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ドン・アンジェ 柳流合気武芸宗家

私と吉田憲治先生
ドン・アンジェ氏の語る 武術研鑽の日々

吉田幸太郎といえば、大正4年北海道北見で武田惣角に入門し、その後に惣角を植芝盛平に引き合わせたことで知られる。その吉田の子息である吉田憲治氏が、戦前アメリカに移住し、吉田家に伝わる柳流合気武芸をドン・アンジェ氏に指導していた。憲治氏との出会いから50年、アメリカで柳流の指導に当たる氏の求道的とも言える武術への姿勢は、日本の武術家以上に武術家らしい姿をほうふつさせる。また、1950年代に渡米した親和体道の井上方軒氏の講習会の模様など、貴重な歴史の生き証人でもある。
※所属や肩書きは、季刊『合気ニュース124号』に掲載当時のものです。


生い立ち

 私が生まれたのは1933年、ニューヨーク州ユーティカである。父方はフランスのバルフォー伯爵家の出だったが、アイルランドに移って何代かののち、祖父の代になって、一家はアメリカに移住した。そのため父はアイルランド系だと言っていた。母はモーホーク族のインディアンだった。

 今思うと家は貧しかったが、自分では貧しいとは少しも思っていなかった。とにかく我々はこざっぱりとした格好をさせてもらい、立派な家財道具こそなかったが清潔な家に住み、食事も、ぜいたくとまではいかないが、豊かだった。

 家はいわゆるゲットー(ユダヤ人居住地区)のなかにあった。そして近所の人たちほとんどが我が家同然、ブルーカラーだった。第二次大戦が勃発したヨーロッパからの避難民で、ヒットラーの魔手を逃れてきた人たちだった。ドイツ人とオーストリア人がほとんどで、中にはポーランド、イタリア、フランスからの人たちもいたが、差別や喧嘩もなく平和に暮らしていた。

 当時、映画やラジオではさかんにドイツを非難攻撃していた。我々が住んだのはドイツの居住区だったが、ドイツの人たちはビール工場でビールを造りながら平和に暮らしていた。そのため私は当時の「ドイツ憎し」の風潮に染まることもなかったし、それは、のちに出会うことになる私の師に対する態度にもおおいに影響したと思う。

 日本軍による真珠湾攻撃があった時、ワシントンにある桜の木を全部切り倒せと誰かが騒いだのを覚えているが、まったくばかげたことだと思った。それは戦争とはまったく関係のないことだから。私の生涯に最大の影響を与えることになった、最初の日本人である吉田憲治先生に会った時に、彼を拒む気持ちが私にまったくなかったのもそんな考え方があったからだろう。

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柔術への憧れ

 真珠湾攻撃の少し前と終戦直後に、映画館で「Mr.モト」を主人公にしたシリーズものが上映されていた。モトは国際警察の一員で、日本人だが、彼が忠誠を誓った相手は特定の国ではなく、正義だった。

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