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新しい感情を募集している

「新しい感情」を人から聞き、コレクションしている。そこにはたまらなく気持ちを揺さぶる何かがある。

先日、こんなことがあった。久しぶりに連絡のあった友人とランチの約束をして、お店の前で待っていると、思ってたのと違う人が来た。

こんなことは、今までの人生になかったことだ。

種を明かせば、相手のLINEの登録名や写真がシンプルすぎて、同姓同名の友人と間違っていただけなんだけど。

思っていたのと違う結果になった時の、心の混乱と脳の補正はとても興味深い。

「あ、これから待ち合わせなのに、偶然、知り合いと会ってしまった」と脳は考えていた。でも、そこで噛み合わない会話をしているうちに気づく。この人が、待ち合わせた人だ。

「どうしたの?こんなところで」「え?」「え?」「えっと」「……あ、そうか!えっと、お店満席で、別のお店に行きましょう」「なんで敬語?」

なんとも言えない気まずい会話である。

その後、正直に別の人と勘違いしたことを話した。

「よかった〜!ちょっと会わないうちにめちゃめちゃ距離取られたのかと思った〜!」

と安心してもらった。相手にしても、やはり違和感があったみたいだ。そりゃそうだよね。待ち合わせしてるのに、偶然!みたいなテンションと敬語でこられたら。

目上の人と会うつもりでいたので、敬語モードだったのだ。人は人と会う前に自分のモードを調整している。小さい頃、母と買い物をしている時に友達と会うと、なんだか恥ずかしかった。あれは、母といる時の子モードと、友人といる時の友モードがちがうから、なのかもしれない。

そして、今のような話を散歩しながらまた別の友人Sと話していると、また違った種類の「新しい感情」の話をしてくれた。

サウナでの話だ。

その日、友人S(40代男性)は珍しく遠出をして、千葉のサウナへ向かった。ラーメンとサウナで有名な地域へ行き、食べて、歩いて、サウナに入るという、楽しい予定を立てた。異性の友人との楽しいひとときだ。

ここまで聞くと、とても楽しい休日の話だ。都会を生きる男女の、心地よい関係性と、自由な動き方。

ところが、場所は千葉。地元に密着したサウナの、休日の客層は「家族」である。

Sは、早めにサウナを出て、連れを待っていた。周りには、Sと同じく連れを待つ同世代の男性たち。そこに駆けてくる子ども。「お父さん、牛乳飲んでいい?」「お母さん、また湯船はいっちゃったから、遅くなりそう」「え〜なんだよ」何気ない会話。家族の風景。

そしてようやく出てきたお母さんと合流して、家族は歩いていく。その背中。幸せのかたち。なかなか出てこない女性の友人。まるで周りがハイスピードで人生を手に入れていく中、時間がとまったように取り残されている自分。時のはざま、サウナの待合室。

その時、Sを襲ったエモーションは、「なぜ、自分は、この生活を手に入れてないのだろう」だ。結婚、出産、新築の戸建、車、BBQ、ローカルの仲間たち、パスタつくってくれたお前。

そして、ふいに、涙がほほをつたう。この感情は、なんだろう。

その時、同行した女性が顔にパックをして登場する。「あ〜最高だった!あれ?どしたん?」

涙はちょっと乾いた。

と、いう話だ。この話に登場する新しい感情は、「家族コンプレックス」とでも呼ぶのだろうか。都会に生きる者特有の、地域とのギャップ。高校時代の友人がどんどん家庭を持っていく中で、いつまでもふらふらしている自分への罪悪感。親類からのプレッシャー。「いつになったら孫の顔が見れるの?」という悪気のない言葉。

よくある話かもしれない。しかし、それを千葉のサウナで感じる、という演出がいい。

優れた小説やドラマはいつだって、「新しい感情」を描く。それは、未知の気持ち、というより、心の奥にあったけど、言語化されていなかったり、映像化されていなかったもの。例えば「silent」のワンシーン。

手話を使い、耳の聞こえない人が夢を見る。ハンドバッグを持つ夢だ。手話を使う人はリュックしか持たない。手をあけていないと話せないからだ。だから、ハンドバッグへの憧れが夢となって現れる。

「新しい感情」だけど、なぜかその気持ちはわかる。見る人ひとり一人にとっての「ハンドバッグ」を思い起こさせる。

こういう話は、短く伝えられない。一枚の絵にすることも難しい。ここまでの文字数を費やしたり、podcastで話したりといった尺と自由度が必要だ。そして、最近は、そういうコンテンツばかり摂取している。その方が「豊かさ」がある気がして。



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