少年狩り 野田秀樹戯曲集1
昭和60年再販。角川文庫版。380円登場人物――西田幾多郎、護良(もりなが)親王、サン・テグジュペリ、少年1・2・3、あんあん、のんの、立の木リサ、その他――をいちいち説明してもはじまらない。南北朝時代から600年をへだてた世紀末、すなわち現代の、たとえば「人に刃物を持たせると危ない」ような暑い夜、愛の絆などが問題になるのではけっしてなく、「うつつの世は夢、夜の夢こそまこと」である現世において、「月の光と鏡のいたずら」によって事が起き、鎮まり、ついに「鏡の海の果ては、行く先々で千夜一夜」という言葉で果てる、烈しさのあまり人の手を焼く、華麗不遜な、失なわれゆくものの物語。
dozeu.net雑想ブック/所英明
平成17年初版。dozeu.netによる自費出版。定価980円。古本ではありません。■製作時の仮目次(完成時に若干変わりましたが、だいたいこんたもん)dozeu.net批評ブックまえがき 半世紀を目前にした痩せ我慢の記1.時をかける少女論2.天国にいちばん近い島論3.東京物語評4.ラスト・サムライ評5.初恋の来た道評6.ノッティングヒルの恋人評7.トニー・パーキンスとサイコの影※8.アート・ガーファンクル・コンサート評9.岡村孝子コンサート評10.自由と永遠にとどく日に →要改稿※間奏曲(デパ地下、ヴィレッジ・バンガード、愛知万博、スコーン、京都)※11.The Catcher in the Rye評12.夏の小説13.1972年の栄養失調 →要改稿14.やさしさと親切の精神史 →要執筆※15.書くことの根拠 →要改稿あとがき
土星の環/所英明
平成16年初版。dozeu.netによる自費出版。古本ではありません。定価1200円ベネッセ・コーポレーション発行 月刊文芸誌「海燕」95年3月号224頁から『金子昌夫・同人雑誌評』抜粋とりとめのない表現 世の中には、似て非なるもの、というたとえがある。最近の小説に見られる傾向は、つまりは冗長と簡明をとり違えたことによって起る、その好例であるように思う。いたずらに書き綴られる文章は、滑らかでとどこおるところがない。だがよく読んでみると、そこで必ず言語化されなければならぬ文字は、羅列の中のわずかな部分だ。この場合、作者は淡々と綴っているので、それが簡明だと考えているのかもしれない。しかしそれをいうのなら、簡明というのは、多くの語るべき事象を、凝縮してひとつの表現として結実させることで、はじめて成立つものなのである。結晶と來雑物を混在させて並列することとはなんの関係もない。このあたりへの留意を、できれぱもう一度確認したいものだと思う。 所英明「尾道ラビリンス」(「新現実」44号、東京都)をまずとりあげたい。この作品は、小説という形式だからこそ成就しうる、ある感動を与えられる一篇である。独身の若いサラリーマンがやっととれた休暇を利用して、ハイウェイバスで、尾道へ出かける。車中で小学生の頃隣家に住んでいた麗子に出逢う。主人公の弘明は思わぬ遭遇に驚きながら、彼女と行動を共にする。彼等は弘明が中学生になって、彼の父の転勤のため別れ、以後たまに訪ね合うことはあっても、その後麗子の父母の離婚のため、いっそう疎遠になっていたのだ。すっかり大人になった二人は尾道の観光を楽しむ。その時、弘明は、尾道の入り組んだ路地の傍にかつて麗子と隣り合せで住んでいた二人の家を見出す。その晩ホテルで麗子と結ばれるが、翌朝麗子は浴室の鏡の中に消えていく。弘明は昨日見た家を見つけ、麗子宅の玄関に立つ。ちょうど帰宅した十代の少女である制服姿の麗子と出会い、旅行の途次同行した彼女に渡そうとしたブローチを贈る。麗子は彼に少年時代欲していたレコードを手渡す。帰京した弘明は、友人から麗子が高校生時代、自宅の火事で焼死していたことを聞き出す。これは哀切な恋愛小説といってよい。むろんすでに亡い女性との感傷旅行という設定は、現実にはありえないことだが、それが決して意想外という印象を与えないほど切実で、逆にリアリティがある。これこそ小説だけが持つ表現力の強さであるといってよかろう。 宇佐美安子「イレーヌの店」(「カブリチオ」3号、東京都)は、麻雀荘を切り回すルイ子という女性を主人公にした物語である。(以下略)