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かつて獣のいた街 ー 02 逆噴射小説大賞2021・決定記念作

【前】



「逃げた。ははぁ、逃げましたか」
 電話の向こうの声は落ち着いていた。

 伊野はその調子に苛立ちを覚えた。脇の会議室に入る。この時間は無人だ。
 外付け無線、新澁谷駅の全回線に「全員待機! いたずらに刺激するな!」と短く言う。
 そんなことは言わずとも、薄給の警察官たちは危険人物に立ち向かったりはしない。念を押した形だった。
 携帯電話を持ち直し、詰め寄るように言った。
「『逃げましたか』だと? おい、あれが逃げたらお前もタダじゃ──」
「いま、9時38分ですねぇ」先方は伊野の言葉を断ち切った。
「じゃあもう2分ほど経てば、あれは動けなくなります」
「2分?」
 伊野の頭が混乱する。それにかまわず向こうは言う。
「さらに3分ほど経てば死にます。死因は……餓死ですかね」
「馬鹿な。どんな理屈だ?」
「あれは特殊な、栄養剤を使って生かしてまして。投与時間から計算して、それが切れるまでもう2分ほど」
 栄養剤、と言う前に声が淀んだ。単純なビタミンの類ではないことは明らかだった。
「なんせあの肉体にあの頑健さですから、普通の食事なんぞでは維持できません。まぁ燃費はよくないですが、あれの仕事ぶりは、あなたもご存じの通りで……」

 伊野は冷静さを取り戻しつつあった。念を押す。
「すでに警官がひとり死んでる。もしかするともう数人──あと2分で動けなくなるってのは本当だろうな」
「殉職なんて日常茶飯事でしょう? それにボクの勘定に間違いがあったことは?」
 ない、という返事は不要だった。
「あれの腹がぐう、と鳴ってパタリ。それでおしまい。あとはヤク中が暴れたとか、そちらで仕立ててください。
 ──ふふ、ボクだって馬鹿じゃありませんからね。このくらいの簡単な保険はかけときますよ」

 伊野はわかった、と答えてから携帯電話を一度耳から離した。反対側のイヤホンを触る。
「新澁谷周辺、全警察官」この一言で現地の全員に繋がる。「根津巡査は、車内にいた大男にやられたな。そうだな?」

 しばらくの沈黙、「は、はい」と若い警官の返答があった。根津と同じ派出所の青年、名前は記憶にない。
「被疑者の様子は? その場から動いたか?」
「い、いえ。あの、動いては、いません」声が震えている。

 伊野は安堵した。下手に反撃したり、されていたりしたら後が面倒だ。
 つまり、そのままにしておけば終わりだ。
「奴はかなり興奮している。危険だ。しばらくは静観。絶対に刺激するな」
「立派なもんですねぇ」片手の中の携帯電話から皮肉が聞こえた。伊野は舌打ちした。
「いいか諸君、根津さんの仇を討とうなんて考えるなよ。今こちらで対策を練って、数分後に」
「し、しかし。ね、根津さんが」
 若い声がつっかえながら何か言おうとする。
「根津さんがどうした? まさかまだ生きてるのか?」
「く……喰われてます」
「く──」伊野の思考は数秒停止する。「喰われてる?」
「お、男が。被疑者が、道の真ん中で。倒れた根津さんのく、首や腹の、に、肉……」
 無線の先、若い警官がうッとうめく。吐き気に違いない。
 伊野のこめかみに刺すような痛みが走った。持病のストレス性の頭痛だった。
 頭がろくに働かない。
 目を強く閉じて無線を切る。繋がったままの携帯電話を持ち上げた。
「聞こえたかおい。もう数分で餓死するおたくの犬が……もしもし?」
 電話は切れていた。旧式の携帯からは古風な発信音が聞こえるだけだった。
「牛尾ッ」伊野は叫んでいた。「おい貴様ッ、どうしてくれるんだ!」
「……ちょう! 副署長!」耳の無線がオンになる。現場組の心拍条件他により、緊急時のみ起動する回線だった。
「男が走りだしました。新澁谷駅前から南方向ですッ」



 歩道に向かって「ペットショップ カウ」と貧相な看板が出ている古びたビルがあった。
 コンクリート剥き出しの地下、牛尾はデスクの上のペンを手に取った。
 蛍光灯が一本ついている暗い部屋で、奥には鉄格子ががっちりと填まっている。

「成人男性、70キロとして……肉……カロリー……」
 樽のように太った体にアロハシャツを着ている。ノートの余白に走らせようとしたペンを、彼は放り出した。
「クソッ! わかるもんか!」
 人間の血肉がどの程度あいつの寿命を伸ばすのか。牛尾には見当もつかなかった。
 しかし、あいつは暴れるだろう。栄養はともかく、脳を冷やす方のクスリも切れつつある。
 警官やアウトローがひとりふたり死ぬくらいなら、この街ではままある。娯楽の範疇とさえ言える。そういう世の中だ。
 しかし、″犬”が暴れるとなればそんな数では済まない。
 あの強固な肉体と暴力性、5分でも無差別に暴れれば市民が数十人か、あるいは三桁──
「クソッ」
 そうなれば誰も誤魔化しようがない。

 稼業を畳むしかない。あれの飼育の下請けも、警察との蜜月も終わりだ。
 牛尾は部屋の隅にあった古いバッグをひっつかんだ。踵を返し、背後の冷蔵庫を開けた。
 冷えた箱の中には十数本の細長い透明のボトルが入っていた。半透明の赤い液体で満たされている。  
「クソッ、クソがッ!」
 牛尾は冷蔵庫に手を突っ込む。ボトルを掴み出す。乱雑にバッグに放り込んでいく。
 胸や背中は汗で濡れていた。ろくに動かない太った男が激しく動いているためばかりではない。焦りと怒りの脂汗だった。
「クソッ、ふざけやがって!」

 罵言と動きを繰り返しながら牛尾は考える。
 カクテルドラッグのみを与えて調教してきたあいつ──“犬”がなぜ、人を喰うなどという知恵を?
 餓死への恐怖、本能、ドラッグの作用による前頭葉の萎縮、単語が頭をよぎる。

 そもそも何故、“犬”は逃げ出したのか?
 今度はふたつの顔がよぎる。

 8時過ぎ、クスリを与えてぐったりしているあいつを連れていった二人の顔だった。
 スキンヘッドとドレッドヘア。いかにも低能といったしまりのない表情だ、と牛尾は思った。服装もだらけていたし、乗ってきた車もオンボロだった。嫌悪感を隠すのに苦労した。
「じゃあこれを。これをちらつかせれば、こいつは言うこと聞きますから」
 ボトルを渡した。愚鈍そうな二人だったので、それぞれに一本くれてやる。
「仕事終わりに打ってください。またこのように静かになります。犬に命令して、あとで餌をやるようなもんです。9時半までには打ってください。9時半、ですからね?」
「なんかァ、これ、どーやって打つんスか?」
 スキンヘッドの方がだらしのない唇で言う。前歯がない。
「平らになってる方を体に押しつけると針が押し出される仕組みに、あっやめてくださいね、危ないですよ」
 ドレッドの方が自分の腕にボトルを押し付けようとするのを牛尾は止める。
「なんか、カンタンなんっスね」
「ええ、簡単ですよ」
 お前らでも使えるくらいにな、という言葉を、牛尾は飲み込んだ。


 あのバカどもなら打ち忘れてもおかしくない、と思った。
 壁の時計を見る。本来ならもうあいつは餓死している時間だ。
 胸にしまった旧式の携帯電話は振動しない。伊野は律儀な男だ。犬が死んだら連絡をよこすだろう。
 と言うことは──やはり。

 こうなれば、警察はどんな手を使ってでも俺を消しに来るだろうと牛尾は考えた。全部を俺に押し付けて。
 マスコミやネットにも俺の情報を流すだろう。「ペットショップオーナーの裏の顔」「違法カクテルドラッグ」「殺しの斡旋業」──
 逃げねばならない。遠くへ。
 ノートをバッグに突っ込む。そのはずみで酒瓶がひとつ落ちた。コンクリートの床に落ちて割れた。中身がぶちまけられる。
 ぐっ、と喉が鳴る。
 腹が立っていた。
 割れなかった部分を念入りに踏みつけ、爪先で酒を混ぜこぜにする。
「クソッ……バカどもがっ……!」
 牛尾は歯噛みしながら床を撹拌した。


 地下がごん、と揺れた。
 頭上、一階のシャッターとガラスドアが破れた音と振動が伝わってきた。
「なっ……?」
 ペットショップの建前として雑に並べている鳥や猫、犬どもが階上でわめいている。

 じゃりっ、と硬いものを踏み潰す音。
 その一足で、動物たちは鳴くのをやめた。


 牛尾は思い出した。
 あいつ──“犬”が逃げ出した現場はどこだったのか、伊野に聞かぬまま電話を切ったことを。


 ここは新澁谷3-9、駅から徒歩で10分。走れば、3分の距離である。

 
 
 
 

【続く】
 

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