芸術について

芸術の本質は自我にあり、その表現の本質は婉曲と迂言にある。
私が音楽ジャンルでとりわけHiphopを愛するのは、それが自我の音楽だからだ。Hiphopのリリックは、基本的に自分とその周辺以外語らない。客観性がまるでないのだ。ポップミュージックや近年のロックという名前で世に蔓延るポップミュージックとの明確な違いはここにある。Hiphop が前述の意味において、本質的に、最も芸術的な音楽ジャンルである。

また、もう一つ私が好きな音楽ジャンルとしてクラシックがある。それはその表現において、最も芸術的な音楽ジャンルである。Hiphopは一部の詩的な表現をするラッパーを除いて、表現はかなり直接的である。
しかし、クラシックの表現は音楽ジャンルとしては究極まで婉曲である。無論、言語表現がないからだ。
また、クラシックは究極の婉曲ではあるが、抽象度に違いはある。例えば、モーツァルトと久石譲であれば、前者の方が抽象的であると言える。つまり芸術的であると言える。この違いは音の密度や大小ではなく、情報量にある。
モーツァルトは情緒を提供しない。後者は明確に雰囲気を拵えている。クラシックにおいて、これも前述の意味においては、感情が規定されないものがより芸術的であると言える。(どちらが優れているか、という話ではない。)

文学においても、芸術的なのはいわゆる純文学だと言える。三島由紀夫は"ポオの短編以外推理小説というものは芸術ではない。"と言ったが、私も同意見である。
推理小説などの大衆文学が芸術的でないのは自我の突出が"小さい"からである。出来事やストーリーの構築それ自体が自我の表れだとも言えるが、それはあまりに小さい。
本質的な芸術が純文学だとしても、上記の文言を認めると、大衆文学の方がより焼曲であるから、大衆文学はその表現において芸術的であるとも言えるが、本質が自我にあって、その突出を覆い隠すのが芸術の表現であるとするならば、やはり、大衆文学は元々の自我が小さすぎる。

芸術的な表現について、余談であるが、激石が大学の授業で「I love you」を「月が椅麗ですね」と訳したという話がある。しかし、激石ほどの人物が、大学の授業でアイラブユーなどと直接に書いてしまうようなどうしようもない小説家を扱うだろうか?
近代文学はこの一言の表現に1万~10万字を存える。激石もそうであったのに。
実はこの話には出典も根拠もない。おそらく、激石の芸術に対する態度を表した作り話だと思われる。(もし本当にそんな小説家が存在するとしたら、アイラブユーなどとだらしないレトリックを書いてしまう無邪気な小説家を、私は愛する。頭が悪いのか小説家として程度が低い。もしくは誰も信頼していないのだろう。読者をバカにしているのだろう。私はその小説家を、自分を愛するように、強く愛する。)

そして芸術の意義の一つは、Kanye Westが「Bringlight to what they don't see」と言うように、太宰治が「文芸は、不公平な空洞を、水が低きに流れるように自然に充溢させて行くのです。」と言うように、暗闇に光を当てること、或いは、見ないようにしているものを見せつけることにある。
これは座標や社会問題の話だけではなく、心の中の暗闇、トラウマ、ストレス、鬱や病気にも役割を持つ。

芸術の意義はもう一つ、生の肯定、とりわけ人間の肯定にある。
例えばキューブリックは、作品のモラルや実社会への悪影響について批判された際、「芸術家は作品の芸術性にだけ責任を持てばいい」と言い放った。ここでいうキューブリックの芸術性の内容こそが生の肯定、人間の肯定である。
キューブリックは醜い人間の姿を芸術という形で美に昇華させ、肯定した。
これは芸術の必要条件と言ってもいい。人類の思想、所為への完全なる肯定が芸術である。
芥川も羅生門で、老婆と下人のエゴイズムを芸術という枠に閉じ込め、美として肯定した。善も悪も可能も不可能も肯定も否定も肯定するのが芸術である。

最後に、芸術家の出す答えはいつも「あるがままに」である。これは理論とも一致する。自由意志など幻想なのだ。過去そうであったならそうなのだ。今こうであるならばこうなのだ。この先どうなるかは一切分からない。どうしようもない。天にお任せしよう。この諦観は、生きるのを少しだけ楽にする。

強い鬱に悩まされていた激石も晩年、則天去私という思想に至り、病で倒れるまで生きた。
ビートルズは「let it be」を「words of wisdom」と言った。
キューブリックは遺作「アイズワイドシャット」で目をつぶって、とにかくファックだと言った。
ケンドリックは「alright」という開き直りに似た諦観とそれに追随する「love myself」に自我の拠り所を求めた。
ドストエフスキーとトルストイはキリストに全てを委ねた。
太宰治は明るい小説を書いていた時期にこう言った。
"知らない事は、知らないと言おう。出来ない事は、出来ないと言おう。思わせ振りを捨てたならば、人生は、意外にも平坦なところらしい。
この道は、どこへつづいているのか。それは、伸びて行く植物の蔓に聞いたほうがよい。蔓は答えるだろう。
「私はなんにも知りません。しかし、伸びて行く方向に陽が当るようです。」"

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