ニーチェ超訳 『ツァラトゥストラ』より「市場の蠅」

「逃れよ、わたしの友よ。君の孤独のなかへ。わたしは見る。君がネットのフォロワーたちの引き起こす炎上によって通知欄を奪われ、アンチたちのリプに刺されて責めさいなまれていることを。孤独がなくなるところにネットがはじまる。そしてネットのはじまるところ、そこにまたインフルエンサーたちの喧騒と、毒あるアンチどものうなりがはじまる。

 ネットでは、最善のものも、それを演出するインフルエンサーがいなければ何の足しにもならない。大衆は真に偉大であるもの、すなわちクリエイティブな力に対してはほとんど理解が無いが、バズったものとインフルエンサーを受け入れる感覚は持っている。クリエイティブな人物を中心に世界はめぐるが、それは目に見えない。だがインフルエンサーを中心としてめぐるのは大衆とバズりである。それがネットの姿である。インフルエンサーに良心はない。かれが信じるものは、人を最も強く信じさせること、かれ自身を信じさせることに役立つものである。明日、かれは新しい主張をツイートするだろう。そして明後日はいっそう新しい主張をつぶやく。素早い感覚をもっていることは大衆と同じだ。変わりやすい天気のような気分を持っていることも。キラー・コンテンツを与えてバズらせること。かれにとってそれが証明である。熱狂させること、それが説得である。繊細な耳にだけそっと入る真理を、かれは虚言、無意味と呼ぶ。かれが信じるのは、ただネットに大きなバズりを引き起こすコンテンツだけである。

 ネットはもったいぶったインフルエンサーによって満たされている。そして大衆は、そういう大人物たちをフォローするのだ。だがフォロワーたちは君もじっとさせておかない。フォロワーは君に「賛」か「否」かを言わせようとする。ああ、君はそういう「賛」か「否」の象徴闘争に身を置こうとするのか。真理の求愛者である君よ。こういう押しつけがましい者たち、有無をいわさぬ圧制者がいるからといって、嫉妬することはない。いまだかつて真理が、圧制者の腕に抱かれて身を任せたことはないのだ。これらの性急な者たちを避けて、君は君の安全な場所に帰れ。ネットにおいてだけ、人は「賛」か「否」かの問いに襲われるのだ。

 ネットと名声とを離れたところで、すべての偉大なものは育つ。ネットと名声とを離れたところに、昔から、新しい価値の創造者たちは住んでいた。逃れよ、わたしの友よ、君の孤独の中へ。わたしは君が毒あるアンチどもの群れに刺されているのを見る。逃れよ、強壮な風の吹くところへ。かれらに向かって、もはやリプを送るな。アンチ叩きになることは君の運命ではない。これらのちっぽけな者、みじめな者の数は限りがない。君は毒あるアンチに炎上させられて疲れている。深い心を持つ君よ。君は小さい傷にもあまりにも深く悩む。そのうえ、その傷がなおらぬうちに、同じアンチが君の手の上を這いまわるのだ。

 かれらはまた賞賛のふぁぼりつをして君の周囲に群がることがある。押しつけがましくリプを送るのがかれらの賞賛である。かれらは、君のフォロワーと影響力に近寄ろうとするのだ。かれらは神や悪魔に媚びるように、君にむかって媚びを呈する。神や悪魔の前でするように、君の前でしくしく泣く。それがなんだというのだ。へつらいもの、そして泣き虫。それ以外の何ものでもない。時には優しい愛嬌のある顔を君に見せることがある。しかしそれは臆病者の冷酷さだ。かれらは君を、君のあらゆる徳をとがめてディスる。かれらが真に許すのは、ただ君の炎上だけである。

 君がフォロワーに優しくしても、かれらは君から軽蔑されていると感じる。そして君の恩恵に、ひそかな加害をもって報いるのだ。君の無言の誇りは、常にかれらの趣味に反する。君が、多弁になって自分を見せびらかそうとするほど謙遜すると、かれらは小躍りして喜ぶ。君に向かうと、かれらは自分を小さく感じる。そして彼らの低劣は、君への見えない復讐となって燃え上がる。そうだ、わたしの友よ、君は君のフォロワーたちにとって、良心の呵責なのだ。かれらは君のフォロワーとしての値打ちがないから、それゆえ君を憎み、君を炎上させたがるのだ。君の偉大さ―それがかれらをいよいよ有毒にし、いよいよアンチにせずにはおかぬのだ。

 逃れよ、わたしの友よ、君の孤独のなかへ。強壮な風の吹くところへ。アンチ叩きになることは君の運命ではない。

Twitterをやめよ。SNSをやめよ。それは超人への橋とはならない」

―ツァラトゥストラはこう語った

元ネタ→『ツァラトストラ』(手塚富雄訳)

※これはもちろんネタとして編集したものだけれど、ニーチェ思想の主張の一つは「持たざるもの=弱者が強者へ怨嗟(ルサンチマン)を抱き、復讐のために自分のフィールドに引きずり下ろす」というもの。ニーチェは第一にキリスト教、第二に啓蒙主義に始まるヨーロッパの人道的な民主主義や社会主義にそうした共通する構図を見ていたと思うが、これは現代のネットでの言説にかなり当てはまるように見える。その理由は、SNSという場所では「名前のない」人々が、強者=著名な人々に直接的に影響力を行使できるため。宗教における教会や教義、あるいは社会運動における演説やデモを利用する必要がなく、インスタントに復讐の言説を形成することが出来る場として機能するためと思える。



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