「雨月物語」@五色台

松山の 浪の景色は 変わらじを
かたなく君は なりまさりけり

西行法師

こちらは、崇徳院の鎮魂のために五色台に訪れた西行法師が詠んだ唄です。
松山は崇徳院が流刑で讃岐に来た時に到着した場所です。松山の海は変わってないのに、荒れ果てた御陵を見て西行が悲しんで詠んだと言われています。

その後、日も落ち、辺りが暗くなってきたときに西行を呼ぶ声が聞こえました。
西行は問います。
「私を呼ぶのは誰ですか?」と。
すると呼びかけた声はさらに答えます。
「お前が詠んでくれた歌に返歌をする。」

松山の浪に流れてこし船の
やがてむなしくなりにけるかな

崇徳院の怨霊

流罪になった自分と船を重ねて、船が朽ちるように自分も朽ち果てたという歌である。

ここから崇徳院と西行のやりとりが続きます。
内容としては、崇徳院が
・平治の乱を引き起こしたのは私(崇徳院)である。
・私(崇徳院)はまだ朝廷を祟る。
と伝えます。

それに対して西行は
「平治の乱は天津神の教えに従ったものなのか?それとも自分の欲なのか?」と問います。

それに対し崇徳院は答えます。
「天皇、上皇の位は人として最高のものである。その地位にあるもの(父・鳥羽帝)が、同義に外れたことを行っていたので私はそれを正そうとしたのだ。これこそ万民の願いにして天津神の教えに従うものではないか」
さらに崇徳院は続けます。
「そもそも私は父(鳥羽天皇)の第1皇子として天皇になり、落ち度なく勤めていた。ところが、父の命令で3歳だった弟(近衛天皇)に皇位を譲った。そのことだけでも私に欲がないのがわかるであろう。そして近衛天皇が亡くなったときに次の天皇は私の子が継ぐのが正規であろう。」

結局、近衛天皇のあとは鳥羽天皇の4男の後白河天皇(崇徳院、近衛帝の弟)が跡を継ぎました。

「この恨みは忘れられない。これは父の過ちであるが、父の存命中は親不孝を畏れて控えていた。しかし、お亡くなりになったから、過ちを正すのが渡すの務めと思い兵を起こしたのだ(保元の乱)。」

「海の向こうの中国では、例え臣下の身であっても君主が道を誤れば、これを討つのが天命である。まして上皇である私が曲がった世を正そうとしたのである。それが道に外れているなどと思われるなど言語道断である。」

西行法師も反論します。
「崇徳院様も道義を振りかざし、欲がからんでいるのではないか?」

というやりとりが続きます。
ちなみに違いに納得することはなかったようです。

おもしろいですね。
易姓革命の理論を持ち出し、皇室の自分が世を正すのは問題ない。という崇徳院。

それに対し、自分の子供を皇位につけたかっただけでしょ?という西行。

結局、このあと崇徳院の呪いは成就し、朝廷は政権を手放すことになります。
そして、明治になり、朝廷は政権を取り戻します。
そして明治帝が最初にしたことは崇徳院の御陵への参拝による鎮魂でした。

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