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フェイクポルノは表現の自由なのかを考える。

 先日、いわゆる「フェイクポルノ」関連で初めての逮捕が執り行われたと話題になった。AIによるディープラーニングによって、アダルトビデオに芸能人などの顔をほぼ不自然なく合成する「フェイクポルノ」という言葉自体はわりと浸透していたし、AI技術悪用の代名詞としても使われていたが、今回日本で初めて逮捕されたという事例だ。

 それに対してのカウンターオピニオンとして〝「表現の自由」を侵害する〟というものがしばしば見受けられる。名誉毀損と表現の自由のせめぎ合いについて考えたいと思う。

 「表現の自由」とは、実に曖昧な概念であると思う。簡単に言ってしまえば、あらゆる意見や主義主張が犯されない権利、というべきであろうか。このことから、「表現の自由」が批判される構造自体が間違っているのではないかと思えてしまう。ただ、現段階では、もちろんそれが完全に許されている訳ではなく、「知る権利」や政権に対しての批判は犯されない、といった程度に収まっていて、名誉毀損や差別、そして性表現などは規制されている。

 思うに、「表現の自由」という実に広義(≓広義に受け取られやすい)言葉を使い続ける以上、議論は進んでいかないのではないのだろうか。

 例えば、日本における「表現の自由」は、少なくとも憲法にちゃんと記されている。

日本国憲法第21条
第1項
集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
第2項
検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。                          

 つまり、日本で「表現の自由」を語る際には、この憲法で定義された意味に依拠して議論されなければ生産的でない。「表現の自由」と名誉毀損や性表現の鬩ぎ合いにおける折衷案を探すというよりは、「現実的表現の自由」(現行)と「原理的表現の自由」(理想)をしっかり区分けして、立場を明確にした方がいい。

 そして、古くは「チャタレー事件」など、最近ではあいちトリエンナーレで開催された「表現の不自由展」などを通して繰り返し議論されているのにも関わらず、いまいち進展を感じないのは、マジョリティの立場が「現実的表現の自由」であるからではないかと思う。「現実的表現の自由」は解釈や裁判を通して、その中身が一部変容してしまうからだ。いくら「原理的表現の自由」を訴えたところで、主観や常識が入り込み、都合のいい「表現の自由」となってしまっている現状と言えると思う。

 だから僕は、世間一般で使われる文脈上の「表現の自由」という名称を変えるべきだと思う。「表現の自由」とは本来あらゆる主義主張が犯されない、という名目であると思うし、これは「表現の自由」なのか?といった問いそのものが不毛である。「現実的表現の自由」の名称は、「表現の上限」あたりが丁度良いのではないかと思う。

 現実には言論の自由が保障されていない国家もあり、そういった意味において僕は幸せであることを再確認しつつ、以上を唱えたい。

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