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大沢万治 弓道範士十段

阿波研造範士の教え 正しきを求めて

「何事も反省して自分を正せ、すべてに正しきを求めなさい」
幼少より和漢思想を学び、二十一歳で弓と出合ってからは、ひとかどの人物たらんと並々ならぬ精進を続けた阿波研造範士。
この阿波範士に手ほどきを受け、七〇年以上にわたる弓道人生を歩まれてきたのが大沢万治十段である。師の教えを守り、弓を通し、常に物事の正しき本質を己に求める姿勢、生き方を後進に指導されている大沢師範に、師への思い、弓への思いをうかがった。
(取材 2005年3月7日 明治神宮武道場至誠館第二弓道場にて)
※所属や肩書きは、季刊『道』に掲載当時のものです。

<本インタビューを収録『武の道 武の心』>


「的を狙うな、的の芯を狙え」

―― 昨年大沢先生が行なわれた範士研修会の講話の記録(月刊『武道』12月号)を読ませていただき、阿波研造という立派な弓の先生についてはもちろんのこと、大沢先生ご自身の弓を通した人生哲学にたいへん感銘を受けまして、今回取材をお願いしたわけですが、本日お時間をいただけましたこと、心より御礼申し上げます。

―― 先生はいつ頃から弓道を始められたのでしょうか。

 兄が中学で弓道をやっていた関係で、岩手中学の時に弓道部へ入りました。十三歳の時です。すぐに弓道が好きになりました。
 岩手中学の弓の先生をやっていたのが、東京の本多利時先生(本多流)のお弟子さんで、渡辺重之助という逓信省(郵政省の旧称)のお役人でした。盛岡へ帰ってきて製材業をやるかたわら、中学校に来て教えていました。その先生との関係で、阿波先生が盛岡に来られるのです。
 その時は阿波先生は、どこかに行く途中で寄ったんだと思います。昼間の稽古ではなくて、夜に巻藁の基本の練習を教えるからと。盛岡近在の弓を引く人たちに話が通って、岩中の弓道部だけは学生でも来てもいいということになり、巻藁の稽古をつけてもらいました。それが一回目で、昭和七年だと思います。中学二年の時です。
 それから毎年岩手県に講習に来られるようになった。三日間の講習です。それはそれは価値のある講習でした。普段の稽古とは違う、厳しいものでした。当時阿波先生は五十代半ばだったでしょうか。

―― どのような指導をされたのでしょうか。

一番記憶に残っているのは昭和十年の講習です。先生は我々に「的を狙うな」と。的を狙わないでどこを狙うんだと思った。的の芯の芯、「これだ!」っていうところを狙えという。巻藁でも、漠然と真ん中を狙うのではないんだと。「あの藁だ!」と。すると集中してくる。漠然とただにらめっこしていると緊張するし、筋肉に力が入りすぎてしまう。
 的を狙うと漠然としてしまうんです。二十八メートルの距離で三十六センチの的を射る。地方の大会では、競技のあとに余興をやります。金的という、金紙を貼った的(四寸、三寸五分、三寸、二寸五分と、大きさに段階がある)があるのですが、これを狙わせる。中たれば終わり。中たらないとまた並んでやる。みんないいところにいくんです、金的に近いところに。三十六センチの的なら全部中たっているようなものなんです。それなのに、どうして金的ではなく、三十六センチの的を狙った時に中たらないのか。つまり、「的を狙うな」とはそういうことなんです。的にとらわれるなということです。
 現在も「的を狙うな」という言葉を使う先生も多いんですが、本来の意味は、的の芯を狙え、「そこだ!」というところを狙えということなんです。それが本当だと私は思っています。「的を狙うな」という言葉を誤解しちゃならないと思います。


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「離すんじゃない、放れていくんだ」

 それから上体は柔らかにしろと言われました。筋肉をがちっと構えて力むんではなく、柔らかく。そして右手の力で引くのではなく、「左手で押し開く」という印象を持てと。これは、これだけは守れと言われた基本のひとつです。

 もうひとつは気合い。気を大事にしなきゃいけないと。ここ(腕)だけで頑張るんでなくて、気力の充実を高める。気力が充実すると放れていくんだと。離すんじゃない、放れていく、爆発が起きるというのです。だから「何事も、一動作、一呼吸だよ」と。引いて放すまでの一呼吸です。途中で息をついでフカフカしていたんじゃ爆発しないんです。こう爆発を起こせと。

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