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Tempalay Tour 2024 “((ika))”(香川公演)の日記

布施英利先生の『人体、5億年の記憶 からだの中の美術館』を読んで、三木成夫先生が香川県出身だということを知った。
行きの飛行機でこの本を選んだのは、読みかけだから持ってきただけで特別な理由はない。単なる偶然に過ぎないが、ちょっとした符合がなんだかうれしかった。
前回の大阪公演に続いて香川公演の記憶も綴ってゆきたい。

※下記要素が含まれます。
・ライブで演奏した曲についての感想
・自作ぬい及びぬい撮り

今回行ったライブ

・5/11(土) Tempalay Tour 2024 “((ika))”@Festhalle(香川)

ライブ前の日記

大阪からライブ会場のある高松へ移動する。移動手段には安価な高速バスを選んだ。

「昨日、藤田邸跡公園を歩き回って疲れたし、今日はライブが始まるまで本を読んで待っていよう」
そう思いながらバスに揺られていると、次は栗林公園に停まるというアナウンスが聞こえた。Googleマップで確認すると、広範囲に緑色で塗り潰されている。庭がある。池がある。これは行くしかない!と思い、バスを飛び降りた。

栗林公園 東門(切手御門)

入口から溢れる素晴らしさよ。栗林公園は国の特別名勝に指定されている文化財庭園であり、その中でも最大の広さを持つそうだ。こんな自然溢れる場所が主要都市の近くにあるなんて!

紫雲山

入口からも見える雄大な山は紫雲山。
大阪公演へ行く前に訪れた藤田美術館の展示区域の一つが「紫」と名付けられていた。「紫なるものは、めでたくこそあれ(紫色のものは素晴らしい)」。冠位十二階でも紫の位が一番高かったような……日本における紫って特別な色のイメージだ。

紫といふ色調にも、他の色と同じく濃淡深浅の無限の段階があり、それにつれて感じられる情趣も微妙な変化があるが、総じて言ふとすれば、まづ静艶高雅の印象が共通のものとして挙げられるであらう。それは、静かな雅やかさと気品に満ちた艶やかさを併せ持ち、すべての色のなかでもつとも神秘的な調和に富んでゐる。

水尾比呂志『紫――その花と歌と心』(大岡信編『日本の色』164頁)

Tempalayのロゴを混ぜたら紫色になりそうだし、色で例えるなら紫が一番しっくり来るかも。紫は雅やかな印象もあるし、謎めいた印象もある。

商工奨励館

東門から入ってすぐに位置する建物が商工奨励館だ。明治32年に「香川県博物館」として建築され、今では栗林公園の情報や伝統工芸品の展示・実演などが行われている。

商工奨励館(2階)

商工奨励館の本館2階には、世界的家具デザイナーであるジョージ・ナカシマの机や椅子が展示されている。
家の近くにあったら年間パスポートを買って通いたい。ここで本を読んだり、庭を眺めたりしたい。椅子に座りながら目を瞑っている(寝ている?)おじさんもいた。分かるよ。

掬月亭

「昨日、屏風絵で見た縁側エリアだ!」と思ったのが、掬月亭。
栗林公園の入園料(大人410円)を支払えば商工奨励館は無料で入ることができるが、掬月亭は別途500円か700円かかる。と言っても、お茶(煎茶/抹茶)とお菓子が付いてくるので実質無料みたいなものだ。

掬月亭の煎茶とお菓子

前日にあみじま茶屋で抹茶をいただいたので、この日は煎茶をいただくことにした(500円)。「灸まん」というお茶菓子もおいしかった。東門の近くにある栗林庵や高松空港でも買うことができる。

掬月の間

掬月の間から見る景色がこれまた見事で……殿様気分を味わえるように脇息まで置いてあった。

吹上亭の月見うどん

掬月亭でゆっくりした後、東門に戻る途中にあった吹上亭に立ち寄った。
そりゃあ、月見うどんを注文しますわな。

飛来峰から眺める景色

吹上亭のすぐそばにある飛来峰という築山から眺める景色も素晴らしかった。橋。橋の良さよ。偃月橋(えんげつきょう)と言うらしい。
パンフレットの表紙にも飛来峰から撮影したと思われる写真が使われている。圧巻ですな。

歩いて、ご飯を食べて、少し休んで、また歩く。のんびり過ごしていたら3時間弱経過していた。

本屋ルヌガンガ

布施英利先生の本を読み終わってしまったので、栗林公園から徒歩圏内にある本屋さんへ行くことにした。

向かった先が「本屋ルヌガンガ」さんだ。スーツケースを持っていたので、お店の方に声を掛けて端に置かせていただく。快く受け入れてくださっただけでなく、「重いでしょうからバッグも置いて良いですよ」と気遣ってくださった。

店内は、そんなお店の方の温かさや深さが伝わってくるかのようだった。
「この選書なら三木成夫先生の『内臓とこころ』があるはずだ」と確信に近い思いを抱いていると、入って右側の棚に見付けた。数年前に『胎児の世界』を読んだきりで『内臓とこころ』は買ってもいなかったので手に取る。
それ以外には写真の土門蘭『死ぬまで生きる日記』と、赤瀬川原平『超芸術トマソン』を買った。
他にも気になる本がたくさんあった。李禹煥『余白の芸術』、山本貴光『マルジナリアでつかまえて』、ピーター・ゴドフリー=スミス『メタゾアの心身問題』、めら・かよこ『イサム・ノグチ物語』などなど。

お店の奥に喫茶エリアがあったので、紅茶と焼菓子をいただいた。ここでものんびり過ごしてしまい、気付けば15時を過ぎている。時間を忘れるくらい、ゆっくり過ごせたことがうれしかった。

ライブの日記(ほぼ本の話編)

開場を待つ間、親戚の集まりのような団体さんがいらっしゃると思ったら、綾斗さんのおばあちゃんや、おじいちゃんがいらっしゃっていたそうだ。

『Booorn!!』の直前、「ゴリゴリに離婚した母ちゃんも来てます」というMCもあった。「だから赤ちゃんの曲をやります」と言って演奏が始まる。
綾斗さんの口振りはしんみりさせる感じではないし、お客さんも笑っていたが、こういうとき私は受け止め方が分からなくなってしまう。分からなく思うことにも申し訳なくなる。
伊坂幸太郎先生の『重力ピエロ』で、春が「本当に深刻なことは、陽気に伝えるべきなんだよ」(106頁)と言っていた。そうなのだと思う。

10代の頃から「死にたい」「生まれて来なければ良かった」と思うことが多かった。いじめられたり、自傷行為に及んだりしたこともあったけれど、誰かにそれを伝えるとしたら軽く伝えると思う。「こんなこともあったんですよ」くらいのトーンで。
そんな風に伝えて、もし相手に重く受け止められたら「言わなきゃ良かった!」って感じる気がする。あなたをそんな気持ちにさせたくて打ち明けたわけではないのに。いや、これは烏滸がましいか。他人の感情を私が規定すべきではない。すぐ忘れる。
だからと言って「へーそうなんだ。ところで今日の昼ごはん何食べる?」と受け流されたら、それはそれで傷付く。なぜ私はこんなにも面倒くさいのだ。

そんなことを考えてしまい、『Booorn!!』を聴く間ずっと頭の中がぐるぐるしていた。
私はライブを観に来ただけの、それだけの人でしかないのに、勝手に考えてしまい更に申し訳ないような気持ちにもなった。そして感傷的すぎる自分にうんざりする。

香川公演の当日から翌日にかけて、本屋ルヌガンガさんで買った『死ぬまで生きる日記』を読んだ。そこにはっとすることが書かれてあったので引用したい。

もしかしたら、死にたい私のままでもいいのかもしれない。

土門蘭『死ぬまで生きる日記』255頁

著者は10歳の頃からずっと「死にたい」と思ってきた。「楽しい」や「嬉しい」、「おもしろい」といった感情はちゃんと味わえるのに、どうして「死にたい」と思うのだろう?
20年以上そんな感情と向き合ってきた著者が、本の終わりに「もしかしたら、死にたい私のままでもいいのかもしれない」と書いている。これってすごいことだと思う。

自分の駄目なところは乗り越えて、完全になくさなきゃいけないものだと思っていた。
今では「死にたい」と思うことは殆どない。でも同世代が結婚して子どもを育てたり、会社でリーダー的地位に就いたり、それぞれの場所で生き方を見出してゆく間ずっと私は自分の生死について悩んでいた(る)なんて、スタートラインにすら立てていないようで情けなく感じるときはある。

「もしかしたら、死にたい私のままでもいいのかもしれない」という言葉は、そういう考え方もあるのかって目から鱗が落ちるようだった。
「死にたい」私をゼロにするのではなく、「死にたい」私と共存してゆく選択肢。そんなことは考えもしなかった。

綾斗さんのMCを聞いたとき、今はお母さんがライブを観に来るくらいだし良好な関係性を築けているのかもしれない。何かのインタビューで寂しい幼少期を過ごしたと仰っていたけれど、過去の寂しさを乗り越えたのかもしれないとか考えた。
本書を読んだら、乗り越えるとか、克服するとか、それだけが生き方の正解じゃないのだと、言葉にすれば当たり前のことに気が付くことができた。

以前、ブックカルテというサービスを通して名古屋にあるON READINGさんに選書を依頼したことがある。そのときのカルテに「ずっと同じところを行ったり来たりしている」「〇歳になった今も自分の過去を過去として昇華できていない」と書いた。
成功者の語りや、就活の自己PRには「過去に失敗や挫折を経験しました。でも克服しました。今ではこんなことまで成し遂げました」という文脈に溢れている。無意識にそれが正解だと思っていた。
いじめられた私、学校に行かなかった私、自傷行為をした私。過去の失敗を克服して、せめて人並みにならなければ。何か成し遂げなければ。

過去の記憶は忌まわしい呪いのようだ。成績優秀者に選ばれても、留学しても、会社で表彰されても、資格試験に合格しても、私は「まだ足りない」「まだ普通の人に追いつけない」と、ずっと思っていた。
「真面目だね」「えらいね」と言われても、「私は欠陥人間だからこれくらいしなければならないのだ」という意識があった。

本を読んだだけで、何かにずっと焦っている自分がなくなるわけではない。過去を無条件に受け容れることもできない。でも少し光が見えた気がした。

MCにどう反応すれば良かったのかとか、自分の過去をどう解釈してゆけば良いのかとか、それはやっぱり分からない。分からないから、分からないって躓くから、きっと考えられる。
遠回りに思えても、少しずつ言葉にして自分を受け止める練習をしてゆこう。

「精神的な変化というのは、真っ直ぐな階段を上るように起こるのではなく、ぐるぐると螺旋を描くように起こるものです。当人からしたら、同じところを何度も回っているように感じるかもしれません。でも外から見ると、時間とともに、Rさんのいる場所の深度や高さは確実に変わっている。だから、また元通りだなんて思って、落ち込むことはないんですよ」

土門蘭『死ぬまで生きる日記』96頁

ライブの日記

香川公演は綾斗さんの親戚がいらっしゃっていたからか、歌い出しを間違えたり、歌詞が飛んでしまったりすることがあった。
『月見うどん』だったと思うが、綾斗さんが歌い出しを早まってしまったとき、AAAMYYYちゃんが微笑んでいたのが良かった。
「今日は駄目ですわ」と笑う綾斗さんに対して、「でも親戚が来ているからか、いつもより表情が柔らかく見える」と仰るAAAMYYYちゃんも素敵だった。

夏樹さんは綾斗さんの親戚がいらっしゃることを当日(?)になるまで知らなかったらしく、「変に緊張する」と仰っていた。AAAMYYYちゃんは知っていたのかな?
綾斗さんは最初のMCでも「香川が自分の故郷ではないのに、四国というだけで変な情緒になる(四国の情緒になる)」ということを仰っていた。高知でライブはやらないのかな。

ライブを観に来るおばあちゃんとおじいちゃんに「耳栓を持って来てね」と、事前にお伝えしたらしい。「静かな子だったから、(今日ライブを観たおばあちゃんが)びっくりしていると思います」とも仰っていた。

MCでは綾斗さんの「老いることは良いことだと思います。成長することを進化と言って、老いることを退化と言うけれど、進化も退化も同じことだと思う」という言葉が印象的だった。
録音したわけではないので、仰っていた内容と少し違うかもしれないけれど、『ドライブ・マイ・イデア』に「老いてく それで幸せ」という歌詞があるし、通底した価値観を感じる。

曲の感想日記でも引用したゲーテは「寛大になるには、年をとりさえすればよい。どんなあやまちを見ても、自分の犯しかねなかったものばかりだ」(高橋健二編訳『ゲーテ格言集』43頁)と言っていた。
自分の不寛容さを情けなく思っていたときにこの文章に出会って、「年を取れば寛容になれるのだろうか」と考えたことを思い出す。

綾斗さんはまだ30代なのに、どうして老いることを好ましく捉えられるのだろうかと思った。「永くあまり余る生涯 いつか思いだして くだらないと思えりゃそれはそれで間違っていなくて」と歌えるなんてすごい。
辛いことがたくさんあったとしても、死ぬ間際に「いい人生だった」と思えれば、途中が完璧でなくても良いという気持ちもある。
一方、ずっと過去の自分を受け容れられないまま、より良い自分にならなければと頑張ってしまう側面もあるので、「いつか思いだして くだらないと思」ったら、私は自分のことを許せないかもしれない。というか思いだそうともしないか。
歌詞の「わたし」は、過去を免罪符にして言い訳するのでなく、自分なりに咀嚼して飲み込めているように思う。

印象的なMCの後「誰か他に何か言いたいことある?」と、全員に問いかける綾斗さんに対して「すごく良いMCだったと思います」と返すAAAMYYYちゃんが良かった。

やっぱり『ドライブ・マイ・イデア』が本当に良いな。
音楽でも料理でもインテリアでも引き算の考え方があると思う。ドラムが最も引き算の演出を効果的に魅せられるのではないかと感じた。そう思ったことだけ覚えていて、具体的にどこに感じたのか忘れてしまった……。

夏樹さんのドラムは『湧きあがる湧きあがる、それはもう』がすごくて、殆どドラムかベースを観ていた。駿さんの指が攣らないか心配になる程、小刻みに動いていて「ひー!」と思いながら眺めていた。

『((ika))』がリリースされてから、どうして『予言者』ではなく『預言者』なのか気になりつつ、あまり考えられていない。でも曲を聴きながら、「預言者って傲慢な存在なのではないか?」と感じた。
預言者とは、神の代弁者ということだと思う。相手が神である場合に限らず、代弁という行為そのものに傲慢さを感じる。なんでだろう。
代弁される側はそんなことを思っていないのに、代弁者がそう思いたいことをペラペラと話しているイメージがある(歪みすぎ)。

「あなたにもっと素敵な未来 訪れる 訪れさせよう」って、驕っているように感じる。驕っているのが良い悪いの話じゃなくて。

上司に「飲みに行こう」と誘われたら断りにくい。上司が「嫌だったら断ってくれて構わないから」と言ったところで、部下は「とか言いつつ、行かないと文句言われるんだろうな」なんて想像する。
上司が「運良く役職を得ただけで、まだまだ半人前だ」なんて思っていたとしても、周囲の人からすれば権力を感じてしまう。どんなに「嫌だったら本当の本当の本当に断って良いから!」と言ったとも、態度や発言に権威を纏ってしまうのだ。

預言者って、自分の発言に権力が生じることについてどう思っているのだろう。
歌詞の預言者には権力を纏った雰囲気がなくて、非常に人間味があって良いなと思う。「イカれてるって思うのかな」と続く自信のなさが愛おしい。

大阪公演の際に「明日はアンコールやりません」と仰っていたが、「そら、やりますわな」と『そなちね』を演奏してくださった。
東京公演以降は、初日の大阪や、綾斗さんの親戚が参加された香川のような特別感はなさそうだから、アンコールもないだろうか。
『ドライブ・マイ・イデア』で終わるライブも味わってみたいし、1曲でもたくさんの曲を聴きたいとも思う。
預言者は、どんな素敵な未来を訪れさせてくれるのだろう。