自分と他人の境界線


 
昨今SNSなどで「バウンダリー」という言葉をよく聞くようになった。
バウンダリーとは境界線の事。
似たような意味で「ボーダーライン」という言葉があるけど、それとの違いは
バウンダリーの方は超えてはいけない線のことだという。
個人的に使う場合は話したくないことややりたくないことを意味するもの。
 
つまりは「相手の意思(主に拒否)を尊重しましょうね」という事。
 
それはわかる。空気を読む、顔色をうかがうのが得意の日本人でもちゃんと自分の意思表示をするのは大事だし、それを聞き入れてわかった、OK!というのはもっと大事だ。
これからの時代そう言える自分になりたいし、そう言える人がもっと増えてほしい、こういう考え方が老若男女たくさんの方に広まってほしいと思う。
 
 
 
今日、Twitterである人の記事を知った。
具体的な名前は控えるけれど、追っかけていた推しやおなじファンの人から距離を取られ嫌われてしまったというもの。かなり詳細になぜそうなったかが記述されていて、客観的に自分の位置を捉えていると思った。
ただ、Twitterでは「激やばオタク」とか「自他の境界があいまい」なんて言われている。
 
正直私はその記事を読んだ時、少し共感するところもあった。もしかしたらその人が自分の行いを正当化しているにすぎないのかもしれないが、その人の行動原理や信念、考え方などは一理あるのでは?と思った。
もちろんその人が実際どのように推しに近づいたのかもわからないし、それこそ第三者から見れば明らかに行き過ぎた部分もあったかもしれない。
考えは自由にしても、それをなんでもかんでも表にしていたら衝突も起きるだろう。
言っていいことと悪いことという区別がこの人はつかなかったのかもしれない。
こういう事案は本人と当事者の主張だけで観てはいけないと思うので断定はしない。
 
言っていることは正しいのにもかかわらずそれがうまく伝わらず、
それ以外での言動によってほかの人がその本人へ怪しい、怖いという思いを抱き、バイアスがかかって一見正しい意見もそう聞こえなくなっているとしたら悲しい。
そしてムズカシイって思う。
 
 
私も推しはいるけど、盲目的にすべての行いを肯定できるほうではない。
今はまだないけど、推し本人の行いによってがっかりすることもこの先あるとしたら、
私はどういう態度を取れるだろうか。
そもそも私は自分という存在を推しにあまり認識されたくないタイプのオタクなので、出待ちみたいなこともしないし、顔が知られるほど現場に足しげく通わない。たぶんなにかしら失望したら急激に興味がなくなってフォローも外していつしか過去の産物になって終わり。私の場合は。
 
 
この方と私の違うところは、がっかりしたとしてそれを本人に伝えることができるという点だろう。
そしてそれがすべて良かれと思ってやっている。
 
これが恐らく全ての元凶なのかもしれない。
 
基本的に誰に対しても「良かれと思ってやる」行いは大体よくない方に転がるからだ。
意見を伝えられた方がどんな風にとらえるかはその人次第だが、受け入れたとしても、受け入れられなかったとしても、意見を伝える方は二度三度と伝え続ける。
 
受け入れてくれたなら今回も受け入れてくれるだろう、と。
受け入れられなければ伝え方がよくなかったか?と試行錯誤してまた伝え続ける。聞き入れてもらえるまで。
 
人間最初のうちは優しく対応できてもそれが10回、20回と回数を重ねれば流石に疲弊する。そこにお褒めの意見が混ざっていたとしても。
不特定多数の人に向けて何かを発信、表現している人はいろいろな反応をいただくこともあるからふーんなるほどとさらっと流せるだろうが、全員が全員そうできるわけではない。
その人に毎回お褒めの意見をもらうだめにやるのは、その人の顔色をうかがうことになる。
何より表現する人にとってそれは本意ではないだろう。
 
 
 
あなたの意見は受け取りません、という拒否も立派なバウンダリーだ。
もちろん意見する権利はあるが、それをいろいろな事情で受け取ることができません、という権利もある。
貴方の意見はいったん聞きました。が、受け取ることはできません。という事によって意見を言うことを尊重したうえで、自分にも拒否する権利はありますよ、尊重してほしいですと提示する。
 
 
 
もし受けとらない権利を踏みにじられてなんでだ!受け取れ!と言ってきた場合、それは完全に依存先にされているし、暴力の始まりなのでそうなってから然るべき措置なり第三者をたてるなりすればいいと思う。
 
 
 
推しというのはとても素晴らしい存在ではあるけど、相手が人間である以上、人間でしかない。神ではないし、自分の写しでもない。とても未熟な存在かもしれない。
 
このブログの当事者間も、きっと双方未熟だった可能性はある。
 
 
意見が違うことを認め合って相手のNOを受け入れる。
NOと言われることをとても怖がる人がいるけど、NOはただのNOであって自分や誰かを蔑ろにしているわけではない。というか、NOという言葉にそこまでの力はないと思う。
自分という存在や創ったもの、積み上げてきたものは人からの言葉一つで崩れることはない。過去という存在は消せないように、一人の人間の歴史もたった一つの言葉では塗り替えられない。不動としてそこにある。もしNOにそれだけの力があるなら、そこら中に残骸が散らばっているはずだ。
 
 
もしかしたら、これから時間重ねていくうえで昔許せなかったことが許せるようになる時が来るかもしれない。人間は変化する生き物だから、絶対はない。
 
自分自身、共感する部分があるという事は他人との境界が緩くなっている気がする。
今から少しづつ相手の意見を尊重して、バウンダリーが本当の意味で理解できるようになることを願う。

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