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民衆の敵

多数決が真実とは限らない。ましてやその結果が正義であるなど、決して保証されるものではない。

「だって大衆がそれを望んでいるのだから」という言葉を昨今どれだけ聞くだろう。大衆って誰のこと?

民衆の声を代弁するはずのマスコミですら、真実をふた通り用意し、時流がどう流れても自分だけは生き残れるよう策を練る。精神の土台が汚泥まみれなのに、その上に「家族のため」だの「町のため」だのの「正義」をどれだけ積み上げた所で、そもそもの土壌が汚染されていたら何にもならない。そこには何も残らない。

「雑種犬とプードルがいたとしましょう。どちらの方が技を早く覚えられますか?」

「貴様、俺たちが犬だっていうのか?」

何かの事例の言葉だけが一人歩きし、真実が置いてけぼりになることは、ソーシャルの世界で山ほどある。

「民衆」の演出にドキドキした。新聞で顔を隠して拳を振り上げる「手」。言葉にならない咆哮を上げ、少数派を威嚇する「声」。一人では俯いたままなのに、多勢になると相手を睨みつける「目」。

見たくない「真実」に礫を投げ、視界から追いやり、とことん潰して「正義」を振りかざすのは、「大衆」という不特定多数の顔のない手足だ。


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