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稲葉稔 明治神宮武道場 至誠館館長

合気道における術と道

稲葉師範は、鹿島神流の達人・国井道之の剣風を受け継ぎ、独自の合気(武)道の世界を探求している人。武における術の追求、道の探求ということに関して、透徹した持論を展開する。同師にざっくばらんに語っていただいた。
(取材 七浦冬夫)
※所属や肩書きは、季刊『合気ニュース123,124号』に掲載当時のものです。
※このインタビューは2号分です。

試合がないということ
―― 常在戦場 ――

―― 合気道には試合がありませんが、稽古をする目標をどのように定めていったらいいのでしょうか。

 試合をしないというのは、植芝盛平翁の一つの見識ですね。一つの説明として、チャンピオンシップというか、ナンバーワンを作らない。それよりもそれぞれに自分の世界を極めるということで、「オンリーワン」を大切にしたのだという考え方があります。しかし、よくよく考えると、別にナンバーワンを作らないために試合がないのではないと思います。
 人生の戦いにおける勝負というものに本当に役に立つ武術を鍛練するには、「どういう試合が出来るか」が問題なのです。

 昔の試合では、負けて負傷することを恥と考えるところから、中途半端な勝負を嫌い、負傷するよりも潔く死を選んだ。それは生死を決する真剣勝負を意味します。「刀」でどういう試し合いが出来るのかということになります。

 今ならば、けん銃で、どういう試し合いが出来るのだ、ということになる。本当の戦いにおいて、ルール化されたスポーツのような試し合いが役に立つのかどうか? 疑問ですよね。
 えてして、今のスポーツのチャンピオンシップというのは、決められた時間で、決められた場所で、決められたルールの中で戦っている。勝ったからと言って、それがいったいどの程度「人生の戦い」において役に立つのだろうかと思います。
 そう考えると、簡単には、「試合があるからいい」「試合がないから悪い」とは言えないのです。体育スポーツとして楽しいか否かは言えるでしょうが。

―― そうですね。

 私は、そういう意味で合気道の場合、試合がないほうがいいと思っています。試合があると、何月何日、ここで試合なんだ、チーンと鳴ったら、一生懸命になる、というのでは、人生の勝負において、追いつかない場合がでてきます。今出会った瞬間が、一生を左右する勝負になるかもわからないのだから……。

 人生はそういう、自分ではまったく予期し得ない時というものが、勝負時だったりするのです。試合形式を取り入れると、その認識がまったくなくなってしまう場合が出てきます。試合がなくとも毎日24時間が「試合」なんだ、いつでも戦場なんだ、という修練をしていくことのほうが人生を油断なく過ごすことが出来る。そのほうが武道の根本です。

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