それでもやっぱり健常者になりたい

今日は、大親友と会ってきた。

彼女は昔からエネルギッシュな女の子だった。
私と同じく繊細な部分はあったものの、
人生でいろんな経験をして、それなりに充実した人生を送っているものだと思っていた。

私の躁が最も激しかった時に、彼女に散々迷惑をかけ、縁を切るほど仲が悪くなった。
唯一の親友だったので、それはもう落ち込んだ。

それから1年、彼女から連絡があり、再び会うことになった。

彼女曰く、色んな不幸が重なり、
鬱になってしまったと。
精神科に通い服薬するほど酷くなってしまったらしい。
だから、私の躁鬱が今は理解できるから、仲直りしようと言ってくれた。

仲直りできたことは、それはもう死ぬほど嬉しかった。

ただ、面食らった部分もあった。
彼女は健常者一直線の人生を送ると思っていたから。

私と同じようになってほしくないと思った。

それから色々話を聞き、
どうやら薬が効いて調子がいいようだった。

躁鬱のケがあるのでは?と一瞬思ったが
精神疾患に関して素人が口を挟むものではないので黙っていた。

そして今日、縁を切ってから会うことになって2回目の日だった。

聞いてほしいことがたくさんあったらしく、
彼女は色んなことを話してくれた。
リーマスを飲んで鬱が改善したこと、刺激的な生活を送っていて楽しいこと、近々引っ越ししようと思っていること。

その、全てが、躁の行動に当てはまっていた。

とてもショックだった。
まるで2年前の自分を見ているようで、
恥ずかしいような、羨ましいような、訳のわからない気持ちになった。

でも何より、彼女に同じ轍を踏んでほしくなかった。

この病気はみんなが想像するほど甘い病気じゃない。
ある時には死と隣り合わせだし、
心から生まれてきたくなかったと思う瞬間が定期的に訪れる。
持ちうる全ての暴力的感情を他人や自分に突き刺し、その後、後悔の海に溺れる。

健常者だと思っていた彼女が、
躁という甘い蜜に誘われて、自分と同じ地獄に足を踏み入れつつある事実。

彼女を傷付けないように、できるかぎり優しく諭した。
彼女も多少自覚があるらしかった。

でも、躁は「多少自覚がある」では止められない。
一生後悔するような大失敗をして初めて、
自分が病気だ、治さないといけない、と認識する。

ということは、私にできることはあまりないかもしれない。

躁であることをやんわり伝えつつ、
鬱が来た時に支える、くらいだろうか。

ただ、病気の自分にそれができるだろうか。
自分の生活もままならないのに、
他人のサポートなどできるのだろうか。

そこで思った。
やっぱり私は健常者になりたい。

健常者になって、他人を支えられるほどの
精神力とエネルギーがほしい。

不可能だから諦めないといけない、病気だと受け入れなければいけない、そんなの腐るほど言われてきたし分かっている。

それでも健常者への憧れが止められない。
病気である自分の自己否定がやめられない。

クリスマスプレゼントは何が欲しい?
短冊に何を書く?

「精神的健康」だ。

喉から手が出るほど、健康が欲しい。
生きていてよかった、まだ死にたくないと思いたい。

不可能なものを追い求めるなんて、
バカらしい。
いや、不可能だからこそ欲しいのだろうか。




とにかく今日は気持ちがまとまらないので、
ここで筆を止める。

PS:まったく関係ないが、きなこが朝20分くらい遊んだ程度で他はほぼ寝ていて心配。
生後6ヶ月とはいえこんなに寝るものだろうか?明日もずっと寝ているようなら病院に行くかもしれない。私のホープなので、きなこだけは元気でいて欲しい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?