオルを頭にぐるぐる巻きにした美佳に、いつか放課後練習してみようと声をかけたが、美佳はそんなに乗り気ではなさそうだった。最近の私は、認めたくないけれど、美佳がいなくても、自分のやりたいことをやりたいという気持ちが強くあり、美佳が放課後の水泳に参加したくなくても、私は一人でやろうと決めた。

次の週、夏のように暑くなるという天気予報を見て、放課後一人でプールに行くことを決めた。田崎にその話をすると、いつも以上に嬉々とした表情を浮かべ、放課後プールサイドで待ち合わせることになった。
「よし、まずは体育の時間にやっているメニューを行ってくれ。今日は最後に、タイムも測ろうと思っているけど、まずは楽しむことが大切だ。」
張り切って田崎はそう言ったが、練習が始まった15分くらいで、慌てた様子の教員が来て、田崎はとにかく気を付けて、すぐ戻るから、と話して職員室に小走りで戻って行った。私は、田崎がいなくなってすぐ、泳ぐことを止め、プールを立ち泳ぎしてみた。プールサイドのフェンス越しから、野球部が練習している姿が見える。野球部は人気がなく、部員が11人に、顧問が3人くらいいる。ノックをしているようで、一人がスライングしてボールをとっていた。私は、なんとなく小学生くらいの幼稚な子供のように、うつぶせになって、プールでぷかぷか浮かんでみる。身体が浮力を感じて、心地よい。息を止めて、水の中の世界をじっと見つめる。世界から遮断された世界。興奮して、とにかく性欲のままにこの人とセックスしたい、だなんて気持ちが分からない。綺麗ごとのようだけど、セックスは愛を確認しあうためのツールだというのが、自分の中で一番しっくりくる。でも、触れたいという気持ちは分かる気がする。好きな人の背中に触れてみたい。指先を私の身体にあててほしい。でも、そこに性器をイメージすると、全然ピンとこなかった。美佳の言うように、それは自分の身体をまだまだ知らないということなのかもしれない。自分自身の気持ちや性格は、人と関わって、傷つけたり、感謝されたり、思ったりしながら少しずつ知っていっている。身体も同じなのかもしれない。人に触れて、痛かったり、気持ちよかったりしながら少しずつ知っていくものなのかもしれない。
プールから出ると、神崎が入口のフェンスにもたれかかっているのが見えた。子供のころの死体ごっこといってプールに浮かんで遊んでいたので、そんなことを今もしていると思われたら恥ずかしいなと思う。少しきまり悪かったけれど、あえて明るく私は言う。
「のぞき見すんなよ」
神崎は笑って近づいてきた。長袖のシャツにぶかぶかのズボンは、体のラインを隠すためなのだろう。正直言って、夏の日差しの下では神崎は暑苦しく見えた。
「気持ち良さそうだなと思って」
神崎はそういうと、靴を脱いで突然プールに飛び込んだ。水しぶきが派手に上がり、私はプールサイドで神崎の動きに見とれた。服のまま、水に浮かぶ神崎は動きにくいようで、まるで溺れているみたいだった。ばたばたと体を動かす神崎は、気持ちよいのだろうか。必死でもがく姿は滑稽だけど、余裕の出てきた神崎は仰向けになって水面でぷかぷか浮いた。

「ばれたら、相当問題になると思うよ。」
偶然持っていた予備の私の体操服を着た神崎は、何も返事をしない。
「プールって危ないの。いくら高校生とはいえ、命を落とすような水の事故がどけだけあると思う?」
プールサイドのベンチで私は延々と神崎に説教している。
「高校生の間にしたかったことの一つだったから。」
「制服でプール?本当に神崎は本当ロマンチックだね。」
「うん、綺麗なことがしたからさ。」
そういうと、神崎は立ち上がり、「服ありがとう」と言い、そのまま校舎の方へ歩いていく。悪いことをして興奮しているわけでもなく、淡々とゆったりと歩く背中を私は見えなくなるまで見つめる。それから、しばらくして慌てた様子の田崎が戻ってきたので、何も問題がなかったことと楽しかったと微笑んでみた。

翌日のホームルームで、担任からある紙が配布された。
「それじゃあ、これから私が合図をするまで、各自このアンケートに回答するように。相談するようなことじゃないから私語厳禁な。」
その紙には「性に関するアンケート」と書かれており、匿名であること、実態を知るためのものだと説明が載っている。今までに性交があるのか?特定のパートナーがいるのか?安全なセックスをしているかを調査する項目もあった。ふざけて、いつもいじられている男子に誰かが「童貞だからわかんないって言えよ」と笑って言う。なぜ、こんなことを教員が、大人が把握しなければいけないのか、意味が全く分からない。匿名とはいえ、真面目に答えるのだろうか。5分弱の回答時間であったが、持て余した数人は予習のための単語帳を開いたり、机に突っ伏したりしている。

放課後、美佳と私は教室で和也を待っていた。前回の水泳の授業は田崎が出張で、教室での自習だった時に、水泳の補助教材をまとめる課題が出ていたのだけど、私と美佳と和也はおしゃべりに夢中で全然すすまなかったので、今日3人でやろうと話していたのだ。校庭のグラウンドから陸上部の掛け声が聞こえる。昨晩、雨が降っていたけれど、昼間の照るような暑さでグラウンドはとうに乾燥しきっているようだ。美佳がお菓子を手にしながら言う。
「今日のアンケートだけどどう思った?大人に対して高校生である私たちの経験が少ないことは理解しているから、実態を知りたいと思う気持ちは分かるけど、このアンケートみたいに匿名でこっそり大げさにやる意味が分かんない。そりゃあ経験済みかどうか、なんてみんな言いたくないだろうけど、もっとオープンな雰囲気で私たちが不安や疑問を訪ねたり、大人が正しい知識を伝えたりする時間を作ればいいのに。」
美佳の言うことに納得する気持ちと、性に関して、ふざけた雰囲気ではなくオープンに語れる生徒は美佳くらいなんじゃないかなと思った。
和也が、コンビニの袋を手に教室に入ってきた。お菓子を食べながら、私たちは課題を進める。来月に全員強制で受ける模試の話から、進路についての話になった。
「俺、とんでもなく勉強できないじゃん?でも、根拠ないんだけど、俺なら何でもできるって思っちゃうんだよね。」
「その発言が馬鹿っぽい。」
美佳が笑いながら言う。
「そもそも、とんでもなく勉強できなかったらこの高校にいない。」
私が冷静に言うと、和也は頷きながら
「天才じゃない、の間違いだ。高2になって具体的に進路のこと考える機会が増えて、小さい頃の夢は通用しないなって。あんなに大きな夢を持て!って言われてたのに、急に現実を見ろ、馬鹿なこと言うんじゃないって感じになって…でも、俺やたら自己肯定感強いから、本当にやりたいことなら、なんでもできちゃうような気がするんだよね。」
「じゃあ、頑張りなよ。」
私が突っ込む。
「でも、その本当にやりたいことが見つからないんだよ。」
美佳と私は笑った。少し遅れて、和也も笑う。
「和也はね、ここ触ると嬉しそうだよ。」
美佳は、和也に近づいて左胸を優しく触った。そして、続ける。
「本当にやりたいことを見つけるためには、自分を知る必要があるでしょ。セックスすると知らなかった自分に自分で気づいたり、相手に教えてもらったりするんじゃない?」
「なんでもセックスに繋げるなよ。セックスを正当化したいだけみたい。」
私は呆れて言ったけど、和也は少し真面目に美佳の話を聞いていた。そんな奥深いものではなくて、むしろ体の発達のためにオープンにしていくべきものだとは思うけど、美佳の考えは極端だ。
課題が途中だったけど、美佳は家の用事で帰らないといけないと言ったので、私たちは三人で帰路についた。美佳と別れてから、和也に課題を家でやらないかと言われた。和也の家は学校から私がのる駅までの通り道にあるので、手間でなかったし、家に帰るまでに終わらせたかったので、承諾した。和也は冗談っぽく「何もしないから、俺たち友達だから」と言った。
地方都市だから、普通だけど和也の家は新築の戸建てで、庭には芝生が敷いてあり、プランターで家庭菜園がされている。玄関を上がったときに、鳴き声がしたから犬も飼っているんだろう。和也の部屋を見渡すと、なかなかきれいに片付いていたが、このベットで沙理も美佳もセックスしたのかと思うと、ちょっと気持ち悪いなと思う。私たちは、水泳の補助教材の一ページをルーズリーフに書き込みながら、和也が持ってきたコーラを飲んだ。
「美佳とさ、実は先週またそういう関係になったんだよね。そんで、俺あいつがよくわかんないと思ってたけど、すごく単純で性欲の強い俺らと一緒なのかなと思ったんだよね。誰でもいいって言ったら本当最低だけど、正直体言うこと聞かなくて、同意があるならセックスしたいんだよね。美佳もそうなのかなって。」
「男の性欲は女と違って抗えないってこと?なんだか正当化しているかみたいだな。」
「というか、しっかり避妊して相手を傷つけないセックスだったら、そもそも悪いことじゃないんだから罪の意識を持つ必要ないんじゃないかな?」
「同じ時期に複数の相手と関係を持つことが悪いんじゃない?心の問題じゃなくて、何かあったときに複数と関係を持っていたら責任取れないから?」
和也がだんだんと美佳の考えに染まってきたような気がして、おかしかったし、私も自分で何を言っているのかよくわからなくなった。
「複数って、何人から?二人はアウト?」
和也は言う。
「二人はそこまで悪くないかも。」
なんとなく、和也の目の感じから、察した。和也の顔が整っており、清潔感があり、セックスに関して良い意味で軽い考えを知っていたので、私は嫌悪感を抱かなかった。好きな人とセックスするより、こういう相手とした方が良いのかもしれないとさえ思いながら、和也が私の髪に触れるのを受け入れた。右の頬に和也の手が触れて、距離が縮まり、唇が触れた。頬に触れていた和也の右手は、私の首筋へ向かい、肩に触れ、胸に触れようとしたときに
「やっぱり、嫌だな。」
と、私は間の抜けた声を出した。和也はさっと手を引っ込めて、いつものへたれな笑みを浮かべながら、
「やっぱりだめか。」
と言う。そんな風だから、こんな状態でも、私はドキドキしなかったし、怖いとも思わず、小さな犬に餌をお預けしているような、そんな柔らかな気持ちですらあった。

2年前の秋、私は中3で部活を引退して、受験勉強をしつつも、時間を持て余すことが多かった。親友の美佳と共に、地域で一番の進学校に行くことを決めていたが、模試での判定は間違いなく入学できる結果で、どちらかといえば、美佳の勉強の進捗を心配していた。中学は坂の上にあり、その坂には校庭の銀杏がぱらぱらと落ちており、落ち葉と銀杏の実を度々用務員さんが清掃してくれている。その坂は、歩道が広くあるため陸上部のランニングコースで、最後この登坂をダッシュしてグラウンドに向かうことになっていた。銀杏の葉が、夕日を浴びて、光を反射する鏡のようで、委員会の仕事か何かで、美佳とではなく一人で帰っていて、ゆっくりとその色づいた木々を眺めていた。坂の下から、こちらに向かって走ってくる人影が見え、陸上部のうちの誰かだろうと思い、心の中で応援する。それは、神崎だった、神崎は息切れをしながら、全速力で坂を駆け上がってくる。神崎は私のことをじっと見つめている。目をそらさずに、私のもとへ向かってきた。
中学生の頃、ボーイッシュで無口な神崎は、周囲と馴染めていなかった。陸上部員たちは、黙々とメニューをこなす神崎を信頼していたのだけど、女が好きらしいという噂が囁かれ、神崎自体も一人でいることを選んでいるようだった。私は、学年が違ったため、必然と距離感があったため、そんな噂も気にせず、後輩の一人として接していた。

その日の晩、私は美佳に電話をかけた。和也とあった出来事を話していたら美佳が「なぜしたくなかったのか?」と尋ねたので、私は「なぜセックスしたいか、触りたいか分からない。」と答えた。美佳は、その問いには答えない。快感?愛されている安心感?目的が私にはわからないのだ。

翌日、私が廊下で和也とすれ違ったとき、和也は何も気にせず「よっ」と言った。私は、和也のその明るさが清々しくていいなと思ったので、柄にもなく真似して「よっ」と声をかけた。今日も、外は快晴で真夏の日差しが照り付けている。だから、今日も放課後プールへ行くとその時決めた。昼休みに、4限に学習室に辞書を忘れたことを思い出して、取りに行くと、廊下から声をかけられた。
「忘れ物?」
声の持ち主は、和也とのこと以降会話をしていなかった沙理だった。沙理は、学習室に入ると、私の居た場所から一列離れた席に座った。
「どうかした?」
私が尋ねると沙理は言う。
「都合良くて嫌がられそうだけど、良ければ話を聞いてもらいたくて。」
「そんなこと思わないよ。」
私は元々沙理に同情していたので、素直な気持ちでそう答えた。美佳の自由奔放な考え方や和也の適当な振る舞いで沙理が傷ついたことで、一番の被害者だと思っていたから。
「美佳も和也も、全く引きずっていないよね。私は今でもへこんでいるんだ。」
いかにも傷ついているというような表情で沙理が話を始める。
「私は和也とセックスするとき、すごく…覚悟を決めていたんだよ。初めてだったことも大きいけど、本当に相手のことを好きかとか、私自身が彼とそういう関係になりたいのか、とか、いろんなことを考えたんだよね。なんなら、高校生でセックスするのってまだ早いんじゃないかな?とも思っていて、セックスする意味とかも真剣に悩んでたんだよ。」
沙理は廊下側に座っていて、私は窓の近くに座っている。廊下を通る生徒が私の位置からよく見える。
「それで、沙理は答えが出たの?」
沙理は笑って言う。
「実は、答えなんか出てなくて、ただぎゅって抱きしめられてたり、キスしてたりしていたらドキドキしてきて、そういう雰囲気に流されてしまったんだよね。ただ、初めてそういう関係になったとき、この人が特別な存在になったんだなって感じて、自分の経験が特別なものになったんだよね。だから、二人がエッチしていたことを知ったとき、和也がとられたとかそういうショックもあったけど、それ以上に自分とはセックスの重さが全然違ったことがすごく嫌だった。私にとってはすごく特別だったのに。私は初めてで、和也は初めてじゃなかったから、その時点でもともとすごくひっかかりがあったんだけどね。ああ、やっぱりって感じだった。」
沙理は、被害者側の傷ついた表情を浮かべていたけど、話をしているうちに怒りが込みあがってきたからか、興奮しているようだった。
「あの二人にとって、セックスはきっと意味合いが違うんだろうね。」
「うん、まあ考え方は人それぞれなのに、自分と違うからってキレてもどうしようもないんだけどね。ごめんね、友里恵に話を聞いてもらえてすっきりした。愛とか他の子は、浮気したっていうポイントにばかり着目してるみたいだし、私のために怒ってくれているのだから何か言うのは違うなって思ってて。」
時計の針を見ると、次の授業を知らせる予鈴が後3分でなりそうだった。

案の定、田崎はプールサイドに15分もいなかった。名残惜しそうに職員室に行き、とにかく安全にと念を押された。前回の様にプールでぷかぷか浮かんでいると、水中に光が差し込み、金色の輪がいくつも見える。吹奏楽の練習の音が水中に屈折して響き、私と外の世界に幕があるような気がする。私は自分の右手で和也が触れた髪や首筋や肩を撫でる。その手で自分の唇をなぞる。誰かに触れられて、自分のことが分かるといったけど、水中の研ぎ澄まされた世界で自分の手で自分の輪郭を触れた方がずっと正確なものをとらえられるような気がする。水中から、顔を上げるとまた神崎がいて、いつものように私をじっと見ている。神崎は左足の裾を上にあげて、片足だけがそっと水の中へ。私は、ゆっくりとそちらに泳ぎ、プールの端の段差で立ったが、神崎の顔を見るのが恥ずかしかったので、そのまま私は水の中に潜り込み、左足に触れる。陸上部で一緒に鍛えた細いのに、筋肉質な左足はとても美しかった。私の世界の中に、その人を招き入れているかのようだった。

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