マレーシアから一週間。


松山あげおいしいよねー。
家ではお肉(お魚も極力)食べない生活の私にとっての主なタンパク源。

ナンシーがマレーシアにたった時にはまったく計画していなかったマレーシアへの旅、たのしかったなぁ。
自分の家大好き人間なので、自分が仕事を辞めても特に旅行をするつもりなどなく。けどこういうのって、というか人生のだいたいが玉突きで決まっていくよね。共通の友人の誘いに「え、いいかも。」と思ってノリ半分、勢い半分で急遽決めた来馬。日本人にほぼ会わないさいこーの環境で、わるいことばっかり喋れてさいこーでした。泊めてくれてありがとう。


停滞期、あるよね。
私も昔から浮き沈み激しかったので、もう20年くらいは自分のバイオリズムと格闘してきたな
。けど最近変わってきて、格闘する必要あるのか?対峙、もっと優しく受け止める、くらいでいいんじゃないかって思ってきた。ある種の開き直りというか。

前回、自分が凪で居られる相手とだけ会っていきたいけどそれでいいのかみたいなこと書いたけど、それを試すかのように、その後連日人と会う日を作ってみたんだよね。
試さなくても薄々わかってたけど、自分が凪で居られるなと思っている相手と会った後は、気持ちがあがって会えて良かった、また会いたいと思ったし、そうでないと思っている相手と会った後は、徒労感に包まれた。これさ、凪で居られる相手って別に私のことを全部許容してくれる相手ってわけじゃないんだよね。共感も是正もある。それから、徒労感に包まれた相手も、私に対して嫌なことをしてくるってわけじゃない。つまり好きとか嫌いとか、付き合いの濃淡で気持ちの上げ下げがある訳じゃないんだよね。

考えるの大好きなので、何が違うんだろうってしばらく考えてみてるんだけど、今のところ思っているのは関係性の中にお互いにケアし合うことが含まれているか否かかもなって思っている。会えて嬉しい人って、自分の中に自然とケアしたい気持ちが生まれているし、相手も呼応してくれている(私がケアされている)ように感じる。疲れてしまった相手にはそれがあまり無い。これから密に関係性を築きたいと思うのは前者かな。
となると、また狭い範囲で暮らしていくことになるけど、それでいいやって今のところ思ってる。自分のバイオリズムを保つためにもだよ。自分ファースト。

そして、海外旅行経験少なめの私たちのことを散々ケアしてくれたナンシーとチャックに、めちゃくちゃ感謝してる!ちゃんと返せているか(金銭的なもの以外でも)とても不安なので次一時帰国の時にもてなさせてください。

今、國分功一郎さんの「暇と退屈の倫理学」読んでるんだけど、”退屈を抱えたことが人類にとっての不幸”みたいに書かれていてものすごく腑に落ちた。退屈しないように趣味を持たなければならず、その趣味もCMやSNSから「あなたにはこれがいいんじゃない?」「あなたへのオススメ」として提示される。本人は、さも自分で選びとったようにその趣味を楽しんでいるが、それは果たして純粋な楽しみなのか、外部からデザインされたものではないのか。そして仕事も趣味も全て資本主義で生み出されたものである。退屈しない為に、今日と明日が違うものである必要がある。その為には刺激的なニュースが必要で、それは特にハッピーなものでなくても良くて、刺激があること、退屈を凌げることが重要である…という序盤。怖い。

だから私は暇と退屈を慈しむ生活をもうしばらく堪能しようと思う。これは停滞期なんかじゃないし、ラジオや本の中にも対話の機会は十分にある。寧ろ、人と会う以上のものがあるかもしれない。とはいえまだしばらくは資本主義の中で生きていかないといけなさそうなので、お金を生み出すことも少しずつ考えつつ。


バトゥ洞窟。ここで食べたカレーが美味しくて、帰ってからずっと南インドカレーと副菜を作る日々のたかみんより。
(というかこの日服が丸かぶりしたのこわかったな。6年以上一緒に働いただけある。)

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