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芳根鋭蔵 剣道範士

剣は、実社会に通じて、はじめて「道」になるのです

術を超える剣の道の厳しさ、指導者の心構え、師弟の情愛の深さ、平和への思い、失いつつある日本人の心……厳しい時代を生き抜いてこられた方の言葉にはいつも嘘がありません。80年という長きにわたる剣道人生を歩んでこられた芳根範士のお話の数々は、理屈に振り回されがちな現代の私たちに、あらためて武道修行の意味を問うものでした。
(取材 2006年4月10日 芳根範士の事務所にて)
※所属や肩書きは、季刊『道』に掲載当時のものです。

<本インタビューを収録『武の道 武の心』>


技というのは、攻めなんです。気で攻め、技で攻め、剣でおさえる

―― 稽古を拝見させていただきありがとうございました。何人もの方のお相手を次々にされても、先生の息はまったくあがらないのですね。驚きました。

 先ほどの稽古は、私のほうは元立ちといって、指導者の前に5人~10人並ばせて、それを次々と交代させながら稽古をしていくものです。相手がへたばったかどうかの見極めをしっかりしないと、楽な稽古をだらだらやることになってしまいます。言葉は悪いですがいじめるという、いい言葉で言えば、相手の息があがってしまうくらい指導者が攻めて打っていけば、むこうも動かざるを得なくなる。昔は今のように対等な稽古なんてやらないで、そういうように猛烈に打つ「かかり稽古」をやっていたんです。そういう苦しい稽古をさせないと、ほんとうには強くならないのです。

 今は指導者がどんどんと攻めて打っていないから、相手に呼吸する余裕ができてしまう。そういう余裕を与えてはいけないのです。教えるほうも楽な稽古をしますからね。

 技というのは攻めなんです。攻めるというのは、気で攻め、技で攻め、剣でおさえる。この三つで攻めると相手は金縛りにあったように身動きが取れない。しかし完全に攻めてしまっては、段の違う人が相手ですと稽古になりませんので、ある程度は攻めておいて、打てるだけの気力、体力は残しておいてやる、というように指導者がいろいろと考えていかないと。ただやさしくしていたのではだめになる。指導者の心構えというのは非常に大切なんですね。

剣は受けるのでなく、応じなければなりません

 打突の好機、すなわち打つ、突くには、三つの好機がある。まず、先に攻めて十分なところから打っていくというもの。相手が攻められて苦しくなって下がったところをすかさず打つ、それから攻められた相手が苦しくなって無理に打ってくる時に打つ。無理に打ってくるから出小手を打たれたり胴を抜かれるんです。それから相手が打ってきて、はずれたところをすかさず打ち返す。

 剣には「受ける」ということはない。「応じる」ということが大切です。相手の剣を受けてすかさず返す、受けっぱなしというのはない。「受ける」だけではなく、そこに「応じる」ものがなかったら進歩がないということです。打たれるということはやられると同じなのですから。

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