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カフカの箱

雨が止んだので霞ヶ浦に出た。波浪強し。賞味期限切れの鶏肉入りソーセージでアメリカナマズ3尾;46、32、42cm。釣果は期待せずネットも持参しなかったので安物の竿が折れた。霞ヶ浦はいつも濁っている。見えない無意識の世界に釣り糸を垂れているような錯覚あり。生きている大きな魚が三尾出てくる。深緑色の美しい釣り糸を脳髄の彼方まで投げること。

竿もきれいに三個に割れていた。明け方、夢で海岸を歩いていると、いつの間にか潮が満ちて岸がどこにあるのかもわからない。底まで透明な海で足も届いていない。周囲の人(十人程度)に混じって木か竹で組まれた心細い依代(よりしろ)のようなものにすがりついて救助を待つことになった。

幅六メートル程度のコンクリート三面張の川が増水して対岸が遥か遠い霞ヶ浦の水面に泥水が勢いよく流れ込み二色に分かたれたまま広がって行く様子が怖かった。もし落ちればそのまま沖まで流されて戻って来られなかっただろう。現実の世界で魚をつかまえたので夢のなかで水すなわち「忘れていた洪水の恐怖」に戻された。

森でも湖でもそこに視ようとしなければ視えない世界があることに気がついたからにはここに居ながらにしてすでに救われているはずだった。科学でも哲学でも宗教でもない、天球の裏側に棲む一匹の魚體に描かれた本源の世界。人間だけがミクロコスモスではなかった。

おそるべき敵と闘ってきた。太陽だけが味方だった。


一人の母が黑っぽい二枚貝に乗った赤ん坊をわれわれに託す。少なくとも彼女にはそのつもりなのだが、暗闇のなかで半ば開いた黒い二枚貝のなかには何も見えない。赤ん坊を捜さなければならない。どこかで行方不明になってしまったのだ。われわれは過去の道筋を辿って行った。

どこまで捜したのかよく思い出せない。気がついて本箱の下を覗いてみた。足のある本箱と床の間には薄暗い空間があり、その隅に赤ん坊がじっとしている。襁褓が床と本箱の間に挟まって身動きが取れなくなっていたのだ。われわれに気がついた赤ん坊が泣き出した。

見えない恐竜が徘徊しているのだ。

ぼくは無学なせいで素朴な疑問をもつ。日本に革命詩人はいたのだろうか。しかし、その前に、ぼくなりにナンセンスな言い換えをしてみる。「君のいうマテリアルとは”存在”するものなのか?」

あるドイツの占星術家によれば「元型」による主張に対して「自我」が強く対抗しようとすればするほど、「元型」の意図がより悪魔的・非理性的な形で人間を引きずり回す結果になるという。ユング自身の主張であるかどうかは不明。

Franz Kafka "Die Verwandlung" 読み終えた。ともかく読み終えたに過ぎないが。深く考え始めると無傷ではいられなくなる。自分のなかにカフカの箱が置かれたかもしれない。開けると怖いものが出てくる。

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