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THE WALKERS IN TOWNの日記

ウイスキーブランドのジョニーウォーカーが開催する「THE WALKERS IN TOWN」へ行ってきた。イベントは4月4日(水)から7日(日)まで開かれており、私が参加したのはAAAMYYYちゃんのライブがある6日(土)だ。
実は一回目の2023年にも参加した。昨年は周啓さんの弾き語りライブがあったのだ。毎年の恒例イベントになったらうれしい。

今回行ったライブ

・4/6(土) THE WALKERS IN TOWN@SHIBUYA CAST(東京)

ライブに行くまで

渋谷には好きな本屋さんが2店舗ある。奥渋にある「SHIBUYA PUBLISHING&BOOKSELLERS(SPBS)」と、表参道寄りにある「青山ブックセンター」だ。この日はライブ前に青山ブックセンターへ寄ることにした。
入店して3歩くらいで読書欲が刺激され「早く本を読ませてくれ!」という気持ちになった。あれも読みたい、これも読みたい……となる本屋さんを知っておくのは良いことだと思う。
本屋さんへ行くと、世界の広さを実感できる。知らない世界がたくさんある。すぐ目の前のことでいっぱいいっぱいになってしまう私は、本屋さんへ行き視野を広げることが一種の治療のようになっている。
死ぬまでに読みたい本を全て読み終えることができないのは、絶望であり希望でもあるのだと感じる。

店内をうろうろしながら「日経新聞の書評で気になっていた本だ」「読もうと思っていたのに忘れていた本だ」「最近出たこの本、気になっていたんだ」と、一人でずっと喋っていた(脳内)。
デニス・プロフィットとドレイク・ベアー『なぜ世界はそう見えるのか』、ビオリカ・マリアン『言語の力』、ニーナ・クラウス『音と脳』などと迷った結果購入したのが、武田砂鉄『わかりやすさの罪』だ。

武田砂鉄『わかりやすさの罪』

まだ読みかけではあるが、かなり面白い。一昨年から日記を書きながら考えてきたことと繋がるようで、がんばって続けてきて良かったと感じた。単行本の刊行当初から読もうと思っていたが(初版:2020年7月)、今読んで正解だった気もする。

自分の思ったことや考えたことを文章にするのは楽ではない。日記を始める前は頭の中の考えを文章に出力するだけだと思っていたが、そう簡単にはいかない。あれだけ頭の中で考えていたのに、文章にできないなんて何も考えていなかったのか?と、思ったりした。
紋切り型の表現や常套句に頼るならば容易いかもしれない。でも私はそれがすごく嫌というか、どこかで聞いた表現に頼るなら敢えて文章にする意味がないと考えてしまう。
ところで武田砂鉄さんは『紋切型社会』という本も書いているそうだ。読みたい。

「なぜ私は𓏸𓏸と思うのだろう」が気になって文章を書きながら考える。もちろん頭の中だけで考えることもあるけれど、文章を書いてゆくことでしか発見できないこともある。
でも、分かりたいのだけれど、分かりたくない。も「分かりたいけど、分かりたくはない」と書いていた。もう少しうまく説明できるようになりたい。

「なぜ私は𓏸𓏸と思うのだろう」に対して、それらしい答えはいくつも用意できるし、それで満足できる人もいる。私はいちいち疑問を覚えてしまうのかもしれない。それらしい答えをつるんと飲み込めてしまうことに「それでいいのか?」と思ってしまうのかもしれない。
安易に分かりたくない。分かったような気になるのが怖い。「分かったような気になるのが怖い」と思えなくなってしまうのが怖い。考えることは時間がかかるし大変ではあるけれど……。

そういえば是枝裕和監督の『怪物』を見た親戚が「よく分からなかった」と言い、すぐさまインターネットで考察を調べていた。今やありふれた行動だが、私は危機感を覚えてしまう。考察を読んで分かった気になった先にあるものってなんだろう?
他人の考察や感想を検索するのを否定したいわけじゃない。最近では原作を読んでいない人の感想が知りたくてFilmarksで実写版『十角館の殺人』を検索した。

もし、よく分からなかったとしても、まずは「分からなかった」という素直な感想を受け止めたい。そこから始めたい。結局よく分からなかったとしても、それでも良いじゃないと言いたい。
何度か日記やXに余白の話を書いた。「分からない」という余白。やっぱり分からなくて良い。分かりすぎないで良い。でも少しは分かりたい。結局うまく説明できなかった。

ライブが始まるまでまだ時間があったので、家から持ってきた綾辻行人先生の『黒猫館の殺人』を読んだ。再読のため読み進めるうちに作中の仕掛けを思い出すも、面白すぎてはじめて読んだときのように夢中になってページを捲った。やっぱり館シリーズは最高だ。

ライブの感想

THE WALKERS IN TOWN

昨年同様、ドリンク代(500円)を支払うだけでライブを観ることができた。実質無料かつ、ライブは40分くらいあった気がする。
お酒を飲むことができたらバーカウンターで注文したのに……貢献できずかたじけないの気持ちよ。

この日のライブはMONJOEさんとの二人体制だった。「ってことは『DAYZ』を歌ってくれるかな」と思ったら歌ってくれてうれしかった。
『DAYZ』の後には、新曲の『救世主』と、先月の「OPTION C」で始めて披露された『拝啓生きとし愛おしきあなた』も歌ってくださった。
AAAMYYYちゃんが、「いつも『拝啓生きとし愛おしきあなた』というタイトルを噛んでしまう」と、笑いながらお話していた(この日も嚙んでいた)。
その後は『TAKES TIME』、最後に『Come and go feat. Gliiico』を聴くことができた。
確か『Leeloo』や『被験者J』、『不思議』も聴けたはず……。

『拝啓生きとし愛おしきあなた』に触発されて、頭の片隅にあった考えが活性化されているので書きながら考えてみたい。
血の繋がっている繋がっていないに関わらず、子どもを育てる人ってすごいなと思う。昔と比べたら日本は豊かになった。でも数字上の豊かさが、心の豊かさや生きやすさを保証してくれるわけではない。
「生きづらい」という言葉をよく耳にするような、ますます生きにくくなる世界で子どもを育ててゆくという決断と勇気。

今、猫と一緒に暮らしているけれど、猫を残して先に死ねないと思う。猫が死んでしまうのは想像するだけで涙が出るくらい辛いし悲しいけれど、私が看取ってあげなければと思う。私のいない世界で、ご飯を与えてくれる人もおらず餓死してゆくなんてその方が耐えられない。
人間の場合、多くは保護者(親)が先に死んでゆく。子どもを残して先にこの世を去る。
例えば兄弟が事故や病気で亡くなり、急に甥や姪を育てることになった人もいるだろうし、自分で産んだ子を愛せない人もいるだろう。だから全ての人が子どもを残して自分が先に死ぬことに恐れを抱くとは限らないけれど、子どもがいない私からするとすごいなと思う。
もちろん人間の子どもは猫や犬と違って、成長とともに生きる術を学んでゆく。その違いはあるにしても、すごいなと思ってしまう。
誰かが(原宿さんだったか?)「子どもができる前に、親になる覚悟があったわけではない」と言っていた。当事者としての気持ちは分からないけれど、そういうものなのかなと考える。

「生きとし」という言葉は「生きとし生けるもの」と連語で使うことが多い。というかそれしか見たことがない気がする。「生きとし生けるもの」は「この世に生きているすべてのもの。あらゆる生物」という意味だ。
はじめて『拝啓生きとし愛おしきあなた』を聴いたときは、なんとなくAAAMYYYちゃんのお子さんに向けた曲なのかと思っていたけれど、「生きとし生けるもの」に「この世に生きているすべてのもの」という意味があるのならば、もっと広い対象に向けて歌っている気もした。
私は自分の育てている猫が一番かわいいけれど、野良猫も他人が育てている猫もかわいいし幸せになってもらいたい。私にとっての猫のように、もっと広範囲に愛情(?)を向けることができたら、世界との関わり方も変わってくるのかしら。
曲については「生きとし生けるもの」ではなく「生きとし愛おしき"あなた"」だから、やっぱり対象は一人なのかもしれない。

5月からTempalayのツアーが始まるから、AAAMYYYちゃんのソロライブはしばらくないのかな。いつかバンドセットの『救世主』も聴きたいし、大切な機会を逃さないようにしなくては。